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	<subtitle type="text">no more capitalism-もううんざり！</subtitle>
	<updated>2012-05-19T06:53:17+09:00</updated>
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		<title>パンフレット『瓦礫論』</title>
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		<published>2012-04-23T23:27:51+09:00</published>
		<updated>2012-04-27T21:04:46+09:00</updated>
		<category term="人権" label="人権" />
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		<summary type="html" xml:base="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/" xml:lang="ja">このブログに書いてきた瓦礫についてのエッセイに加筆してパンフレットにしました。かなり加筆した箇所もありますので、ぜひお読みください。まえがきを以下に転載します。PDF版は→こちら目次まえがき第一章 原発輸出と汚染瓦礫の処理---東京をゴミ捨て場に！第二章 運動の想像力について---「東京をゴミ捨て場に」再論第三章 10万年を見すえた運動の民主主義---瓦礫問題再論第四章 「拡散するな」から「被曝させるな」へあとがきまえがきこのパンフレットは、私が昨年から今年にかけてブログに書いた瓦礫問題についてのエッセイに若干の加筆をしてまとめたものだ。福島原発事故がもたらした広範囲にわたる放射能汚染は、東日本大震災の津波被害にあった地域をも襲い、瓦礫もまた多かれ少なかれ汚染された。政府は被災地の復興の妨げになっている瓦礫の処理を震災の地元だけではなく、日本全国の自治体による分散処理という方針を打ち出した。以降、脱／反原発運動のなかで瓦礫の受け入れに反対する運動が急速に拡がってきた。「汚染瓦礫拡散反対」「瓦礫受け入れ反対」の拡がりのなかで、私はある種の違和感を感じてきた。その違和感を言葉にしたのがこのエッセイである。しかしだからといって、政府が被災地の復興のためには瓦礫の広域処分が必要であるという主張に、私はまったく納得していない。瓦礫受け入れ反対運動の多くが批判しているように、政府の広域処理は説得力に乏しい。政府の言い分は、被災地の復興を支援するというのであれば瓦礫を受け入れるべきである、というある種の脅しである。瓦礫受け入れの是非を被災地を見捨てるのかどうかという踏絵にしようという意図を私は感じる。原発を推進し、日本の経済的繁栄のために地方を犠牲にしてきた近代以降のこの国の歴代の政権が口にする「復興」を私は信用することができない。問題は「復興」の内実である。「復興」の主導権を政府や資本が握っているかぎり、いかなる意味でも東北の「復興」は、中央の政府や資本の利益に利用される従属的「開発」にしかならないと思う。他方で、瓦礫拡散反対の主張への私の違和感は、瓦礫が放射性物質によって汚染されているとすれば、それが被災地にあることによって被災地もまた危険にさらされているはずであり、拡散に反対することが、被災地に瓦礫の危険を押しつけることになりはしないか、という疑問である。被災地の人々が瓦礫の危険を引き受ける義務があるのだろうか。私は、そのような義務はないと考えているし、反対を主張する人々も同様だろう。しかし、「瓦礫引受けを拒否するのであれば、誰に引受ける責任があるのか？」という問いと、責任のある者に責任をとらせる運動を視野にいれない限り、受け入れ反対は被災地への押しつけという間違ったメッセージを発信してしまうのではないか。だから、被災地に放射性瓦礫を事実上押しつけるような反対運動をすべきではない、というのが私の主張である。政府の瓦礫広域処理の踏絵を拒否すること、しかし、放射性瓦礫を被災地に押しつけるべきでもないこと、責任のある者に責任をとらせること、この三つの条件を満すスタンスはありうるのだろうか。これが、瓦礫について、この間私が考えてきたことである。PDF版は→こちら</summary>
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<![CDATA[<div>このブログに書いてきた瓦礫についてのエッセイに加筆してパンフレットにしました。かなり加筆した箇所もありますので、ぜひお読みください。まえがきを以下に転載します。<br />PDF版は→<a href="http://www.alt-movements.org/nomorecap_files/garekiron_e.pdf">こちら</a><br /><hr><br />目次<br />まえがき<br />第一章 原発輸出と汚染瓦礫の処理---東京をゴミ捨て場に！<br />第二章 運動の想像力について---「東京をゴミ捨て場に」再論<br />第三章 10万年を見すえた運動の民主主義---瓦礫問題再論<br />第四章 「拡散するな」から「被曝させるな」へ<br />あとがき<br /><br />まえがき<br />このパンフレットは、私が昨年から今年にかけてブログに書いた瓦礫問題についてのエッセイに若干の加筆をしてまとめたものだ。<br /><br />福島原発事故がもたらした広範囲にわたる放射能汚染は、東日本大震災の津波被害にあった地域をも襲い、瓦礫もまた多かれ少なかれ汚染された。政府は被災地の復興の妨げになっている瓦礫の処理を震災の地元だけではなく、日本全国の自治体による分散処理という方針を打ち出した。以降、脱／反原発運動のなかで瓦礫の受け入れに反対する運動が急速に拡がってきた。<br /><br />「汚染瓦礫拡散反対」「瓦礫受け入れ反対」の拡がりのなかで、私はある種の違和感を感じてきた。その違和感を言葉にしたのがこのエッセイである。しかしだからといって、政府が被災地の復興のためには瓦礫の広域処分が必要であるという主張に、私はまったく納得していない。瓦礫受け入れ反対運動の多くが批判しているように、政府の広域処理は説得力に乏しい。政府の言い分は、被災地の復興を支援するというのであれば瓦礫を受け入れるべきである、というある種の脅しである。瓦礫受け入れの是非を被災地を見捨てるのかどうかという踏絵にしようという意図を私は感じる。原発を推進し、日本の経済的繁栄のために地方を犠牲にしてきた近代以降のこの国の歴代の政権が口にする「復興」を私は信用することができない。問題は「復興」の内実である。「復興」の主導権を政府や資本が握っているかぎり、いかなる意味でも東北の「復興」は、中央の政府や資本の利益に利用される従属的「開発」にしかならないと思う。<br /><br />他方で、瓦礫拡散反対の主張への私の違和感は、瓦礫が放射性物質によって汚染されているとすれば、それが被災地にあることによって被災地もまた危険にさらされているはずであり、拡散に反対することが、被災地に瓦礫の危険を押しつけることになりはしないか、という疑問である。被災地の人々が瓦礫の危険を引き受ける義務があるのだろうか。私は、そのような義務はないと考えているし、反対を主張する人々も同様だろう。しかし、「瓦礫引受けを拒否するのであれば、誰に引受ける責任があるのか？」という問いと、責任のある者に責任をとらせる運動を視野にいれない限り、受け入れ反対は被災地への押しつけという間違ったメッセージを発信してしまうのではないか。だから、被災地に放射性瓦礫を事実上押しつけるような反対運動をすべきではない、というのが私の主張である。<br /><br />政府の瓦礫広域処理の踏絵を拒否すること、しかし、放射性瓦礫を被災地に押しつけるべきでもないこと、責任のある者に責任をとらせること、この三つの条件を満すスタンスはありうるのだろうか。これが、瓦礫について、この間私が考えてきたことである。<br /><hr><br />PDF版は→<a href="http://www.alt-movements.org/nomorecap_files/garekiron_e.pdf">こちら</a></div>]]>
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		<title>アカデミズムの「科学性」と価値判断</title>
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		<published>2012-04-14T11:49:29+09:00</published>
		<updated>2012-04-14T12:23:50+09:00</updated>
		<category term="理論と思想" label="理論と思想" />
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			<name>toshi</name>
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		<summary type="html" xml:base="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/" xml:lang="ja">●自然科学のばあい原発事故でまっさきに問われたのは、原発を安全であるとみなして推進してきた研究者、特に原子力工学など、原発の開発に直接関連する学問分野の研究者の事故に対する責任問題だった。第二次世界大戦以後半世紀以上にわたって、日本においても原発の開発に必要な科学技術の研究に多くの研究者が動員されてきた。そして、こうした研究には電力業界や政府から多額の研究費など資金的な援助が支出され、「原子力村」と呼ばれるような産官学一体となった原発を推進するインフォーマルな人的なネットワークが形成された。311以後であればごく当たり前に議論されるようになった様々な原発のリスクや技術的な問題点を公正に論議することが事実上困難な雰囲気が作られてもきた。その結果、原発に疑問を抱く研究者たちは十分な研究環境が与えられなかっただけでなく、大学や学会における正当な評価を得られないままであった。原発の危険性や技術的な問題を指摘してきたのは、アカデミズムの周辺に追いやられてきた人々であり、在野の研究者たちだった。国策がらみの開発や研究では、こうした傾向が一般にみられることであり、原発にのみみられる特別なことではない。しかし学問とは真理の探求であって政治によって研究の結論が左右されるはずはないという先入観によって、自然科学の政治的なバイアスが見逃されがちだったし、現在でも基本的に科学の政治的中立性への信仰は根強い。自然科学であれば、一定の自然法則から必然的に導かれる結論に異論や議論の余地はないようにみえる。たとえば、原発のメカニズムの根本にある「核分裂反応」(原子核に中性子をぶつけて核分裂生成物を生み出すこと)そのものは、誰が説明しても変わらない。この核分裂反応を利用して爆弾を作ることもできれば発電所を作ることもできる。原爆や原発のメカニズムそのものについても、どのように設計すれば意図した通りに正しく作動するかについては、専門家の間で見解の対立はない。見解に対立が生じるのは、自然科学によって得られた知見をもとに、実用化に必要な技術開発を行なうことの是非である。この是非の部分は、自然科学に内在的な理論や法則などによって導くことはできない。研究者の間で「原爆も原発もともに実用化すべきである」と考える者、「原爆のような大量破壊兵器の開発はすべきではないが、原発のような『平和利用』であれば開発を推進すべきだ」と考える者、「原爆も原発もリスクが大きすぎるから開発すべきではない」と考える者など考え方は分かれる。このように見解が分かれる場面では、自然科学者は自らの専門家としての知見だけではなく、それぞれの研究者がどのような社会観や価値観をもっているのか、研究対象にどのようなスタンスで臨んでいるのか、に大きく依存する。非専門家の人々と大きく異なるのは、専門家は事柄の詳細を理解しており、それがどのようなメリットとデメリットを持つかを判断するための材料をより多くもっているという点である。しかしこのメリットとデメリットは、自然科学の理論や法則から必然的に導かれるとは限らない。核分裂反応をメリットとみるのかデメリットとみるのか(どちらの立場に立つかで原爆と原発への態度が真逆になる)は、彼らの価値観あるいは社会観に依存する。同時に彼らの価値観や社会観は、彼らの専門家としての立場によっても形作られもする。原発を推進する立場から研究開発に従事している専門家は、みずからの立場を正当化する価値観を持ち、原発を必要とする社会観を持つことによって、自己の専門家としての研究の正当性を維持しようとする。しかし、かれらは、原発を必要とする価値観、社会観をあらかじめ持っていたがゆえに、原発推進の研究に携わるという選択をしたのかもしれないから、研究者としての専門性と価値観、社会観との間には相互に依存的な関係がある。このように、自然科学の分野においても、科学としての客観性は極めて狭い範囲でしか成り立たない。原発事故でも専門家が客観的で中立的な立場から事故を分析して見解を述べているかのような印象を与えている(マスメディアや政府がこうした印象を意図的に与えようとしてきたともいえる)が、原発について賛成でも反対でもないという原発の専門家はありえないのであって、かならずどちらかの立場をとっているはずなのである。そして、この立場は科学的知見に基づくだけでは形成されず、価値観や社会観に依存する。しかし、往々にして専門家自身ですらこのことに自覚的ではなく、自己の立場を学問・研究の客観性に基づくものだと信じている場合も少なくない。だから、専門家は事実と自己の価値判断を区別せずにであるかのように語るのである。福島原発事故のような深刻な大惨事が現実のものとなったときに、原発を推進してきた研究者たちが、この事故に対して専門家としての知見を駆使して的確に対処できたかといえば、必ずしもそうとはいえない。むしろ事故の深刻さを直視するよりも事故の収束の可能性を期待する立場に立って事故の過少評価が繰り返された。原発を推進してきた専門家は、事故後も、原発は安全な構造をもつように設計されているという前提条件を根本的に反省することができなかったようにみえる。事故直後に予測されたメルトダウン、水素爆発、放射性物質の拡散、住民や原発事故現場の労働者の被曝など、深刻な被害が現実に生じていたにもかかわらず、原発を支持する専門家は、従来の原発の安全性の観点に立って被害を過少に評価して政府や東電の楽観論にお墨付きを与え、事実を隠蔽することに加担してきた。彼らは、政府や電力会社の対処に加担することはあっても、政治や経済の利害から離れて事故に対処するようなリーダーシップをとることがなかった。このことは、事故の処理、再稼動の是非、低線量被曝が重要な議論になっている現在、専門家がどのような立場に立っているのかはますます重要な問題となっている。●経済学のばあいそれでは、原発に対して経済学はどのようなスタンスをとってきたのだろうか。統計的なデータをとっているわけではないが、多数の経済学者は暗黙の前提として原発を肯定(容認)する立場を取ってきたのではないかと思う。エネルギーは経済の基盤をなす重要な条件であり、経済成長の前提条件にもなる。経済学の場合、原発への関心は、市場経済の観点から、エネルギー需給やコストとしてのエネルギーが経済成長にもたらす影響にあった。市場経済からは隠れて見えない原発の諸問題、とりわけ事故のリスクや放射能汚染が環境や人体にもたらす影響、核兵器の技術との密接な関係については無視あるいは軽視する傾向があったとえいる。社会科学が自然科学と根本的に異なるのは、前提となる基本的な原理が複数併存しているという点である。経済学の場合、主流の経済学は近代経済学(ミクロ経済学とマクロ経済学)であるが、マルクス経済学や制度派経済学のようにパラダイムが異る有力な理論が存在する。経済学も学問である以上、科学性への指向を強固に持ちながらも、研究者の価値観、社会観がより内在的に学説の選択や研究の方向性に影響する。近代経済学と比べてマルクス経済学は一般に資本主義経済に対して批判的なスタンスをとるが、原発に関してはこの一般的な傾向があてはまらない。マルクス経済学は原発が社会問題化しはじめた1970年代以降現在に至るまで、原発をめぐる経済システムの問題に正面から挑戦するような創造的な理論構築で目立った成果をあげてきたとはいえない。むしろ、日本の原子力平和利用に経済学者が果した「罪」は大きい。正力松太郎が初代委員長に就任した原子力委員会の委員に湯川秀樹がいたことはよく知られているが、ここに経済学者の有沢広巳もおり、彼は1970年代から80年代にかけて原子力産業会議の議長を務めた。有沢は労農派のマルクス経済学者であった。彼がいつどのような経緯で「マルクス経済学」から転向したのかは興味深いことだ。欧米のアカデミズムとは異なってマルクス経済学の影響が非常に強かったこの国で、彼のような学問的な経歴をもつ経済学者が政府、財界と「協調」することは決してめずらしくないのではないかと思う。環境への関心は1960年代の高度経済成長がもたらした公害問題をきっかけとして経済学のなかにも関心が拡がった。私の独断と私自身の経験からあえて言うとすると、パラダイムの転換をもたらすような経済学と環境の問題に取り組んだ先駆者は日本では、宇沢弘文{『自動車の社会的費用』,岩波新書, 1974年}や玉野井芳郎{『エコノミーとエコロジー 広義の経済学への道』,みすず書房,1978}であり、原発に対する批判的な理論的な枠組に挑戦しつづけてきたのは室田武だろうと思う。海外では、ニコラス・ジョージェスク=レーゲンだろうか。ジョーゼスク=レーゲンの功績は経済学に熱力学の概念であるエントロピーの概念を応用しようと試みた点にあるが、1970年代に書かれた論文を集めた『経済学の神話、エネルギー、資源、環境に関する真実』の編訳者の「あとがき」に、著者の主張についての次のような簡潔な解説がある。引用：経済過程のエントロピー的性格を重視する著者の理論から生ずる政策的要請は、資源の浪費はやめよ、有限な資源をともに消費するわれわれの子孫の生命価値を重視せよ(瑣末なことではあるが、著者自身には子がなく兄弟もいない)、戦争と軍備は全廃せよ、人口は有機農業のみによって養えるところまで定常状態をこえて減少させよ、富んだ国はその富を低開発へ分け与えよ等々、現代の先進国社会社会の常識からは、ほとんど超越的なものばかりである。(ニコラス・ジョージェスク=レーゲン『経済学の神話、エネルギー、資源、環境に関する真実』小出厚之助、室田武、鹿島信吾訳、東洋経済新報社、1981年、p.279)現代経済学が(中略)いかに哲学的視野に欠け、個別国家の御用経済学になり下がっているか、また将来の科学技術の進歩に関する専門的知識もないままに、従来の成長のトレンドを単純に外挿して、経済は成長する必然性があると断定しているか、さらに現代の経済学が個別経済主体のみを重視して、種としての人類の立場を軽視しているか、政治はもとよりフランスでいう人間科学の諸分野、もっと広く自然科学との統一の場の成立から己れを孤立させようとしているのかに、、疑問を持たぬ人も少なくないであろう。1971年のアメリカ経済学会の大会に客員講演したミュルダールとJ・ロビンソンが、ともに経済学の危機を説き、ミュルダールは経済学が超分野的、制度学派的にならなくてはならぬといい、ロビンソンがへそ曲りが出なくてはならぬといったその年に、[ジョージェスク=レーゲンの]『エントロピー法則と経済過程』が出版されたのは、不思議な一致であるかも知れない。(同上)30年前に書かれたこの文章は残念なことに今現在でも完全に当てはまる。むしろ経済学の危機は市場原理主義という反革命によって封じこめられた。結果として、経済学が可能にしたかもしれない原発を否定する理論的挑戦も大きな力を持ちえないまま現在に至った。今私たちはもう一度この70年代にまで遡って軽視されてきた経済学の潮流を再発見することが必要な時代と向きあわざるえをえなくなっている。言い換えれば、近代経済学は原発の事故をふまえて、根本的なパラダイムの転換に挑むのか、それとも既存のパラダイムを保持して原発の事故をもたらした経済システムの根本的な問題から目をそらすのか、という厳しい問いかけに直面していることを自覚できるかどうかが問われている。では、マルクス経済学はどうなのか？資本主義に対する総合的な批判理論としてマルクス主義を越えるパラダイムは未だにあらわれていない。マルクスの経済学の特徴は、資本主義経済を構成する基本的な諸カテゴリーを根源から批判的に分析してみせるところにあった。近代経済学では与件とされるような諸概念(例えば、商品、貨幣、労働など)を疑問の俎上にのせることを通じて、資本主義の否定へと至る。政治学の分野においてもマルクスは、国家や権力を根源的な疑義にさらし、国家と資本の廃絶を構想した。このような批判の全体理論であっても、経済学の分野に限っていえば、近代経済学同様、古典派経済学を継承する側面があり、とりわけ、社会の進歩や発展とそれを可能にする生産力の向上を肯定する一面があった。近代における科学技術の進歩を肯定し、資本主義はこの進歩をもたらしながら同時にこの進歩をある段階以上には押し進められないという限界があると考え、その結果として、現存する科学技術を根底から批判する視点をとることいまでは至らなかった。20世紀の社会主義は、資本主義に対する制度的優位性を実現するためにマルクス主義の学説から多大な影響を受けていただけでなく、この20世紀の社会主義を資本主義の矛盾を解決する新な可能性を秘めたものだと期待して、批判の眼を曇らせただけでなく、体制を支えるイデオロギーに成り下がってしまった。その結果、主流のマルクス主義者は、20世紀の社会主義に対するマルクス主義的な批判理論の構築については十分な方法論を確立しえなかった。主流の近代経済学が資本主義の御用学問となったとすれば、主流のマルクス主義は社会主義の御用学問となったのである。その結果、20世紀の社会主義もまた資本主義同様、核技術の開発を通じて核兵器と原発を生み出したにもかかわらず、根源的な批判を展開することができなかった。主流のマルクス主義は、資本主義の生産力の限界を越えるようなより高い生産力を実現できる社会を構想することには熱心だったが、生産力を抑制することや、生み出された科学技術を廃棄する必要については、ほとんど考慮したことがない。原発だけでなく資本主義がもたらした急速な生産力の局所的な上昇(先進国に偏った上昇)に伴なって生じた環境問題にもマルクス主義は十分な理論的解答を準備するだけのパラダイムの組み換えを達成することができなかった。その結果、社会主義諸国は深刻な公害と環境破壊にみまわれつづけた。スリーマイルの原発事故に先だつ1976年にソ連のウクライナで起きた「核惨事」も隠蔽され続けた。福島原発事故に先立つ1979年3月に米国スリーマイル原子力発電所の事故、1986年4月にソ連チェルノブイリ原発事故が起きているように、原発は資本主義と社会主義の二つの超大国で深刻な巨大事故を引きおこしてきた。原発事故は、体制を越えた問題でもある。同時に、環境の問題もまた体制を越えた深刻な問題であり、資本主義システムだけの問題でもなければ資本主義イデオロギーに固有の問題でもない。確かに、問題の根源は、16世紀に始まり2世紀ほどの助走期間を経て確立された資本主義が生みだした技術観や自然観にあることは間違いない。社会主義の問題は、時間的に後に登場した制度が革命の過程で廃棄すべきだった旧制度としての資本主義の問題に気づかずに継承してしまったところにある。とりわけ経済成長(生産力)と科学技術の神話を無条件で継承してしまったことは大きな間違いだった。革命が担うべき切断と継承の見極めは資本主義批判の理論に大きく依存するから、この見極めに失敗した原因は理論の欠陥にあるといえる。このような理論的な問題を放置しつづけてきたことはマルクス主義あるいはマルクス経済学が負わなければならない重大な知的責任問題である。この点ではごく限られた人々による努力であるとはいえ、非マルクス経済学者たちの試行錯誤の努力から学ぶべきところは大きい。とはいえ、経済学の主流が原発を支持し続けてきたことは確かであり、この状況はほとんど変っていないと思う。自然科学と異なって社会科学は「事実」に基く検証が容易ではない。実験ができるわけではなく、データをのものに価値観が入りこんでいる。しかも多分経済学者は原子力工学や核物理学者ほど原発や原爆の開発に加担したことへの良心的な痛みは持っていないようにみえる。湯川秀樹は核開発のありかたに疑問をもって原子力委員会を辞任するが、有沢広巳はその後も委員を続け、さらに財界との関わりを深くしたようにみえる。この違いに、物理学者と経済学者の社会への関わりの違いを見る思いがする。言い換えれば、経済学者はその社会的責任を市場や産業界への責任(=加担)としてしか感じられないことが多く、その理由は経済学という学問に根差すのだろうと思う。私は、社会科学が原発の問題に取り組むということは、単にエネルギー供給のありかたを問題にするという次元に留まることはできない革命的な課題であべきだと考えている。原発を廃棄するという課題は、その前提となっている核の廃棄を意味するものでなければならないだろう。このことは、核を生み出し、社会システムの内部に組み込んできた社会そのものを根底から組み換えること、社会の再設計を企図するという問題でなければならない。資本主義批判にとどまるのであれば、20世紀社会主義が核を保有しつづけた問題は棚上げにされたままになる。問われるべきは、近代という時代が根底にもっている将来社会への希望の原理を再構築する作業でなければならないだろう。これはかなりの大仕事であることは間違いない。原発事故にかぎらず自然科学や社会科学が関与するさまざまな分野が引き起こす社会問題は、こうした専門家のに基づくとされる言説によって、判断の錯誤がもたらされて、非専門家である多くの人々の生活や生命が深刻な被害に巻き込まれること少なくない。時の政権はこうした科学を権力の味方につけて、自らの意思決定の正当性に利用するが、同時に、このことは、権力によりそう科学にもある種の権威や恩恵をもたらすから、だからこそ多くの研究者が御用学者となるのであり、そうなりたいとすら思うのだろう。社会のあり方を自ら決定する民主主義と自治は、権力に自らの生き方を預けず、専門家の判断に密かに持ちこまれているイデオロギーを見抜くことなしにはかちとれないと思う。</summary>
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<![CDATA[<div>●自然科学のばあい<br /><br />原発事故でまっさきに問われたのは、原発を安全であるとみなして推進してきた研究者、特に原子力工学など、原発の開発に直接関連する学問分野の研究者の事故に対する責任問題だった。第二次世界大戦以後半世紀以上にわたって、日本においても原発の開発に必要な科学技術の研究に多くの研究者が動員されてきた。そして、こうした研究には電力業界や政府から多額の研究費など資金的な援助が支出され、「原子力村」と呼ばれるような産官学一体となった原発を推進するインフォーマルな人的なネットワークが形成された。311以後であればごく当たり前に議論されるようになった様々な原発のリスクや技術的な問題点を公正に論議することが事実上困難な雰囲気が作られてもきた。その結果、原発に疑問を抱く研究者たちは十分な研究環境が与えられなかっただけでなく、大学や学会における正当な評価を得られないままであった。原発の危険性や技術的な問題を指摘してきたのは、アカデミズムの周辺に追いやられてきた人々であり、在野の研究者たちだった。<br /><br />国策がらみの開発や研究では、こうした傾向が一般にみられることであり、原発にのみみられる特別なことではない。しかし学問とは真理の探求であって政治によって研究の結論が左右されるはずはないという先入観によって、自然科学の政治的なバイアスが見逃されがちだったし、現在でも基本的に科学の政治的中立性への信仰は根強い。<br /><br />自然科学であれば、一定の自然法則から必然的に導かれる結論に異論や議論の余地はないようにみえる。たとえば、原発のメカニズムの根本にある「核分裂反応」(原子核に中性子をぶつけて核分裂生成物を生み出すこと)そのものは、誰が説明しても変わらない。この核分裂反応を利用して爆弾を作ることもできれば発電所を作ることもできる。原爆や原発のメカニズムそのものについても、どのように設計すれば意図した通りに正しく作動するかについては、専門家の間で見解の対立はない。見解に対立が生じるのは、自然科学によって得られた知見をもとに、実用化に必要な技術開発を行なうことの是非である。この是非の部分は、自然科学に内在的な理論や法則などによって導くことはできない。研究者の間で「原爆も原発もともに実用化すべきである」と考える者、「原爆のような大量破壊兵器の開発はすべきではないが、原発のような『平和利用』であれば開発を推進すべきだ」と考える者、「原爆も原発もリスクが大きすぎるから開発すべきではない」と考える者など考え方は分かれる。<br /><br />このように見解が分かれる場面では、自然科学者は自らの専門家としての知見だけではなく、それぞれの研究者がどのような社会観や価値観をもっているのか、研究対象にどのようなスタンスで臨んでいるのか、に大きく依存する。非専門家の人々と大きく異なるのは、専門家は事柄の詳細を理解しており、それがどのようなメリットとデメリットを持つかを判断するための材料をより多くもっているという点である。しかしこのメリットとデメリットは、自然科学の理論や法則から必然的に導かれるとは限らない。核分裂反応をメリットとみるのかデメリットとみるのか(どちらの立場に立つかで原爆と原発への態度が真逆になる)は、彼らの価値観あるいは社会観に依存する。同時に彼らの価値観や社会観は、彼らの専門家としての立場によっても形作られもする。原発を推進する立場から研究開発に従事している専門家は、みずからの立場を正当化する価値観を持ち、原発を必要とする社会観を持つことによって、自己の専門家としての研究の正当性を維持しようとする。しかし、かれらは、原発を必要とする価値観、社会観をあらかじめ持っていたがゆえに、原発推進の研究に携わるという選択をしたのかもしれないから、研究者としての専門性と価値観、社会観との間には相互に依存的な関係がある。<br /><br />このように、自然科学の分野においても、科学としての客観性は極めて狭い範囲でしか成り立たない。原発事故でも専門家が客観的で中立的な立場から事故を分析して見解を述べているかのような印象を与えている(マスメディアや政府がこうした印象を意図的に与えようとしてきたともいえる)が、原発について賛成でも反対でもないという原発の専門家はありえないのであって、かならずどちらかの立場をとっているはずなのである。そして、この立場は科学的知見に基づくだけでは形成されず、価値観や社会観に依存する。しかし、往々にして専門家自身ですらこのことに自覚的ではなく、自己の立場を学問・研究の客観性に基づくものだと信じている場合も少なくない。だから、専門家は事実と自己の価値判断を区別せずに<真実>であるかのように語るのである。<br /><br />福島原発事故のような深刻な大惨事が現実のものとなったときに、原発を推進してきた研究者たちが、この事故に対して専門家としての知見を駆使して的確に対処できたかといえば、必ずしもそうとはいえない。むしろ事故の深刻さを直視するよりも事故の収束の可能性を期待する立場に立って事故の過少評価が繰り返された。原発を推進してきた専門家は、事故後も、原発は安全な構造をもつように設計されているという前提条件を根本的に反省することができなかったようにみえる。事故直後に予測されたメルトダウン、水素爆発、放射性物質の拡散、住民や原発事故現場の労働者の被曝など、深刻な被害が現実に生じていたにもかかわらず、原発を支持する専門家は、従来の原発の安全性の観点に立って被害を過少に評価して政府や東電の楽観論にお墨付きを与え、事実を隠蔽することに加担してきた。彼らは、政府や電力会社の対処に加担することはあっても、政治や経済の利害から離れて事故に対処するようなリーダーシップをとることがなかった。このことは、事故の処理、再稼動の是非、低線量被曝が重要な議論になっている現在、専門家がどのような立場に立っているのかはますます重要な問題となっている。<br /><br />●経済学のばあい<br /><br />それでは、原発に対して経済学はどのようなスタンスをとってきたのだろうか。統計的なデータをとっているわけではないが、多数の経済学者は暗黙の前提として原発を肯定(容認)する立場を取ってきたのではないかと思う。エネルギーは経済の基盤をなす重要な条件であり、経済成長の前提条件にもなる。経済学の場合、原発への関心は、市場経済の観点から、エネルギー需給やコストとしてのエネルギーが経済成長にもたらす影響にあった。市場経済からは隠れて見えない原発の諸問題、とりわけ事故のリスクや放射能汚染が環境や人体にもたらす影響、核兵器の技術との密接な関係については無視あるいは軽視する傾向があったとえいる。<br /><br />社会科学が自然科学と根本的に異なるのは、前提となる基本的な原理が複数併存しているという点である。経済学の場合、主流の経済学は近代経済学(ミクロ経済学とマクロ経済学)であるが、マルクス経済学や制度派経済学のようにパラダイムが異る有力な理論が存在する。経済学も学問である以上、科学性への指向を強固に持ちながらも、研究者の価値観、社会観がより内在的に学説の選択や研究の方向性に影響する。近代経済学と比べてマルクス経済学は一般に資本主義経済に対して批判的なスタンスをとるが、原発に関してはこの一般的な傾向があてはまらない。マルクス経済学は原発が社会問題化しはじめた1970年代以降現在に至るまで、原発をめぐる経済システムの問題に正面から挑戦するような創造的な理論構築で目立った成果をあげてきたとはいえない。むしろ、日本の原子力平和利用に経済学者が果した「罪」は大きい。正力松太郎が初代委員長に就任した原子力委員会の委員に湯川秀樹がいたことはよく知られているが、ここに経済学者の有沢広巳もおり、彼は1970年代から80年代にかけて原子力産業会議の議長を務めた。有沢は労農派のマルクス経済学者であった。彼がいつどのような経緯で「マルクス経済学」から転向したのかは興味深いことだ。欧米のアカデミズムとは異なってマルクス経済学の影響が非常に強かったこの国で、彼のような学問的な経歴をもつ経済学者が政府、財界と「協調」することは決してめずらしくないのではないかと思う。<br /><br />環境への関心は1960年代の高度経済成長がもたらした公害問題をきっかけとして経済学のなかにも関心が拡がった。私の独断と私自身の経験からあえて言うとすると、パラダイムの転換をもたらすような経済学と環境の問題に取り組んだ先駆者は日本では、宇沢弘文{『自動車の社会的費用』,岩波新書, 1974年}や玉野井芳郎{『エコノミーとエコロジー 広義の経済学への道』,みすず書房,1978}であり、原発に対する批判的な理論的な枠組に挑戦しつづけてきたのは室田武だろうと思う。海外では、ニコラス・ジョージェスク=レーゲンだろうか。ジョーゼスク=レーゲンの功績は経済学に熱力学の概念であるエントロピーの概念を応用しようと試みた点にあるが、1970年代に書かれた論文を集めた『経済学の神話、エネルギー、資源、環境に関する真実』の編訳者の「あとがき」に、著者の主張についての次のような簡潔な解説がある。<br /><br /><br /><br />引用：<span class="blogQuote">経済過程のエントロピー的性格を重視する著者の理論から生ずる政策的要請は、資源の浪費はやめよ、有限な資源をともに消費するわれわれの子孫の生命価値を重視せよ(瑣末なことではあるが、著者自身には子がなく兄弟もいない)、戦争と軍備は全廃せよ、人口は有機農業のみによって養えるところまで定常状態をこえて減少させよ、富んだ国はその富を低開発へ分け与えよ等々、現代の先進国社会社会の常識からは、ほとんど超越的なものばかりである。(ニコラス・ジョージェスク=レーゲン『経済学の神話、エネルギー、資源、環境に関する真実』小出厚之助、室田武、鹿島信吾訳、東洋経済新報社、1981年、p.279)<br /><br /><br />現代経済学が(中略)いかに哲学的視野に欠け、個別国家の御用経済学になり下がっているか、また将来の科学技術の進歩に関する専門的知識もないままに、従来の成長のトレンドを単純に外挿して、経済は成長する必然性があると断定しているか、さらに現代の経済学が個別経済主体のみを重視して、種としての人類の立場を軽視しているか、政治はもとよりフランスでいう人間科学の諸分野、もっと広く自然科学との統一の場の成立から己れを孤立させようとしているのかに、、疑問を持たぬ人も少なくないであろう。1971年のアメリカ経済学会の大会に客員講演したミュルダールとJ・ロビンソンが、ともに経済学の危機を説き、ミュルダールは経済学が超分野的、制度学派的にならなくてはならぬといい、ロビンソンがへそ曲りが出なくてはならぬといったその年に、[ジョージェスク=レーゲンの]『エントロピー法則と経済過程』が出版されたのは、不思議な一致であるかも知れない。(同上)</span><br /><br />30年前に書かれたこの文章は残念なことに今現在でも完全に当てはまる。むしろ経済学の危機は市場原理主義という反革命によって封じこめられた。結果として、経済学が可能にしたかもしれない原発を否定する理論的挑戦も大きな力を持ちえないまま現在に至った。今私たちはもう一度この70年代にまで遡って軽視されてきた経済学の潮流を再発見することが必要な時代と向きあわざるえをえなくなっている。言い換えれば、近代経済学は原発の事故をふまえて、根本的なパラダイムの転換に挑むのか、それとも既存のパラダイムを保持して原発の事故をもたらした経済システムの根本的な問題から目をそらすのか、という厳しい問いかけに直面していることを自覚できるかどうかが問われている。<br /><br />では、マルクス経済学はどうなのか？資本主義に対する総合的な批判理論としてマルクス主義を越えるパラダイムは未だにあらわれていない。マルクスの経済学の特徴は、資本主義経済を構成する基本的な諸カテゴリーを根源から批判的に分析してみせるところにあった。近代経済学では与件とされるような諸概念(例えば、商品、貨幣、労働など)を疑問の俎上にのせることを通じて、資本主義の否定へと至る。政治学の分野においてもマルクスは、国家や権力を根源的な疑義にさらし、国家と資本の廃絶を構想した。このような批判の全体理論であっても、経済学の分野に限っていえば、近代経済学同様、古典派経済学を継承する側面があり、とりわけ、社会の進歩や発展とそれを可能にする生産力の向上を肯定する一面があった。近代における科学技術の進歩を肯定し、資本主義はこの進歩をもたらしながら同時にこの進歩をある段階以上には押し進められないという限界があると考え、その結果として、現存する科学技術を根底から批判する視点をとることいまでは至らなかった。<br /><br />20世紀の社会主義は、資本主義に対する制度的優位性を実現するためにマルクス主義の学説から多大な影響を受けていただけでなく、この20世紀の社会主義を資本主義の矛盾を解決する新な可能性を秘めたものだと期待して、批判の眼を曇らせただけでなく、体制を支えるイデオロギーに成り下がってしまった。その結果、主流のマルクス主義者は、20世紀の社会主義に対するマルクス主義的な批判理論の構築については十分な方法論を確立しえなかった。主流の近代経済学が資本主義の御用学問となったとすれば、主流のマルクス主義は社会主義の御用学問となったのである。その結果、20世紀の社会主義もまた資本主義同様、核技術の開発を通じて核兵器と原発を生み出したにもかかわらず、根源的な批判を展開することができなかった。<br /><br />主流のマルクス主義は、資本主義の生産力の限界を越えるようなより高い生産力を実現できる社会を構想することには熱心だったが、生産力を抑制することや、生み出された科学技術を廃棄する必要については、ほとんど考慮したことがない。原発だけでなく資本主義がもたらした急速な生産力の局所的な上昇(先進国に偏った上昇)に伴なって生じた環境問題にもマルクス主義は十分な理論的解答を準備するだけのパラダイムの組み換えを達成することができなかった。その結果、社会主義諸国は深刻な公害と環境破壊にみまわれつづけた。スリーマイルの原発事故に先だつ1976年にソ連のウクライナで起きた「核惨事」も隠蔽され続けた。<br /><br />福島原発事故に先立つ1979年3月に米国スリーマイル原子力発電所の事故、1986年4月にソ連チェルノブイリ原発事故が起きているように、原発は資本主義と社会主義の二つの超大国で深刻な巨大事故を引きおこしてきた。原発事故は、体制を越えた問題でもある。同時に、環境の問題もまた体制を越えた深刻な問題であり、資本主義システムだけの問題でもなければ資本主義イデオロギーに固有の問題でもない。確かに、問題の根源は、16世紀に始まり2世紀ほどの助走期間を経て確立された資本主義が生みだした技術観や自然観にあることは間違いない。社会主義の問題は、時間的に後に登場した制度が革命の過程で廃棄すべきだった旧制度としての資本主義の問題に気づかずに継承してしまったところにある。とりわけ経済成長(生産力)と科学技術の神話を無条件で継承してしまったことは大きな間違いだった。革命が担うべき切断と継承の見極めは資本主義批判の理論に大きく依存するから、この見極めに失敗した原因は理論の欠陥にあるといえる。このような理論的な問題を放置しつづけてきたことはマルクス主義あるいはマルクス経済学が負わなければならない重大な知的責任問題である。この点ではごく限られた人々による努力であるとはいえ、非マルクス経済学者たちの試行錯誤の努力から学ぶべきところは大きい。<br /><br />とはいえ、経済学の主流が原発を支持し続けてきたことは確かであり、この状況はほとんど変っていないと思う。自然科学と異なって社会科学は「事実」に基く検証が容易ではない。実験ができるわけではなく、データをのものに価値観が入りこんでいる。しかも多分経済学者は原子力工学や核物理学者ほど原発や原爆の開発に加担したことへの良心的な痛みは持っていないようにみえる。湯川秀樹は核開発のありかたに疑問をもって原子力委員会を辞任するが、有沢広巳はその後も委員を続け、さらに財界との関わりを深くしたようにみえる。この違いに、物理学者と経済学者の社会への関わりの違いを見る思いがする。言い換えれば、経済学者はその社会的責任を市場や産業界への責任(=加担)としてしか感じられないことが多く、その理由は経済学という学問に根差すのだろうと思う。<br /><br />私は、社会科学が原発の問題に取り組むということは、単にエネルギー供給のありかたを問題にするという次元に留まることはできない革命的な課題であべきだと考えている。原発を廃棄するという課題は、その前提となっている核の廃棄を意味するものでなければならないだろう。このことは、核を生み出し、社会システムの内部に組み込んできた社会そのものを根底から組み換えること、社会の再設計を企図するという問題でなければならない。資本主義批判にとどまるのであれば、20世紀社会主義が核を保有しつづけた問題は棚上げにされたままになる。問われるべきは、近代という時代が根底にもっている将来社会への希望の原理を再構築する作業でなければならないだろう。これはかなりの大仕事であることは間違いない。<br /><br />原発事故にかぎらず自然科学や社会科学が関与するさまざまな分野が引き起こす社会問題は、こうした専門家の<真理>に基づくとされる言説によって、判断の錯誤がもたらされて、非専門家である多くの人々の生活や生命が深刻な被害に巻き込まれること少なくない。時の政権はこうした科学を権力の味方につけて、自らの意思決定の正当性に利用するが、同時に、このことは、権力によりそう科学にもある種の権威や恩恵をもたらすから、だからこそ多くの研究者が御用学者となるのであり、そうなりたいとすら思うのだろう。<br /><br />社会のあり方を自ら決定する民主主義と自治は、権力に自らの生き方を預けず、専門家の判断に密かに持ちこまれているイデオロギーを見抜くことなしにはかちとれないと思う。</div>]]>
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		<title>批判的監視研究のデイビッド・ライアン教授来日講演・集会（4月14日〜21日）</title>
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		<summary type="html" xml:base="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/" xml:lang="ja">カナダ、クィーン大学のディビッド/ライアン教授が来日する。昨年『監視スタディーズ」の翻訳が刊行された。ライアン教授は監視社会批判の理論家の第一人者。共通番号制（マイナンバー制度）や秘密保全法が国会に上程されているこの国にあって、いま一度監視社会を根本から批判する視点を考えるまたとない機会となるだろう。以下、東京、関西、福岡で開催される集会等の案内です。 〈ライアン教授と“監視”を考える〉集い9.11 から10 年が過ぎた昨年秋、“監視” 研究を国際的にリードしてきたディヴィッド・ライアン氏（カナダ・クィーンズ大学教授）の訳書『監視スタディーズ』（岩波書店）が刊行されました。これを機に、来日中のライアン氏による講演を中心に、共通番号制をはじめとする日本の監視への批判的検討も含め、“監視”を考える集いを開催します。 〈第1部〉講演と解説：“監視”を探究する“監視” をどう研究するか／ディヴィッド・ライアン『監視スタディーズ』とライアン教授の“監視” 研究小笠原みどり（フリーランス・ライター）＋田島泰彦（上智大学教授） 〈第2部〉発言：日本の“監視”を批判する小倉利丸（富山大学教授）＋石村耕治（白&amp;amp;#40407;;大学教授）＋水永誠二（弁護士）＋斎藤貴男（ジャーナリスト）＋清水雅彦（日本体育大学准教授）＋清水勉（弁護士） ◆4月14日（土） 午後1 時30分〜4時30分◆上智大学12号館1階102教室［主　催］ 〈ライアン教授と“監視” を考える〉集い実行委員会［連絡先］ 上智大学文学部新聞学科・田島泰彦研究室Tel. 090&amp;amp;#8211;;2302&amp;amp;#8211;;4908　Fax. 03&amp;amp;#8211;;3891&amp;amp;#8211;;9381Email：shiratlk@jcom.home.ne.jp（いずれも担当・白石） 院内講演会◆４月１６日（月）１２：３０〜１４：００◆週銀第２議員会館「多目的会議室」◆講演：デイヴィッド・ライアン（逐次通訳）報告：秘密保全法と共通番号法の問題点◆共催：盗聴法に反対する市民連絡会（090-2669-4219）：反住基ネット連絡会（090-2302-4908）：JCA-NET(070-5553-5495)Eメール：shiratlk@jcom.home.ne.jp        FAX:03-3891-9381  2012年度人権教育研究室主催・特別講演会：「監視､識別､そして人権」■日時： 04月 20日 （金） 15時 10分 　〜　 16時 40分■場所・開催地：関西学院大学　法学部チャペル（法学部本館１階）　　※会場を変更しました■講師：ディヴィット・ライアン氏（クィーンズ大学社会学部教授、同大監視スタディーズ・センターディレクター）■題目：「監視､識別､そして人権−個人情報ID システムと社会正義をめぐる問い−」＊入場無料・申込不要・通訳あり＊本講演会ではパソコンテイクによる情報保障を予定しています。お問い合わせ　関西学院大学人権教育研究室Tel.　 0798−54−6720E-mail　human-right@kwansei.ac.jp 朝日新聞労組西部支部プレ５・３集会講演会　「膨張する監視と萎縮する言論」◇日時　４月２１日（土）午後２時◇場所　朝日新聞福岡本部４階Ｂ、Ｃ会議室(福岡市博多駅前２、ＪＲ博多駅博多口から徒歩５分)◇講師　デイヴィッド・ライアン（カナダ・クイーンズ大学社会学部教授）小倉利丸（富山大学経済学部教授）入場無料、申し込み不要、通訳あり〔概要〕　監視カメラ、空港のセキュリティシステム、共通番号制‥「安心」や「治安維持」と言う言葉と引き替えに、私たちをとりまく監視システムは膨張しつづけている。そして、常に見張られているという不安感は、言論、表現の深刻な萎縮を招いている。今回の講演会では、世界の監視研究の第一人者で、日本でも「監視スタディーズ」（岩波書店）などの著書が出版されているデイヴィッド・ライアン氏と、ネットワーク反監視プロジェクトでの活動をはじめ、インターネットにおける検閲などの問題に取り組んできた小倉利丸氏を招いて、世界の潮流から見た日本の監視とその言論への影響について考える。主催　朝日新聞労組西部支部問い合せ  朝日新聞労組西部支部(092-414-6211): 西部支部新聞研究委員長　溝越賢（mizokoshi-k@asahi.com)</summary>
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<![CDATA[<div>カナダ、クィーン大学のディビッド/ライアン教授が来日する。昨年『監視スタディーズ」の翻訳が刊行された。ライアン教授は監視社会批判の理論家の第一人者。共通番号制（マイナンバー制度）や秘密保全法が国会に上程されているこの国にあって、いま一度監視社会を根本から批判する視点を考えるまたとない機会となるだろう。以下、東京、関西、福岡で開催される集会等の案内です。<br /><br /> <br />〈ライアン教授と“監視”を考える〉集い<br /><br />9.11 から10 年が過ぎた昨年秋、“監視” 研究を国際的にリード<br />してきたディヴィッド・ライアン氏（カナダ・クィーンズ大学教授）<br />の訳書『監視スタディーズ』（岩波書店）が刊行されました。<br />これを機に、来日中のライアン氏による講演を中心に、共通番<br />号制をはじめとする日本の監視への批判的検討も含め、“監視”<br />を考える集いを開催します。<br /> <br />〈第1部〉講演と解説：“監視”を探究する<br />“監視” をどう研究するか／ディヴィッド・ライアン<br />『監視スタディーズ』とライアン教授の“監視” 研究<br />小笠原みどり（フリーランス・ライター）＋田島泰彦（上智大学教授）<br /> <br />〈第2部〉発言：日本の“監視”を批判する<br />小倉利丸（富山大学教授）＋石村耕治（白&#40407;大学教授）＋水永誠二（弁護士）＋斎藤貴男（ジャーナリスト）＋清水雅彦（日本体育大学准教授）＋清水勉（弁護士）<br /> <br />◆4月14日（土） 午後1 時30分〜4時30分<br />◆上智大学12号館1階102教室<br />［主　催］ 〈ライアン教授と“監視” を考える〉集い実行委員会<br />［連絡先］ 上智大学文学部新聞学科・田島泰彦研究室<br />Tel. 090&#8211;2302&#8211;4908　Fax. 03&#8211;3891&#8211;9381<br />Email：<a href="mailto:shiratlk@jcom.home.ne.jp">shiratlk@jcom.home.ne.jp</a>（いずれも担当・白石）<br /> <br />院内講演会<br /><br />◆４月１６日（月）１２：３０〜１４：００<br />◆週銀第２議員会館「多目的会議室」<br />◆講演：デイヴィッド・ライアン（逐次通訳）<br />報告：秘密保全法と共通番号法の問題点<br />◆共催：盗聴法に反対する市民連絡会（090-2669-4219）：反住基ネット連絡会（090-2302-4908）：JCA-NET(070-5553-5495)<br />Eメール：<a href="mailto:shiratlk@jcom.home.ne.jp">shiratlk@jcom.home.ne.jp</a><br />        FAX:03-3891-9381 <br /> <br />2012年度人権教育研究室主催・特別講演会：「監視､識別､そして人権」<br /><br />■日時： 04月 20日 （金） 15時 10分 　〜　 16時 40分<br /><br />■場所・開催地：関西学院大学　法学部チャペル（法学部本館１階）　　※会場を変更しました<br /><br />■講師：ディヴィット・ライアン氏（クィーンズ大学社会学部教授、同大監視スタディーズ・センターディレクター）<br />■題目：「監視､識別､そして人権−個人情報ID システムと社会正義をめぐる問い−」<br />＊入場無料・申込不要・通訳あり<br />＊本講演会ではパソコンテイクによる情報保障を予定しています。<br />お問い合わせ　関西学院大学人権教育研究室<br />Tel.　 0798−54−6720<br />E-mail　<a href="mailto:human-right@kwansei.ac.jp">human-right@kwansei.ac.jp</a><br /><br /> <br /><br />朝日新聞労組西部支部プレ５・３集会<br /><br />講演会　「膨張する監視と萎縮する言論」<br />◇日時　４月２１日（土）午後２時<br />◇場所　朝日新聞福岡本部４階Ｂ、Ｃ会議室<br />(福岡市博多駅前２、ＪＲ博多駅博多口から徒歩５分)<br />◇講師　デイヴィッド・ライアン（カナダ・クイーンズ大学社会学部教授）<br />小倉利丸（富山大学経済学部教授）<br />入場無料、申し込み不要、通訳あり<br />〔概要〕　監視カメラ、空港のセキュリティシステム、共通番号制‥「安心」や「治安維持」と言う言葉と引き替えに、私たちをとりまく監視システムは膨張しつづけている。そして、常に見張られているという不安感は、言論、表現の深刻な萎縮を招いている。今回の講演会では、世界の監視研究の第一人者で、日本でも「監視スタディーズ」（岩波書店）などの著書が出版されているデイヴィッド・ライアン氏と、ネットワーク反監視プロジェクトでの活動をはじめ、インターネットにおける検閲などの問題に取り組んできた小倉利丸氏を招いて、世界の潮流から見た日本の監視とその言論への影響について考える。<br /><br />主催　朝日新聞労組西部支部<br /><br />問い合せ  朝日新聞労組西部支部(092-414-6211): 西部支部新聞研究委員長　溝越賢（<a href="mailto:mizokoshi-k@asahi.com">mizokoshi-k@asahi.com</a>)</div>]]>
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		<title>「拡散するな」から「被曝させるな」へ</title>
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		<published>2012-04-03T18:42:00+09:00</published>
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		<summary type="html" xml:base="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/" xml:lang="ja">脱/反原発運動の最大の重要課題は再稼動阻止だと考えているのだが、ガレキ問題について先に書いたことの補足をしておきたい。私は、がれき問題に誰もが納得する正解はないと思ってる。最大級の難問だと思うので、以下に述べることも答えとしては十分とはいえないかもしれない。以前にも述べたように、放射性物質で汚染されたガレキを「拡散するな」という運動は、被災地ではほとんどみられないのではないかと思う。同時に、被災地での「ここで燃やすな、埋めるな」という運動も寡聞にして知らない。放射性物質の人体への影響はそれが被災地であろうがそれ以外の場所であろうが同じはずだが、運動の濃淡は被災地とそれ以外の場所でかなり鮮明なようにも思う。(私が知らないだけかもしれないが)他人に押しつけてでも自分の安全を第一に考えるなら、被災地では広域処理大賛成となるはずだろう。行政や政治家は別にして、広域処理支持という主張は、被災地の脱原発運動には全くないのでは、と思う。自分のところで危険なものを他人に押しつけるべきではないとしたら、「他所に持ってけ」は主張できないのは当然のことだ。とすると、「地元で処分するな、拡散もするな」という矛盾した要求にならざるをえないから、これは「それではガレキをどうしろというのだ？」という当然の疑問を運動としては突き突けられることになるかもしれない。他方で、運動の中から「拡散反対=地元で汚染がれき処理すべき」という運動もないと思う。福島の場合、身近に避難している人たちの気持ちに配慮したら、福島第一原発周辺の強制避難区域や第二原発の敷地であっても、「原発周辺の土地はゴミ捨て場にすべきだ」という主張は容易には成り立たない。また、自分たちが暮す日常の場所そのものの除染もしなければならないし、汚染物は日々溜まる一方だ。線量の高い地域での日常生活の状況は過酷だろう。被災地に暮す人々の本音は、それ以外の地域で暮す人々と変るはずはなく、自分たちの責任でもない放射性物質は、どこか他所に持ってって欲しいと思うに違いない。私なら確実にそう感じると思う。福島のゴルフ場が提訴した除染裁判で、放射性物質を「無主物」として東電の責任を認めなかった裁判は、被曝を甘受せよ、と言うに等しいものであって、東電を免責する一方で、政府の無条件広域処理を正当化し、被災地とそれ以外に地域の人々の間にガレキの押し付けあいを生みだすひとつの原因になっているのではないかとも思う。返す返すも冷酷な判決だと思う。全国の「拡散するな」の声は、被災地現地の人達にも十分聞こえているはずだ。しかし、この「拡散するな」という要求を、より説明的に表現すれば、次のようなことを含意しているのではないか。「放射性物質で汚染されたガレキは人体に悪影響を及ぼすから、これらのガレキを被災地から外に出すべきではない。被災地に留めることによって、被曝の被害を最小限に食い止めるべきである」。さらにこのような主張には「被災地でのガレキ処理に伴なって、被災地の人々が被曝したり健康への被害を被るとしても、多数の健康と安全のための犠牲であって致し方ないことだ」という暗黙のメッセージが含まれざるをえない。もちろん全国の脱/反原発運動のガレキ拡散反対運動の担い手がこのような被災地の犠牲を肯定したり自己の安全のために被災地を見捨てることを肯定しているとは思わない。しかし同時に、「拡散反対」といスローガンには意図せざる結果として、被災地の犠牲を事実上強いるメッセージが含まれざるをえず、被災地とそれ以外の場所での運動の分断をもたらしかねないと私は危惧している。拡散させずに被災地の地元の人々がガレキ処分を受け入れるということは、被災地での被曝を覚悟するということだ。子どもたちも当然被曝することになる。残酷なことである。拡散するなという要求は、こうした被災地の被曝をどのように考えているのか、私には見えない。「拡散するな」というよりも、むしろ、ガレキがどこにあろうとも、被曝の犠牲者をだすな、と主張することが大切ではないか。このような主張は拡散を容認しているように受けとられかねないが(私は東電の責任を強く主張したいので、東北の被災地が汚染されたガレキを引き受けるいわれはないと考えている)、多数者の安全のために少数者が犠牲になるのは仕方がないと誤解されるような主張は、再考が必要だと思う。多数者の安全のために少数者を犠牲にする。これは、原発立地の基本方針と変らない発想かもしれない。「原子炉からある距離の範囲内であって,非居住区域の外側の地帯は,低人口地帯であること。」「原子炉敷地は,人口密集地帯からある距離だけ離れていること。」これは「原子炉立地審査指針およびその適用に関する判断のめやすについて」の考え方である。事故に際しては、多数に被害が及ばないように、ということだが、裏を返して言えば、過疎地の少数の住民を犠牲にするという考え方だ。「拡散するな」という考え方は、多数の安全のために少数者の犠牲は止むをえないというように誤解されないような運動のメッセージと方法を工夫すべきだと思う。被災地であれどこであれ被曝させるな!と言える運動が作れれば、政府や行政の独走を食い止める大きな連帯になるのではないか。もちろん、こうしたスローガンは被曝労働を強いられる原発の事故現場の労働をなくせるわけではない。この点でこのスローガンも決定的な限界がある。そのこともきちんと自覚しないといけない。▼関連するブログのエッセイ10万年を見すえた運動の民主主義--ガレキ問題再論http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=155</summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/">
<![CDATA[<div>脱/反原発運動の最大の重要課題は再稼動阻止だと考えているのだが、ガレキ問題について<a href="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=155">先に書いたこと</a>の補足をしておきたい。私は、がれき問題に誰もが納得する正解はないと思ってる。最大級の難問だと思うので、以下に述べることも答えとしては十分とはいえないかもしれない。<br /><br />以前にも述べたように、放射性物質で汚染されたガレキを「拡散するな」という運動は、被災地ではほとんどみられないのではないかと思う。同時に、被災地での「ここで燃やすな、埋めるな」という運動も寡聞にして知らない。放射性物質の人体への影響はそれが被災地であろうがそれ以外の場所であろうが同じはずだが、運動の濃淡は被災地とそれ以外の場所でかなり鮮明なようにも思う。(私が知らないだけかもしれないが)<br /><br />他人に押しつけてでも自分の安全を第一に考えるなら、被災地では広域処理大賛成となるはずだろう。行政や政治家は別にして、広域処理支持という主張は、被災地の脱原発運動には全くないのでは、と思う。自分のところで危険なものを他人に押しつけるべきではないとしたら、「他所に持ってけ」は主張できないのは当然のことだ。とすると、「地元で処分するな、拡散もするな」という矛盾した要求にならざるをえないから、これは「それではガレキをどうしろというのだ？」という当然の疑問を運動としては突き突けられることになるかもしれない。他方で、運動の中から「拡散反対=地元で汚染がれき処理すべき」という運動もないと思う。<br /><br />福島の場合、身近に避難している人たちの気持ちに配慮したら、福島第一原発周辺の強制避難区域や第二原発の敷地であっても、「原発周辺の土地はゴミ捨て場にすべきだ」という主張は容易には成り立たない。また、自分たちが暮す日常の場所そのものの除染もしなければならないし、汚染物は日々溜まる一方だ。線量の高い地域での日常生活の状況は過酷だろう。被災地に暮す人々の本音は、それ以外の地域で暮す人々と変るはずはなく、自分たちの責任でもない放射性物質は、どこか他所に持ってって欲しいと思うに違いない。私なら確実にそう感じると思う。福島のゴルフ場が提訴した除染裁判で、放射性物質を「無主物」として東電の責任を認めなかった裁判は、被曝を甘受せよ、と言うに等しいものであって、東電を免責する一方で、政府の無条件広域処理を正当化し、被災地とそれ以外に地域の人々の間にガレキの押し付けあいを生みだすひとつの原因になっているのではないかとも思う。返す返すも冷酷な判決だと思う。<br /><br />全国の「拡散するな」の声は、被災地現地の人達にも十分聞こえているはずだ。しかし、この「拡散するな」という要求を、より説明的に表現すれば、次のようなことを含意しているのではないか。「放射性物質で汚染されたガレキは人体に悪影響を及ぼすから、これらのガレキを被災地から外に出すべきではない。被災地に留めることによって、被曝の被害を最小限に食い止めるべきである」。さらにこのような主張には「被災地でのガレキ処理に伴なって、被災地の人々が被曝したり健康への被害を被るとしても、多数の健康と安全のための犠牲であって致し方ないことだ」という暗黙のメッセージが含まれざるをえない。もちろん全国の脱/反原発運動のガレキ拡散反対運動の担い手がこのような被災地の犠牲を肯定したり自己の安全のために被災地を見捨てることを肯定しているとは思わない。しかし同時に、「拡散反対」といスローガンには意図せざる結果として、被災地の犠牲を事実上強いるメッセージが含まれざるをえず、被災地とそれ以外の場所での運動の分断をもたらしかねないと私は危惧している。<br /><br />拡散させずに被災地の地元の人々がガレキ処分を受け入れるということは、被災地での被曝を覚悟するということだ。子どもたちも当然被曝することになる。残酷なことである。拡散するなという要求は、こうした被災地の被曝をどのように考えているのか、私には見えない。「拡散するな」というよりも、むしろ、ガレキがどこにあろうとも、被曝の犠牲者をだすな、と主張することが大切ではないか。このような主張は拡散を容認しているように受けとられかねないが(私は東電の責任を強く主張したいので、東北の被災地が汚染されたガレキを引き受けるいわれはないと考えている)、多数者の安全のために少数者が犠牲になるのは仕方がないと誤解されるような主張は、再考が必要だと思う。<br /><br />多数者の安全のために少数者を犠牲にする。これは、原発立地の基本方針と変らない発想かもしれない。「原子炉からある距離の範囲内であって,非居住区域の外側の地帯は,低人口地帯であること。」「原子炉敷地は,人口密集地帯からある距離だけ離れていること。」これは<a href="http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/hakusho/wp1964/ss1010203.htm">「原子炉立地審査指針およびその適用に関する判断のめやすについて」</a>の考え方である。事故に際しては、多数に被害が及ばないように、ということだが、裏を返して言えば、過疎地の少数の住民を犠牲にするという考え方だ。「拡散するな」という考え方は、多数の安全のために少数者の犠牲は止むをえないというように誤解されないような運動のメッセージと方法を工夫すべきだと思う。被災地であれどこであれ被曝させるな!と言える運動が作れれば、政府や行政の独走を食い止める大きな連帯になるのではないか。もちろん、こうしたスローガンは被曝労働を強いられる原発の事故現場の労働をなくせるわけではない。この点でこのスローガンも決定的な限界がある。そのこともきちんと自覚しないといけない。<br /><br />▼関連するブログのエッセイ<br />10万年を見すえた運動の民主主義--ガレキ問題再論<br /><a href="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=155" target="_blank">http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=155</a></div>]]>
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		<title>10万年を見すえた運動の民主主義--ガレキ問題再論</title>
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		<published>2012-04-01T01:51:02+09:00</published>
		<updated>2012-04-03T19:14:39+09:00</updated>
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			<name>toshi</name>
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		<summary type="html" xml:base="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/" xml:lang="ja">政府のガレキ拡散政策が進んでいる。この拡散に対して、ガレキ受け入れを表明した自治体では、住民たちによる受け入れ反対の運動も拡がりをみせている。特に脱原発運動を担ってきた人たちが同時にガレキ受け入れ反対運動を積極的に担っているように思う。しかし他方でガレキ受け入れの是非をめぐっては、脱/反原発運動のなかにも多様な考え方があり、意見の収束をみているとは思えないところもある。放射性物質で汚染されたガレキの問題について、受け入れに反対する場合、その結論を導く論理、ややおおげさに言えば、思想が問われるような問題である。被災地のガレキ、特に放射性物質に汚染されているガレキを日本全国の自治体で広域処理させようという政府の方針、とりわけ、汚染されたガレキの安全性の基準については、脱/反原発運動の担い手たちの間で妥当だとする考え方をとる者はまずいないだろう。野田総理大臣は3月!!日の会見で次のように述べた。引用：ガレキ広域処理は、国は一歩も二歩も前に出ていかなければなりません。震災時に助け合った日本人の気高い精神を世界が称賛をいたしました。日本人の国民性が再び試されていると思います。ガレキ広域処理は、その象徴的な課題であります。既に表明済みの受入れ自治体への支援策、すなわち処分場での放射能の測定、処分場の建設、拡充費用の支援に加えまして、新たに３つの取組みを進めたいと思います。　まず、第１は、法律に基づき都道府県に被災地のガレキ受入れを文書で正式に要請するとともに、受入れ基準や処理方法を定めることであります。　２つ目は、ガレキを焼却したり、原材料として活用できる民間企業、例えばセメントや製紙などでありますが、こうした企業に対して協力拡大を要請してまいります。　第３に、今週、関係閣僚会議を設置し、政府一丸となって取り組む体制を整備したいと考えております。上の発言に端的に示されているように、ガレキ受け入れ問題は「日本人の気高い精神」「日本人の国民性」を試す「象徴的な課題」だというのである。ガレキの処理になぜ「気高い精神」や「日本人の国民性」が関係するのか、私には全く理解できない。そもそも原発事故がもたらした深刻な放射能汚染の事実を隠蔽して、多くの福島県の人々を被曝させた政権には「助け合う精神」などどこにもなかった。むしろ、権力の安全のために民衆の安全を見捨てた冷酷さしか見いだすことができなかった。その政府が「気高い精神」を口にして広域処理の必要を訴えるのは、被災地の窮状の政治的利用以外のなにものでもなかろう。ガレキの理にかなった処理は、精神や国民性の問題ではなく、どの「国民」であれ同じ状況であれば同じ答えになって当然の問題なのではなかろうか。にもかかわらず「気高い精神」や「国民性」が登場するということは、広域処理には合理的な解決とは関わりのない別の要素が絡んでいることを暗示しているといえる。危機に際して理屈抜きに心情によって人々を人々の生存の危機ではなく国家的危機への対処のために動員するやりかたは、私には、この国のファシズムの歴史を想起させる。理屈を後回しにし、討議に基づく合意形成を経ることなく、心情に訴えることで人々の自発的同調を強制する。これは仕組まれた踏絵である。被災地の窮状を見捨てるのかどうか、という問いが、ガレキを受け入れるかどうか、という問いにすり換えられ、ガレキ受け入れに反対することは同時に被災地を見捨てることを意味するのだ、というある種の権力による恫喝が作用するように仕掛けられてしまっている。この踏絵=罠に運動が嵌りこんではならないだろう。*ガレキ受け入れ反対運動の基調は、ガレキに含まれる放射性物質がもたらす人体への悪影響への危惧を根拠として、放射性物質の拡散に反対するという主張を前面に出ている場合が目立ち、結果としては政府の情緒的動員への批判にはなっていても政府の思惑を的確に批判するものになっているかどうかは一概には何とも言えない。ガレキを被災地から外に出すべきではないという「拡散」反対の主張は、ガレキを被災地で処分すること、つまり、ガレキが元々あった場所での処分か、あるいは、福島原発付近の高濃度の汚染地域での処分を要求することを意味することになる。これは感情的な動員への即自的な拒否ではあっても他者(この場合は被災地の人々を指すが)への配慮はどれほどのものがあるといえるか。もし、ガレキが人体に悪影響を及ぼすのであれば、被災地であれ他の場所であれ、人体への悪影響には変ることがない。だから被災地でのガレキ処理は、非被災地の人々の人体への影響を回避するかわりに、被災地の人々に対しては、逆に、人体への悪影響を強いることになる。だが、汚染されたガレキをすでに居住にふさわしくない福島原発の立地近隣の高汚染地域に移送するのであれば、これら地域が更に居住不可能な場所となるとしても、新な人体への被害は最小限に食い止められる。これは、現実的な選択のように思われる。たぶん、多くの汚染ガレキの拡散反対運動では、福島原発の敷地およびその周辺への汚染ガレキの集積を代替案として要求する主張が最も有力な考え方になりつつあるのではないかと思う。しかし、住民運動であれ市民運動であれ、運動がガレキの拡散反対=汚染ガレキの福島原発近隣地域での処分を要求をするばあい、私は二つの重要な前提条件が必要だと考えている。第一に、このような要求が、避難を余儀なくされている福島原発近隣住民の合意なしに主張されるべきではない、ということである。第二に、汚染ガレキを原発近隣住民が受け入れなければならない責任を負うものではないこともまた明確にすべきであって、責任を負うべきではない人々に犠牲を強いる主張であるということに関して謙虚であるべきだ、ということでる。言い換えれば、自己の要求が責任を負ういわれのない者たちに不利益を負わせる結果になるような要求を本来であればすべきでないにもかかわらず、そうした要求をせざるをえないということに対する運動側の自覚が不可欠だということである。運動がどのような名前で呼ばれようと、利益共同体を越えてある種の民衆的普遍性とでも呼びうるような内実を持つことができないならば、そうした運動は独善に陥いる危険性を持つ。だから、ガレキ拡散反対の運動が被災地の人々、とりわけ被災地での運動を担っている人々にとっても了解可能な論理を内包しているかどうか、このことの検証を欠かすことはできない。*私は、社会正義にてらして、本来リスクを誰が負うのが妥当なのかという責任問題の根本を回避すべきではないと考えている。ふたつの例を出してみよう。沖縄の米軍基地問題と今回のガレキ問題の政府による対応策の間には非常に共通した点が多いことはこれまでも指摘されてきた。沖縄への米軍基地の偏在を解決する方法として、県外移設があるが、これはリスクの拡散である。沖縄の世論にも沖縄以外の日本のどこかが引き受けるべきだという主張は決して小くはない。しかし、本土の反基地運動は米軍基地の本土拡散にははっきりと反対してきた。だが、かつて橋下元大阪府知事は基地の受け入れをいちはやく表明したことがあった。これはリスクを引き受ける「勇気」を表明することによって強い政治指導者を演出するポピュリズムの典型的な態度だったといえる。もちろん彼が個人的に米軍のリスクに日々さらされることになるわけではない。暴力、騒音、事故、「敵」からの攻撃、化学物質による汚染などの被害は基地周辺住民が被ることになるのであって橋下が負うわけではない。沖縄でもなく本土でもない場所への米軍基地移転として、グアムを有力視する声は随分前からあった。しかし、グアムでも先住民をはじめとして米軍基地反対闘争があり、受け入れ反対の声がある。グアムも沖縄同様、米軍は強制的に土地を取り上げて基地を建設した歴史があるからだ。日本の反基地運動がグアムの反基地運動の人々と交流するようになってから、日本の反基地運動のなかでグアムへの移転を要求する声は徐々にトーンダウンしてきたと思う。米軍基地は沖縄にも本土にもグアムにも、そして世界中どこにもいらないという主張がコンセンサスとなり、米軍基地は移転や移設ではなく廃止が原則的な要求になってきたと思う。このコンセンサスは、国境を越える反基地運動の連帯と共同作業なかで、相互の意見交換や議論を通じて徐々に形成されてきたものだと思う。*鎌田慧は『原発列島を行く』(集英社新書)のなかで六ヶ所村に放射性廃棄物の処理を押し付けようとする政府、電力資本、財界の思惑に対して、「『NO』の声を、六ヶ所村だけにあげさせるのではなく、地域に原発を受け入れたひとびとが、あたかもツケを他人に押しつけるように、廃棄物を六ヶ所村にはこぶ政策を拒否できるかどうか。それが原発の増殖を断つ、もっとも明快な態度の表明である」と述べている。ここで鎌田が指摘しているように、運動は「ツケを他人に押しつける」ようであってはならない。これは当たり前のようでいて容易ではない。「他人」の顔が見えない時には尚更である。放射性廃棄物処理をめぐる問題について、原発立地現地は六ヶ所村での処理に賛成してきたわけではない。廃棄物を六ヶ所村にはこぶ政策を拒否する運動が原発立地現地でも取り組まれてきたし、重要な課題だと認識されてきたと思う。以下にやや長い引用をするが、これは能登原発(志賀原発)差し止め訴訟原告団のニュースの記事である。引用：「抜き打ちで使用済み核燃料を搬出！専用輸送船六栄丸が泊原発にも寄港ｌ北電は、１号機の冷却プールに貯蔵されている使用済み核燃料三○二体のうち八四体を七〜九月中に六ヶ所村へ搬出するとしていた．このため六月三十日、豪雨のなか羽咋郡市勤労協連合会と七尾鹿島平和センターの二百名が原発周辺をデモ行進し「青森に押しつけるな！」と訴えた。 その直後の七月二日早朝専用輸送船「六栄丸」が入港して搬出典を強行し、昼過ぎに出港した。県平和運動センターは緊急声明を行うとともに、現地行動はとれなかったが同日、金沢で三五○名、松任で二百名の掃禁行進者が、抜き打ち搬出に抗議する決議を行いデモ行進した。 六栄丸は四日朝、泊原発に寄港。使用済み核燃料輸送容器２基を積込み、六日に六ヶ閲に入った．今回北電は極めて姑息かつ秘密主義のやり方で階を強行した．北海道平和センタ‐の話でも、刈羽村の住民投票以後、逆に情報隠しが強まり、直前まで日時がわからない、という。●十月、新燃料欄入反対行勤へ 北電は八月末日、十〜十二月中に９×９新燃料九二体を搬入すると県に通知した．（来年一月からの定検で交換)冬季ひかえ十月中に搬入される見通しが高い。これに備え、搬入反対行動の準備を今からはじめよう。昨年十二月から始まった「使用済み核燃料」の本格搬入は、毎月一回搬入され続け、七月六日には北海道電力臼原発から十一トンと北陸電力志賀原発から十一トン、日本原電敦賀原発から四トンが搬入された。この結果、総受入れ量は約二百七十一トンにも達した。 青森県反核実行季員会は、七月三日に知事と日本原燃?に対して中止を申し入れるととに、六日当日は現地六ヶ所港で宣伝カーによる抗蟻行動と、県庁前での昼休み抗蟻集会を行った。-------「核のゴミ」押しつけないで!青森現地の訴え使用済み核燃料は再処理するな！六ヶ所再処理工場は、二〇〇五年の稼働をめざして急ピッチで建設が進められているが、電力会社や推進派の学者からも「再処理をせず、中間貯蔵を」という声が多くなっている。当初建設を手がけた日本原燃サービス(株)の豊田正敏元社長や鈴木篇之東大教授らも『旧式で採算かとれない」として、中間貯蔵を提言している。推進派もここまで追い込まれている。核のゴミを出しつづける原発を廃止すれば全部が止まる。元からつつぶす活動をさら大きくしよう。」『能登原発とめよう原告団ニュース』60号、2001年9月12日志賀原発反対運動は「核のゴミ、作るな、運ぶな、押し付けるな」をスローガンに掲げた。運動は核のゴミを生み出している現地でもゴミの受け入れを押しつけられる側でも連動して展開された。しかし運動のなかで核のゴミをどこでどのように処分することが妥当なのかという点についての代替案が提起されていたわけではないが、運動は明らかに、ゴミを送る側でも受ける側でも問題意識の共有があったのだ。*今回のガレキ処理問題で私がガレキ受け入れ反対運動に対して抱く一つの危惧は、運動のなかでの合意形成に関わる事柄である。ガレキ受け入れ反対とガレキ搬出反対が共鳴しあう関係のなかで運動が成り立っているとはいえず、被災地の運動と非被災地の運動の相互のコミュニケーションが見えない。言い換えれば運動の民主主義が成り立っていないのである。原発事故がもたらした未曾有の放射能汚染に対する解決の方途を見い出すことは容易ではない。脱/反原発運動にとっても簡単に合意に達することのできる問題でもない。だからこそガレキの問題にどのように取り組むべきなのかを、受け入れを強いられる側の住民や運動だけで決めるべきではないのではないかと私は考える。脱/反原発運動という共通の問題意識をもつ人々が、場所を越えたコミュニケーションとコンセンサスのとれない状態のままであるべきではないだろう。このことを強く感じたのは、3月10日、11日に郡山市で開催された311一周年目の集会に参加したときである。ガレキ問題はほとんど議論のテーマになっていなかった。日常的な被曝にさらされ、除染は一刻の猶予もない大問題であるにもかかわらず、福島県や多くの県内自治体はリスクを過少に見積もり経済復興を優先させようとしている。強制避難区域の住民たちの不安定な生活が身近にあるなかで、この避難区域をゴミ捨て場にするような合意がありえようはずもない。広範囲に汚染された物質に囲まれている経験を踏まえれば、そのような経験を非汚染地域の住民に押しつけることを福島の運動が課題にできるだろうか。福島が、あるいは原発が立地している近隣地域がガレキを引き受けることは、余りにも理不尽な仕打ちだと感じているのではないかと思う。このようときに、ガレキは原発立地現地で集中して処理すべきだという主張は、運動が持つべき社会正義といったいどうやって折り合いがつくというのか。誰もが納得できるように解決する道筋をつけることが困難な問題であればあるほど、当時者の間の議論は欠かせないのではないか。福島や被災地を「他者」として討議主体から外してしまいがちな非被災地の都市部の運動は、運動が持つべき民主主義の条件を満していないのではないか。とりわけ自己のリスクと他者のリスクがトレードオフの関係にある場合(押しつけあいの関係になる場合ということだが)、他者の安全を犠牲にして自己の安全を確保する運動はかならず「他者」とされた人々との間に深刻な摩擦や確執をもたらすだけでなく、運動の分断をもたらす。運動の民主主義が向うべき方向はこれとは真逆であるはずだ。他方で政府や行政は被災地とその他の自治体相互の調整を着々とすすめてしまった。政府・自治体は原発政策について、廃炉はおろか再稼動についても態度を曖昧なままにして、被災地の窮状を利用しながら「合意形成」の形式的な手続をすすめるだろう。この「合意形成」が実質を伴なわない捏造された合意であるということを唯一白日のもとに晒すことができるのは運動の民主主義だけである。このブログで、私はこれまでも運動が「仕方がない」を口に出すべきではないと述べてきた。何よりもはっきりさせるべきは、筋を通して考えるとすれば、どのように考えなければならないのか、である。ガレキの問題であれば、その責任の所在を明確にし、責任あるものに責任を取らせるということである。被災地や福島原発の強制避難区域に住む人々に責任があるのではないことは明らかであろう。そうであるなら、彼らがガレキのリスクを負ういわれもないはずである。私は、リスクは原発のエネルギー供給によって利益を得たものが負うべきから、東電管内で処理すべきだとさえ主張した。この考えを支持する人達は少ない。しかも、石原都知事や関東地方の首長たちがガレキ受け入れを表明するに至って、小倉の主張も石原の主張も理由はともあれ結論において一致しているのであれば、結果として政府や石原を利するだけではないか、という当然の批判がある。右回りであれ左回りであれ着地点が同じというのは気持ちのいいものではない。しかし実は着地点はまったく違う。私は福島原発の最もリスクの大きい汚染されたガレキをも引き受けるべきだと言っているのだ。このことは首都圏全体を人の住むことのできない場所にする可能性のある主張でもある。しかし、それだけの危険性をはらんだ施設を東電は福島に建設したのである。メガシティ東京の「豊かさ」が誰の犠牲によって享受しえてきたのか、その犠牲の大きさに愕然とすべきなのだ。東電管内でガレキを引き受けるべきだという私の主張は非現実的だ、という反論をこれまでも受けてきた。しかし、10万年もの間安全に保管しなければならないような放射性廃棄物を生みだし続ける原発が現実に存在することを非現実的とは言わないとすれば、10万年という物差しの現実性を前提すれば、福島が汚染されたガレキから解放される可能性は十分にあると思う。地震学者たちは数百年を単位に原発の危険性を論じているように、脱/反原発運動の側も、その時間と空間の尺度を大きく変えなければならない。分単位で問題にされなければならない原子炉内部の高濃度の放射能汚染による労働者の被曝から気の遠くなるプルトニウムの半減期の時間まで、また、ほんの数ミクロンが問題になる内部被曝から地球を何周もするような大気汚染に至るまで、運動がリアリティをもって獲得すべき時間と空間の座標軸を大きく変更しなければならない。敵が非現実極まりないものを現実のなかに拗じ込み、時間と空間を大きく歪ませできたのだから、運動の側がこの非現実的な現実を越える想像力を持てなくて、どうしてこの怪物に打ち勝つことができるというのだろうか。このように考えたとき、原発の問題は、政府や極右の自治体首長たちが国益や「日本人の精神性」といったスタンスで乗り越えようとする時間と空間の幅がいかに狭いもにであるかは容易に理解できるはずだ。10万年という時間、地球規模の空間的拡がりを考えれば、原発の問題は国家も民族も越えるところでしか解決しない。このことはほぼ確実なことである。運動の民主主義は10万年の民主主義を内包しなければならないし、国家も民族もありえないであろうような未来に負債を負っていることを自覚すべき問題なのではないだろうか。目前の喫緊の課題でもあるガレキの問題をこのような迂遠な議論で煙に巻くのは議論のすり替えだろうか。そうとは思わない。埋めようが燃やそうが10万年の問題は消えてなくなるわけではないからだ。▼このエッセイの補足が以下にあります。是非あわせてお読みください。「拡散するな」から「被曝させるな」へhttp://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=156</summary>
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<![CDATA[<div>政府のガレキ拡散政策が進んでいる。この拡散に対して、ガレキ受け入れを表明した自治体では、住民たちによる受け入れ反対の運動も拡がりをみせている。特に脱原発運動を担ってきた人たちが同時にガレキ受け入れ反対運動を積極的に担っているように思う。しかし他方でガレキ受け入れの是非をめぐっては、脱/反原発運動のなかにも多様な考え方があり、意見の収束をみているとは思えないところもある。放射性物質で汚染されたガレキの問題について、受け入れに反対する場合、その結論を導く論理、ややおおげさに言えば、思想が問われるような問題である。<br /><br />被災地のガレキ、特に放射性物質に汚染されているガレキを日本全国の自治体で広域処理させようという政府の方針、とりわけ、汚染されたガレキの安全性の基準については、脱/反原発運動の担い手たちの間で妥当だとする考え方をとる者はまずいないだろう。<br /><br />野田総理大臣は3月!!日の<a href="http://www.kantei.go.jp/jp/noda/statement/2012/0311kaiken.html">会見</a>で次のように述べた。<br /><br /><br />引用：<span class="blogQuote">ガレキ広域処理は、国は一歩も二歩も前に出ていかなければなりません。震災時に助け合った日本人の気高い精神を世界が称賛をいたしました。日本人の国民性が再び試されていると思います。ガレキ広域処理は、その象徴的な課題であります。既に表明済みの受入れ自治体への支援策、すなわち処分場での放射能の測定、処分場の建設、拡充費用の支援に加えまして、新たに３つの取組みを進めたいと思います。<br />　まず、第１は、法律に基づき都道府県に被災地のガレキ受入れを文書で正式に要請するとともに、受入れ基準や処理方法を定めることであります。<br />　２つ目は、ガレキを焼却したり、原材料として活用できる民間企業、例えばセメントや製紙などでありますが、こうした企業に対して協力拡大を要請してまいります。<br />　第３に、今週、関係閣僚会議を設置し、政府一丸となって取り組む体制を整備したいと考えております。</span><br />上の発言に端的に示されているように、ガレキ受け入れ問題は「日本人の気高い精神」「日本人の国民性」を試す「象徴的な課題」だというのである。ガレキの処理になぜ「気高い精神」や「日本人の国民性」が関係するのか、私には全く理解できない。そもそも原発事故がもたらした深刻な放射能汚染の事実を隠蔽して、多くの福島県の人々を被曝させた政権には「助け合う精神」などどこにもなかった。むしろ、権力の安全のために民衆の安全を見捨てた冷酷さしか見いだすことができなかった。その政府が「気高い精神」を口にして広域処理の必要を訴えるのは、被災地の窮状の政治的利用以外のなにものでもなかろう。<br /><br />ガレキの理にかなった処理は、精神や国民性の問題ではなく、どの「国民」であれ同じ状況であれば同じ答えになって当然の問題なのではなかろうか。にもかかわらず「気高い精神」や「国民性」が登場するということは、広域処理には合理的な解決とは関わりのない別の要素が絡んでいることを暗示しているといえる。危機に際して理屈抜きに心情によって人々を人々の生存の危機ではなく国家的危機への対処のために動員するやりかたは、私には、この国のファシズムの歴史を想起させる。理屈を後回しにし、討議に基づく合意形成を経ることなく、心情に訴えることで人々の自発的同調を強制する。これは仕組まれた踏絵である。被災地の窮状を見捨てるのかどうか、という問いが、ガレキを受け入れるかどうか、という問いにすり換えられ、ガレキ受け入れに反対することは同時に被災地を見捨てることを意味するのだ、というある種の権力による恫喝が作用するように仕掛けられてしまっている。この踏絵=罠に運動が嵌りこんではならないだろう。<br /><br />*<br /><br />ガレキ受け入れ反対運動の基調は、ガレキに含まれる放射性物質がもたらす人体への悪影響への危惧を根拠として、放射性物質の拡散に反対するという主張を前面に出ている場合が目立ち、結果としては政府の情緒的動員への批判にはなっていても政府の思惑を的確に批判するものになっているかどうかは一概には何とも言えない。ガレキを被災地から外に出すべきではないという「拡散」反対の主張は、ガレキを被災地で処分すること、つまり、ガレキが元々あった場所での処分か、あるいは、福島原発付近の高濃度の汚染地域での処分を要求することを意味することになる。これは感情的な動員への即自的な拒否ではあっても他者(この場合は被災地の人々を指すが)への配慮はどれほどのものがあるといえるか。<br /><br />もし、ガレキが人体に悪影響を及ぼすのであれば、被災地であれ他の場所であれ、人体への悪影響には変ることがない。だから被災地でのガレキ処理は、非被災地の人々の人体への影響を回避するかわりに、被災地の人々に対しては、逆に、人体への悪影響を強いることになる。だが、汚染されたガレキをすでに居住にふさわしくない福島原発の立地近隣の高汚染地域に移送するのであれば、これら地域が更に居住不可能な場所となるとしても、新な人体への被害は最小限に食い止められる。これは、現実的な選択のように思われる。たぶん、多くの汚染ガレキの拡散反対運動では、福島原発の敷地およびその周辺への汚染ガレキの集積を代替案として要求する主張が最も有力な考え方になりつつあるのではないかと思う。<br /><br />しかし、住民運動であれ市民運動であれ、運動がガレキの拡散反対=汚染ガレキの福島原発近隣地域での処分を要求をするばあい、私は二つの重要な前提条件が必要だと考えている。<br /><br />第一に、このような要求が、避難を余儀なくされている福島原発近隣住民の合意なしに主張されるべきではない、ということである。第二に、汚染ガレキを原発近隣住民が受け入れなければならない責任を負うものではないこともまた明確にすべきであって、責任を負うべきではない人々に犠牲を強いる主張であるということに関して謙虚であるべきだ、ということでる。言い換えれば、自己の要求が責任を負ういわれのない者たちに不利益を負わせる結果になるような要求を本来であればすべきでないにもかかわらず、そうした要求をせざるをえないということに対する運動側の自覚が不可欠だということである。<br /><br />運動がどのような名前で呼ばれようと、利益共同体を越えてある種の民衆的普遍性とでも呼びうるような内実を持つことができないならば、そうした運動は独善に陥いる危険性を持つ。だから、ガレキ拡散反対の運動が被災地の人々、とりわけ被災地での運動を担っている人々にとっても了解可能な論理を内包しているかどうか、このことの検証を欠かすことはできない。<br /><br />*<br /><br />私は、社会正義にてらして、本来リスクを誰が負うのが妥当なのかという責任問題の根本を回避すべきではないと考えている。ふたつの例を出してみよう。<br /><br />沖縄の米軍基地問題と今回のガレキ問題の政府による対応策の間には非常に共通した点が多いことはこれまでも指摘されてきた。沖縄への米軍基地の偏在を解決する方法として、県外移設があるが、これはリスクの拡散である。沖縄の世論にも沖縄以外の日本のどこかが引き受けるべきだという主張は決して小くはない。しかし、本土の反基地運動は米軍基地の本土拡散にははっきりと反対してきた。だが、かつて橋下元大阪府知事は基地の受け入れをいちはやく表明したことがあった。これはリスクを引き受ける「勇気」を表明することによって強い政治指導者を演出するポピュリズムの典型的な態度だったといえる。もちろん彼が個人的に米軍のリスクに日々さらされることになるわけではない。暴力、騒音、事故、「敵」からの攻撃、化学物質による汚染などの被害は基地周辺住民が被ることになるのであって橋下が負うわけではない。<br /><br />沖縄でもなく本土でもない場所への米軍基地移転として、グアムを有力視する声は随分前からあった。しかし、グアムでも先住民をはじめとして米軍基地反対闘争があり、受け入れ反対の声がある。グアムも沖縄同様、米軍は強制的に土地を取り上げて基地を建設した歴史があるからだ。日本の反基地運動がグアムの反基地運動の人々と交流するようになってから、日本の反基地運動のなかでグアムへの移転を要求する声は徐々にトーンダウンしてきたと思う。米軍基地は沖縄にも本土にもグアムにも、そして世界中どこにもいらないという主張がコンセンサスとなり、米軍基地は移転や移設ではなく廃止が原則的な要求になってきたと思う。このコンセンサスは、国境を越える反基地運動の連帯と共同作業なかで、相互の意見交換や議論を通じて徐々に形成されてきたものだと思う。<br /><br />*<br /><br />鎌田慧は『原発列島を行く』(集英社新書)のなかで六ヶ所村に放射性廃棄物の処理を押し付けようとする政府、電力資本、財界の思惑に対して、「『NO』の声を、六ヶ所村だけにあげさせるのではなく、地域に原発を受け入れたひとびとが、あたかもツケを他人に押しつけるように、廃棄物を六ヶ所村にはこぶ政策を拒否できるかどうか。それが原発の増殖を断つ、もっとも明快な態度の表明である」と述べている。<br /><br />ここで鎌田が指摘しているように、運動は「ツケを他人に押しつける」ようであってはならない。これは当たり前のようでいて容易ではない。「他人」の顔が見えない時には尚更である。<br /><br />放射性廃棄物処理をめぐる問題について、原発立地現地は六ヶ所村での処理に賛成してきたわけではない。廃棄物を六ヶ所村にはこぶ政策を拒否する運動が原発立地現地でも取り組まれてきたし、重要な課題だと認識されてきたと思う。以下にやや長い引用をするが、これは能登原発(志賀原発)差し止め訴訟原告団のニュースの記事である。<br /><br />引用：<span class="blogQuote">「抜き打ちで使用済み核燃料を搬出！<br />専用輸送船六栄丸が泊原発にも寄港ｌ<br />北電は、１号機の冷却プールに貯蔵されている使用済み核燃料三○二体のうち八四体を七〜九月中に六ヶ所村へ搬出するとしていた．このため六月三十日、豪雨のなか羽咋郡市勤労協連合会と七尾鹿島平和センターの二百名が原発周辺をデモ行進し「青森に押しつけるな！」と訴えた。<br /><br /> その直後の七月二日早朝専用輸送船「六栄丸」が入港して搬出典を強行し、昼過ぎに出港した。県平和運動センターは緊急声明を行うとともに、現地行動はとれなかったが同日、金沢で三五○名、松任で二百名の掃禁行進者が、抜き打ち搬出に抗議する決議を行いデモ行進した。<br /><br /> 六栄丸は四日朝、泊原発に寄港。使用済み核燃料輸送容器２基を積込み、六日に六ヶ閲に入った．今回北電は極めて姑息かつ秘密主義のやり方で階を強行した．北海道平和センタ‐の話でも、刈羽村の住民投票以後、逆に情報隠しが強まり、直前まで日時がわからない、という。<br /><br />●十月、新燃料欄入反対行勤へ<br /> 北電は八月末日、十〜十二月中に９×９新燃料九二体を搬入すると県に通知した．（来年一月からの定検で交換)冬季ひかえ十月中に搬入される見通しが高い。これに備え、搬入反対行動の準備を今からはじめよう。<br /><br />昨年十二月から始まった「使用済み核燃料」の本格搬入は、毎月一回搬入され続け、七月六日には北海道電力臼原発から十一トンと北陸電力志賀原発から十一トン、日本原電敦賀原発から四トンが搬入された。この結果、総受入れ量は約二百七十一トンにも達した。<br /><br /> 青森県反核実行季員会は、七月三日に知事と日本原燃?に対して中止を申し入れるととに、六日当日は現地六ヶ所港で宣伝カーによる抗蟻行動と、県庁前での昼休み抗蟻集会を行った。<br />-------<br />「核のゴミ」押しつけないで!青森現地の訴え<br />使用済み核燃料は再処理するな！<br />六ヶ所再処理工場は、二〇〇五年の稼働をめざして急ピッチで建設が進められているが、電力会社や推進派の学者からも「再処理をせず、中間貯蔵を」という声が多くなっている。当初建設を手がけた日本原燃サービス(株)の豊田正敏元社長や鈴木篇之東大教授らも『旧式で採算か<br />とれない」として、中間貯蔵を提言している。推進派もここまで追い込まれている。核のゴミを出しつづける原発を廃止すれば全部が止まる。元からつつぶす活動をさら大きくしよう。」<br /><a href="http://www.alt-movements.org/shikagenpatsu/news_no60.pdf">『能登原発とめよう原告団ニュース』60号、2001年9月12日</a></span><br />志賀原発反対運動は「核のゴミ、作るな、運ぶな、押し付けるな」をスローガンに掲げた。運動は核のゴミを生み出している現地でもゴミの受け入れを押しつけられる側でも連動して展開された。<br /><br />しかし運動のなかで核のゴミをどこでどのように処分することが妥当なのかという点についての代替案が提起されていたわけではないが、運動は明らかに、ゴミを送る側でも受ける側でも問題意識の共有があったのだ。<br /><br />*<br /><br />今回のガレキ処理問題で私がガレキ受け入れ反対運動に対して抱く一つの危惧は、運動のなかでの合意形成に関わる事柄である。ガレキ受け入れ反対とガレキ搬出反対が共鳴しあう関係のなかで運動が成り立っているとはいえず、被災地の運動と非被災地の運動の相互のコミュニケーションが見えない。言い換えれば運動の民主主義が成り立っていないのである。原発事故がもたらした未曾有の放射能汚染に対する解決の方途を見い出すことは容易ではない。脱/反原発運動にとっても簡単に合意に達することのできる問題でもない。だからこそガレキの問題にどのように取り組むべきなのかを、受け入れを強いられる側の住民や運動だけで決めるべきではないのではないかと私は考える。脱/反原発運動という共通の問題意識をもつ人々が、場所を越えたコミュニケーションとコンセンサスのとれない状態のままであるべきではないだろう。<br /><br />このことを強く感じたのは、3月10日、11日に郡山市で開催された311一周年目の集会に参加したときである。ガレキ問題はほとんど議論のテーマになっていなかった。日常的な被曝にさらされ、除染は一刻の猶予もない大問題であるにもかかわらず、福島県や多くの県内自治体はリスクを過少に見積もり経済復興を優先させようとしている。強制避難区域の住民たちの不安定な生活が身近にあるなかで、この避難区域をゴミ捨て場にするような合意がありえようはずもない。広範囲に汚染された物質に囲まれている経験を踏まえれば、そのような経験を非汚染地域の住民に押しつけることを福島の運動が課題にできるだろうか。福島が、あるいは原発が立地している近隣地域がガレキを引き受けることは、余りにも理不尽な仕打ちだと感じているのではないかと思う。このようときに、ガレキは原発立地現地で集中して処理すべきだという主張は、運動が持つべき社会正義といったいどうやって折り合いがつくというのか。誰もが納得できるように解決する道筋をつけることが困難な問題であればあるほど、当時者の間の議論は欠かせないのではないか。福島や被災地を「他者」として討議主体から外してしまいがちな非被災地の都市部の運動は、運動が持つべき民主主義の条件を満していないのではないか。とりわけ自己のリスクと他者のリスクがトレードオフの関係にある場合(押しつけあいの関係になる場合ということだが)、他者の安全を犠牲にして自己の安全を確保する運動はかならず「他者」とされた人々との間に深刻な摩擦や確執をもたらすだけでなく、運動の分断をもたらす。運動の民主主義が向うべき方向はこれとは真逆であるはずだ。<br /><br />他方で政府や行政は被災地とその他の自治体相互の調整を着々とすすめてしまった。政府・自治体は原発政策について、廃炉はおろか再稼動についても態度を曖昧なままにして、被災地の窮状を利用しながら「合意形成」の形式的な手続をすすめるだろう。この「合意形成」が実質を伴なわない捏造された合意であるということを唯一白日のもとに晒すことができるのは運動の民主主義だけである。<br /><br />このブログで、私はこれまでも運動が「仕方がない」を口に出すべきではないと述べてきた。何よりもはっきりさせるべきは、筋を通して考えるとすれば、どのように考えなければならないのか、である。ガレキの問題であれば、その責任の所在を明確にし、責任あるものに責任を取らせるということである。被災地や福島原発の強制避難区域に住む人々に責任があるのではないことは明らかであろう。そうであるなら、彼らがガレキのリスクを負ういわれもないはずである。私は、リスクは原発のエネルギー供給によって利益を得たものが負うべきから、東電管内で処理すべきだとさえ主張した。この考えを支持する人達は少ない。しかも、石原都知事や関東地方の首長たちがガレキ受け入れを表明するに至って、小倉の主張も石原の主張も理由はともあれ結論において一致しているのであれば、結果として政府や石原を利するだけではないか、という当然の批判がある。右回りであれ左回りであれ着地点が同じというのは気持ちのいいものではない。しかし実は着地点はまったく違う。私は福島原発の最もリスクの大きい汚染されたガレキをも引き受けるべきだと言っているのだ。このことは首都圏全体を人の住むことのできない場所にする可能性のある主張でもある。しかし、それだけの危険性をはらんだ施設を東電は福島に建設したのである。メガシティ東京の「豊かさ」が誰の犠牲によって享受しえてきたのか、その犠牲の大きさに愕然とすべきなのだ。<br /><br />東電管内でガレキを引き受けるべきだという私の主張は非現実的だ、という反論をこれまでも受けてきた。しかし、10万年もの間安全に保管しなければならないような放射性廃棄物を生みだし続ける原発が現実に存在することを非現実的とは言わないとすれば、10万年という物差しの現実性を前提すれば、福島が汚染されたガレキから解放される可能性は十分にあると思う。地震学者たちは数百年を単位に原発の危険性を論じているように、脱/反原発運動の側も、その時間と空間の尺度を大きく変えなければならない。分単位で問題にされなければならない原子炉内部の高濃度の放射能汚染による労働者の被曝から気の遠くなるプルトニウムの半減期の時間まで、また、ほんの数ミクロンが問題になる内部被曝から地球を何周もするような大気汚染に至るまで、運動がリアリティをもって獲得すべき時間と空間の座標軸を大きく変更しなければならない。敵が非現実極まりないものを現実のなかに拗じ込み、時間と空間を大きく歪ませできたのだから、運動の側がこの非現実的な現実を越える想像力を持てなくて、どうしてこの怪物に打ち勝つことができるというのだろうか。<br /><br />このように考えたとき、原発の問題は、政府や極右の自治体首長たちが国益や「日本人の精神性」といったスタンスで乗り越えようとする時間と空間の幅がいかに狭いもにであるかは容易に理解できるはずだ。10万年という時間、地球規模の空間的拡がりを考えれば、原発の問題は国家も民族も越えるところでしか解決しない。このことはほぼ確実なことである。運動の民主主義は10万年の民主主義を内包しなければならないし、国家も民族もありえないであろうような未来に負債を負っていることを自覚すべき問題なのではないだろうか。目前の喫緊の課題でもあるガレキの問題をこのような迂遠な議論で煙に巻くのは議論のすり替えだろうか。そうとは思わない。埋めようが燃やそうが10万年の問題は消えてなくなるわけではないからだ。<br /><br />▼このエッセイの補足が以下にあります。是非あわせてお読みください。<br />「拡散するな」から「被曝させるな」へ<br /><a 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		<published>2011-12-31T23:41:23+09:00</published>
		<updated>2012-01-01T02:02:41+09:00</updated>
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		<summary type="html" xml:base="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/" xml:lang="ja">「資本による機械使用の現実がどのような状態にあるかを暴きたてるような人間は、機械使用そのものを望まない人間であり、つまりは社会的進歩の敵だとされるのである。」（カール・マルクス『資本論』第13章「機械類と大工業」、今村仁司、三島憲一、鈴木直訳、筑摩書房）定期点検に入る原発が増え、ストレステストのあり方に地元自治体も懐疑的ななかで、停止している原発が増えている。28日現在で商用原発54基中6基のみが稼働しているだけになった。来年4月には全原発の停止になる可能性が高い。各地で再稼働中止や廃炉にむけた訴訟も起こされている。しかし、同時に、再稼働に向けたこれまで以上に大きな圧力にみまわれるだろうとも思う。私は根っからの悲観論者なのかもしれないが、この状況から一気に原発の廃止へと向かうかどうかは、反/脱原発運動にかかっている。原発の停止が脱原発運動の勝利の結果ではなく、原発推進の国策を前提としたこの国の原発関連の法令に基づく定期点検や福島原発事故をふまえたストレステストなど原発の稼働を前提とした対応と、こうした政府の対応に対する地元の意向との間の齟齬の結果であって、廃炉を前提としたものではない。これまでの原発の立地、建設、稼働はすべて安全、低コスト、クリーンという三つの神話を大前提にしてきた。この前提が崩れた中で、神話の再構築と神話の解体との間のせめぎあいが今起きていることだ。再稼働への要求は、政府、財界では主流でありつづけており、多くの原発現地でも再稼働への要求は無視できない力を持ちつづけている。民主と自民という与野党最大勢力の原発への態度、資本（財界）の動向、現行の制度や法、電力会社の経営、地元自治体への補助金といった一連の政治力学のベクトルを勘案してみれば容易に想像がつくように、稼働停止から再稼働へ至るいくつもの可能性が残されており、逆に、稼働停止から廃炉に至るプロセスにはより多くの困難が横たわっている。夏場の電力不足キャンペーン、浜岡の再稼働の画策から玄海原発の再稼働強行など３１１以後の一連の再稼働にむけた強引な手法をみればわかるように、再稼働への政府と電力会社の意欲は根強い。福島県は、10月20日に県議会が県内全原発の廃炉を求める請願を採択し（朝日10月21日）、年末に佐藤知事は東電に対して県内の全原発の廃炉を申し入れたが、こうした動きが他の自治体に波及するような状況が見られるとはかならずしもいえないのではないか。●民主党も自民党も基本は原発推進にかわりはない。民主党の「基本政策」には「エネルギーの安定供給と環境との調和を達成するため、原子力発電の安全性向上と国民的合意を形成するとともに、新エネルギーの積極的な開発・普及、省エネルギーの推進を図り、エネルギーのベストミックスを実現する。エネルギー供給国との対話を強化する。」という９８年の基本政策が未だにウエッブ上に掲げられたままだ。また、３１１以後も党のエネルギープロジェクトチーム（ＰＴ）は原発再稼働推進派が多数を占めているといわれているし（朝日）、原発事故収束対策プロジェクトチームが27日に出した「原子力規制新組織のあり方について」も原発の存続を前提としたリスク管理の組織再編を意図したものであって、脱原発＝廃炉への方向性はまったくない。民主党内部の脱原発派は、今に至るまで、エネルギー政策において主導権をとったことはない。福島原発の事故処理が事故の深刻な状況や放射能被害の隠蔽、初動対応の遅れなど、いずれも菅政権の対応はまともとはいえなかった。7月に菅は閣僚懇談会で脱原発の方針を口にするが（朝日）これも個人的な見解にすぎず内閣方針とすることは抑え込まれた。だからといって、菅が脱原発について、原則を貫こうとして首相の座から追われたというようなことでもない。原発輸出を国策とする３１１以前から民主党の方針は堅持されたままという誰の目にも欺瞞としかいいようのない政策の不整合を菅政権は露呈していたからだ。同時に、高濃度放射性廃棄物の最終処分場を米国と共同でモンゴルに建設することを画策するなどの＜核＞をめぐるグローバルな市場戦略にはむしろ力を入れてきた。（自民党衆議院議員、小野寺五典の質問趣意書への回答）言い換えれば、国内では脱原発、海外で原発推進という明らかな二枚舌を使って政権の維持に必要な野党自民党へのすりよりを試みたのだといえる。こうした権力ゲームの犠牲になるのは、民衆である。（しかし、その民衆が力なき弱者なわけではないということをこの国の権力者は忘れがちだ）他方で自民党もまた7月に国家戦略本部が出した「日本再興｜自民党の中長期政策体系」のなかで「安全強化策を施した上での既存原発の稼働維持」として脱原発路線ではなくベストミックスを提唱しており、原発推進が基本方針であることにかわりはない。民主党も自民党も脱原発については本気だとはいえない。官僚も同様だろう。世論の動向に影響されるとはいえ、むしろ世論を原発存続の方向に誘導しようとする意図の方がずっと強い。なぜそれまでに原発に固執するのか。●資本の欲望財界の動向は政府以上に明確だ。経団連は11月に出した「エネルギー政策に関する第２次提言」のなかで次のように述べている。当面、エネルギーおよび電源構成についての新たな目標は、一定の幅をもった柔軟な計画とすべきである。そのうえで、安全性及び経済合理性の確保を前提に、徹底した省エネを進め、原子力、化石燃料、再生可能エネルギーといった多様なエネルギーそれぞれについて、最大限に効率的、効果的な利用を可能とするための諸施策を提示することが重要である。原子力は、わが国の電源構成の中で、これまでベース電源として基幹的な役割を担ってきた。政府は、原子力が今後とも一定の役割を果たせるよう、国民の信頼回復に全力を尽くさなければならない。日本商工会議所の岡村会頭は10月20日に福島市内で記者会見し、原発再稼働を主張しエネルギー政策の見直しは10年後くらい先の話だと述べている。（福島民友ニュース）関西経済同友会も大阪商工会議所などとともに、12月22日に枝野経済産業大臣に対して、電力不足解消と原発の早期再稼働の取り組み強化を要請している。（日本経済新聞12月22日）こうしてみると、ソフトバンクの孫正義や城南信用金庫の脱原発が話題になってはいてもそれが財界の主流などとはとうてい言える状況にはない。原発なくても電気は足りている、という主張が反/脱原発運動の多数の意見だとおもう。これは事実であるが、この事実をもって財界が説得されることは１００％ありえないと私は考えている。原発がなくても電気が足りているのは、日本国内の今現在（あるいはここ数年）のことという限定された条件のなかでのことだからだ。これまでの経済成長の構造をふまえたとき、GDPの成長率とエネルギー消費の増加率の間にはかなりはっきりとした正の相関関係がある。資本の考え方は、経済成長にはエネルギー消費の増加は避けられないだけでなく、エネルギー供給が経済成長のネックになることは許されない、というところが基本だ。原発停止にともなうエネルギー供給の低下を補完するものとして、当面は火力など既存の発電設備や電力の自由化で対応し、将来的には再生可能エネルギーをあてると考えるのが脱原発経済成長論の基本だろうが、この理屈は資本には通用しない。原発推進派の発想は、再生可能エネルギーに加えて稼働可能な原発によるエネルギー供給が欲しいのである。原発に替えてではなく、原発に加えて、という発想が財界と政府にはある。資本は再生可能エネルギーよってもたらされる電力供給の増加は歓迎するだろうが、それだけでなく、休止中の原発をすべて再稼働したら得られるであろう電力供給をみすみす見逃したくないということだ。電力供給はどれだけ多くても多すぎることはない、というのが資本の基本的なスタンスである。こうしたスタンスは、経済は成長しなければならず、成長の実現のためには国際競争力で優位に立つことができるインフラ（エネルギーに関する国策）が必要だという発想と切り離すことができない。言い換えれば、原発稼働の最大の動因は資本にとっての経済成長という資本の欲望なのである。持続可能な成長と言おうと同じことである。将来の成長を見込んだエネルギー需給の計算に対して、明確な批判の観点を構築することがぜひとも必要になる。現行の資本主義と近代国家のシステムの根幹を維持したまま、新自由主義政策をとらないとしても、再生可能エネルギーをベースにした経済成長という現実主義は、資本蓄積の宿命としての成長とエネルギーの罠に必ずはまり込む。「再生エネルギーへのシフト」が原発を織り込んで全発電量のなかの原発の比率を相対的に低下させるだけのことなら原発の稼働は阻止できない。原発全廃を前提としてエネルギー供給構造の根本的転換を明言するかどうかが原発の是非をめぐる譲るべきではない分かれ道である。エネルギー供給の「ベストミックス」は言うまでもなく選択肢にはなりようがない。しかし、さらにこれだけでも十分ではない。原発輸出が可能となる国際的な構造がある。電気が足りているのは先進国に限られている。地球規模で先進国の一人当たりの電力消費を理想モデルとすれば、電力は圧倒的に不足している。この不足を補うための原発への需要は当面の間減ることはないだろう。もし、世界中の人々が先進国のライフスタイルを理想とする限りは。原発の拡散を阻止するためには、産業や資本の構造に接合されている先進国のライフスタイルの革命が不可欠だ。（「電力は足りてはいけない」参照）●国家安全保障による原発必要論核の平和利用という欺瞞をささえてきたのは、原発によるエネルギー供給がもたらす経済的な繁栄という「夢」だったわけだが、この夢の背後には常に核武装との関わりがあることはこれまでも繰り返し指摘されてきたにも関わらず、平和運動でも反原発運動でも最近まで主要な関心ではなかった。今は廃刊になってしまった雑誌『軍事民論』などは核武装論にいち早く着目して日本の核開発や平和利用の問題を指摘していたし、毎日新聞社会部が『ウサギの耳とハトの夢―日本の核と情報戦略』（リベルタ出版）で戦後日本の核武装の系譜をレポートしたのは1995年のことである。この間、原発の危険性の指摘に加えてその経済性における優位という神話が崩れるなかで、原発必要論を経済一辺倒では維持できなくなるにつれて、原発が高いリスクとコストを抱えても必要である根拠として、安全保障上の効果を論じる傾向がはっきりと現れてきた。元航空幕僚長の田母神俊雄は自身のブログで、山下俊一らの議論を引きながら放射能被曝の危険性を否定したり、「反原発は我が国の核武装を封じようとする反核運動でもある。“原発は危険”という認識は“第2の（誤った）歴史認識”だ」と述べて原発と核武装の関係性を肯定した。また、自民党の石破茂元防衛大臣は8月16日の報道ステーションで次のように述べたといわれている。「原子力発電というのがそもそも、原子力潜水艦から始まったものですのでね。日本以外のすべての国は、原子力政策というのは核政策とセットなわけですね。ですけども、日本は核を持つべきだと私は思っておりません。しかし同時に、日本は（核を）作ろうと思えばいつでも作れる。１年以内に作れると。それはひとつの抑止力ではあるのでしょう。それを本当に放棄していいですかということは、それこそもっと突き詰めた議論が必要だと思うし、私は放棄すべきだとは思わない。なぜならば、日本の周りはロシアであり、中国であり、北朝鮮であり、そしてアメリカ合衆国であり、同盟国でるか否かを捨象して言えば、核保有国が日本の周りを取り囲んでおり、そして弾道ミサイルの技術をすべての国が持っていることは決して忘れるべきではありません」（ニコブログから引用）9月7日づけの読売新聞社説では核兵器の材料になり得るプルトニウムの保有が外交的には、潜在的核抑止力として機能することを評価する主張を展開した。また山名元、森本敏,中野剛志『それでも日本は原発を止められない』（産経新聞出版）では、京大原子炉実験所教授の山名元が中心となって原発必要論を経済、軍事、外交の観点から論じ、石破や田母神同様、核抑止力としての原発の必要性を主張する。（本書への批判としては前田朗のブログ参照。）原発推進派の布陣は、こうして、日本経済の成長のネックとなるエネルギー需給の逼迫（マルクス流にいえば、エネルギー供給に対する資本の過剰）を省エネ技術と省エネライフスタイルへの転換（資本の有機的構成高度化の蓄積）と原発の稼働によって解決するという経済のシナリオに加えて、安全保障上の必要という経済合理性では説明しきれない要因との組み合わせによって、組み立てられている。このいずれもが、汚染による被害や原発の事故処理をめぐる損失よりも国家と資本の利益を優先させる発想となっているという意味で、原発推進派の基調は、人間よりも資本の利益と国家の利益を優先させる姿勢で一貫している。これは驚くようなことではなく、近代社会の資本主義モデルが本質的にもってきた性質そのものである。これほどはっきりした反人間的な経済と統治の構造が表出しているにもかかわらず、そうであってもなお、＜核＞への欲望のない資本主義の可能性はあるという神話は未だに生きつづけているようにも見える。資本と国家はそれほどに人間的であり平和な存在だったことが、ここ数世紀の歴史のなかでどれほどあったというのだろうか？●人工的な死事故のリスクより利潤が優先するのは資本主義が持って生まれた本性だ。近代奴隷貿易の犠牲者1000万人、北米先住民500万人の大半を殺戮することで生み出された「新世界」。産業革命の時代に、最先端の工場は同時に児童労働、劣悪な労働環境、長時間労働、大気汚染を貧困とともにもたらした。近代文明のなかでの人間の死は、資本の機械と国家の機械がもたらした人工的な死がその大半を占めている。自然の死から人々の大半は遠ざけられてきた。人々は社会の中で＜労働力＞となることを予定して産み出され、育てられ、人工的な死によって終わりを遂げるようにプログラムされた社会、それが資本主義であり、近代の工業化された国家に共通した構造だ。資本主義中枢諸国の先端的な工場から地下経済が支配するスウェットショップの移民労働者の労働現場に至るまで、至る所に人工的な死は見出される。この国が生み出す毎年3万人を越す自殺者の死と福島原発がもたらすであろう緩やかな死も、人工的な死である。植民地の獲得から帝国主義の戦争、20世紀のホロコースト（この中には日本帝国主義によるアジア大陸での大量虐殺も当然含まれる）から＜核＞の技術と文化へと受け継がれて今に至る一連の構造があり、チェルノブイリも福島もこの歴史をふまえれば例外とはいえないのだ。戦争が引き起こすわかりやすい強いられた死と日常生活のなかで人々が事故や労働災害で死亡することとの間には、社会が人々に強いる構造的な暴力と死という点では共通性がある。戦争はどこにでもあるともいえるし、「豊かさ」や人々の「幸福」を支える技術は常に人を殺す潜勢力を内包しているともいえる。交通手段は軍隊を運び、強制収容所に囚人たちを運び、職場に労働力としての人間を運び、ディズニーランドに家族を運ぶ。電力は、人間から夜を奪い、24時間工場を稼働させて労働者を酷使するインフラを提供し、世界中の基地をつなぐネットワークのインフラを支え、電気椅子を稼働させ、恋人たちのディナーや家族の団らんを支える。人工的な死と生がここでは引き剥がしようのない一体のものとして私たちのこの世界の「豊かさ」と悲惨を生み出している。しかし、豊かさと悲劇が誰にでも平等に配分されるわけではない。ある人たちにはもっぱら豊かさが、ある人たちには悲惨が配当される。（平均すればだれもがこの文明の光のなかで豊で幸福であるに違いないというのが支配者たちの言い分になる）この配分の構造を支配している資本と国家が同時に人工的な死の生産者でもある。私たちはこのような強いられた死に怯える。しかし、資本と国家はこうした死を当たり前のこととして、そこから政治的経済的な利益を得ることに慣れっこになっている。資本も国家も単なる機械ではない。これらは社会を構成している人間の組織でもある。強いられた死、人工的な死は彼らが私たちに与えるものであると同時に、私たちもまたこの人工的な死の加担者であることを避けることもできない。しかし、だからこそ私たちは闘うのである。</summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/">
<![CDATA[<div><span class="blogQuote"><br />「資本による機械使用の現実がどのような状態にあるかを暴きたてるような人間は、機械使用そのものを望まない人間であり、つまりは社会的進歩の敵だとされるのである。」（カール・マルクス『資本論』第13章「機械類と大工業」、今村仁司、三島憲一、鈴木直訳、筑摩書房）</span><br /><br />定期点検に入る原発が増え、ストレステストのあり方に地元自治体も懐疑的ななかで、停止している原発が増えている。28日現在で商用原発54基中6基のみが<a href="http://genpatumap.seesaa.net/article/198173618.html">稼働</a>しているだけになった。来年4月には全原発の停止になる<a href="http://www.nuketext.org/parts/NPPstop.jpg">可能性</a>が高い。各地で再稼働中止や廃炉にむけた訴訟も起こされている。しかし、同時に、再稼働に向けたこれまで以上に大きな圧力にみまわれるだろうとも思う。私は根っからの悲観論者なのかもしれないが、この状況から一気に原発の廃止へと向かうかどうかは、反/脱原発運動にかかっている。<br /><br />原発の停止が脱原発運動の勝利の結果ではなく、原発推進の国策を前提としたこの国の原発関連の法令に基づく定期点検や福島原発事故をふまえたストレステストなど原発の稼働を前提とした対応と、こうした政府の対応に対する地元の意向との間の齟齬の結果であって、廃炉を前提としたものではない。これまでの原発の立地、建設、稼働はすべて安全、低コスト、クリーンという三つの神話を大前提にしてきた。この前提が崩れた中で、神話の再構築と神話の解体との間のせめぎあいが今起きていることだ。<br /><br />再稼働への要求は、政府、財界では主流でありつづけており、多くの原発現地でも再稼働への要求は無視できない力を持ちつづけている。民主と自民という与野党最大勢力の原発への態度、資本（財界）の動向、現行の制度や法、電力会社の経営、地元自治体への補助金といった一連の政治力学のベクトルを勘案してみれば容易に想像がつくように、稼働停止から再稼働へ至るいくつもの可能性が残されており、逆に、稼働停止から廃炉に至るプロセスにはより多くの困難が横たわっている。夏場の電力不足キャンペーン、浜岡の再稼働の画策から玄海原発の再稼働強行など３１１以後の一連の再稼働にむけた強引な手法をみればわかるように、再稼働への政府と電力会社の意欲は根強い。福島県は、10月20日に県議会が県内全原発の廃炉を求める請願を採択し（<a href="http://www.asahi.com/national/update/1021/TKY201110200730.html">朝日10月21日</a>）、年末に佐藤知事は東電に対して県内の全原発の廃炉を<a href="http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&blockId=9919548&newsMode=article">申し入れ</a>たが、こうした動きが他の自治体に波及するような状況が見られるとはかならずしもいえないのではないか。<br /><br />●民主党も自民党も基本は原発推進にかわりはない。<br /><br />民主党の「基本政策」には「エネルギーの安定供給と環境との調和を達成するため、原子力発電の安全性向上と国民的合意を形成するとともに、新エネルギーの積極的な開発・普及、省エネルギーの推進を図り、エネルギーのベストミックスを実現する。エネルギー供給国との対話を強化する。」という９８年の<a href="http://www.dpj.or.jp/about/dpj/policy">基本政策</a>が未だにウエッブ上に掲げられたままだ。また、３１１以後も党のエネルギープロジェクトチーム（ＰＴ）は原発再稼働推進派が多数を占めているといわれているし（<a href="http://www.asahi.com/politics/update/1223/TKY201112220816.html">朝日</a>）、原発事故収束対策プロジェクトチームが27日に出した<a href="http://www.dpj.or.jp/download/5711.pdf">「原子力規制新組織のあり方について」</a>も原発の存続を前提としたリスク管理の組織再編を意図したものであって、脱原発＝廃炉への方向性はまったくない。<br /><br />民主党内部の脱原発派は、今に至るまで、エネルギー政策において主導権をとったことはない。福島原発の事故処理が事故の深刻な状況や放射能被害の隠蔽、初動対応の遅れなど、いずれも菅政権の対応はまともとはいえなかった。7月に菅は閣僚懇談会で脱原発の方針を口にするが（<a href="http://www.asahi.com/politics/update/0715/TKY201107150286.html">朝日</a>）これも個人的な見解にすぎず内閣方針とすることは抑え込まれた。だからといって、菅が脱原発について、原則を貫こうとして首相の座から追われたというようなことでもない。原発輸出を国策とする３１１以前から民主党の方針は堅持されたままという誰の目にも欺瞞としかいいようのない政策の不整合を菅政権は露呈していたからだ。同時に、高濃度放射性廃棄物の最終処分場を米国と共同でモンゴルに建設することを画策するなどの＜核＞をめぐるグローバルな市場戦略にはむしろ力を入れてきた。（自民党衆議院議員、小野寺五典の質問趣意書への<a href="http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b177345.htm">回答</a>）言い換えれば、国内では脱原発、海外で原発推進という明らかな二枚舌を使って政権の維持に必要な野党自民党へのすりよりを試みたのだといえる。こうした権力ゲームの犠牲になるのは、民衆である。（しかし、その民衆が力なき弱者なわけではないということをこの国の権力者は忘れがちだ）<br /><br />他方で自民党もまた7月に国家戦略本部が出した<a href="http://www.jimin.jp/policy/policy_topics/112141.html">「日本再興｜自民党の中長期政策体系」</a>のなかで「安全強化策を施した上での既存原発の稼働維持」として脱原発路線ではなくベストミックスを提唱しており、原発推進が基本方針であることにかわりはない。<br /><br />民主党も自民党も脱原発については本気だとはいえない。官僚も同様だろう。世論の動向に影響されるとはいえ、むしろ世論を原発存続の方向に誘導しようとする意図の方がずっと強い。なぜそれまでに原発に固執するのか。<br /><br />●資本の欲望<br /><br />財界の動向は政府以上に明確だ。経団連は11月に出した<a href="http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2011/107/honbun.html#part2">「エネルギー政策に関する第２次提言」</a>のなかで次のように述べている。<br /><br /><span class="blogQuote"><br />当面、エネルギーおよび電源構成についての新たな目標は、一定の幅をもった柔軟な計画とすべきである。そのうえで、安全性及び経済合理性の確保を前提に、徹底した省エネを進め、原子力、化石燃料、再生可能エネルギーといった多様なエネルギーそれぞれについて、最大限に効率的、効果的な利用を可能とするための諸施策を提示することが重要である。<br />原子力は、わが国の電源構成の中で、これまでベース電源として基幹的な役割を担ってきた。政府は、原子力が今後とも一定の役割を果たせるよう、国民の信頼回復に全力を尽くさなければならない。<br /></span><br /><br />日本商工会議所の岡村会頭は10月20日に福島市内で記者会見し、原発再稼働を主張しエネルギー政策の見直しは10年後くらい先の話だと述べている。（<a href="http://bochibochi-ikoka.doorblog.jp/archives/3106935.html">福島民友ニュース</a>）関西経済同友会も大阪商工会議所などとともに、12月22日に枝野経済産業大臣に対して、電力不足解消と原発の早期再稼働の取り組み強化を要請している。（日本経済新聞12月22日）こうしてみると、ソフトバンクの孫正義や城南信用金庫の脱原発が話題になってはいてもそれが財界の主流などとはとうてい言える状況にはない。<br /><br />原発なくても電気は足りている、という主張が反/脱原発運動の多数の意見だとおもう。これは事実であるが、この事実をもって財界が説得されることは１００％ありえないと私は考えている。原発がなくても電気が足りているのは、日本国内の今現在（あるいはここ数年）のことという限定された条件のなかでのことだからだ。これまでの経済成長の構造をふまえたとき、GDPの成長率とエネルギー消費の増加率の間にはかなりはっきりとした正の相関関係がある。資本の考え方は、経済成長にはエネルギー消費の増加は避けられないだけでなく、エネルギー供給が経済成長のネックになることは許されない、というところが基本だ。原発停止にともなうエネルギー供給の低下を補完するものとして、当面は火力など既存の発電設備や電力の自由化で対応し、将来的には再生可能エネルギーをあてると考えるのが脱原発経済成長論の基本だろうが、この理屈は資本には通用しない。原発推進派の発想は、再生可能エネルギーに加えて稼働可能な原発によるエネルギー供給が欲しいのである。原発に替えてではなく、原発に加えて、という発想が財界と政府にはある。資本は再生可能エネルギーよってもたらされる電力供給の増加は歓迎するだろうが、それだけでなく、休止中の原発をすべて再稼働したら得られるであろう電力供給をみすみす見逃したくないということだ。電力供給はどれだけ多くても多すぎることはない、というのが資本の基本的なスタンスである。こうしたスタンスは、経済は成長しなければならず、成長の実現のためには国際競争力で優位に立つことができるインフラ（エネルギーに関する国策）が必要だという発想と切り離すことができない。言い換えれば、原発稼働の最大の動因は資本にとっての経済成長という資本の欲望なのである。持続可能な成長と言おうと同じことである。<br /><br />将来の成長を見込んだエネルギー需給の計算に対して、明確な批判の観点を構築することがぜひとも必要になる。現行の資本主義と近代国家のシステムの根幹を維持したまま、新自由主義政策をとらないとしても、再生可能エネルギーをベースにした経済成長という現実主義は、資本蓄積の宿命としての成長とエネルギーの罠に必ずはまり込む。「再生エネルギーへのシフト」が原発を織り込んで全発電量のなかの原発の比率を相対的に低下させるだけのことなら原発の稼働は阻止できない。原発全廃を前提としてエネルギー供給構造の根本的転換を明言するかどうかが原発の是非をめぐる譲るべきではない分かれ道である。エネルギー供給の「ベストミックス」は言うまでもなく選択肢にはなりようがない。しかし、さらにこれだけでも十分ではない。原発輸出が可能となる国際的な構造がある。電気が足りているのは先進国に限られている。地球規模で先進国の一人当たりの電力消費を理想モデルとすれば、電力は圧倒的に不足している。この不足を補うための原発への需要は当面の間減ることはないだろう。もし、世界中の人々が先進国のライフスタイルを理想とする限りは。原発の拡散を阻止するためには、産業や資本の構造に接合されている先進国のライフスタイルの革命が不可欠だ。（<a href="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=120">「電力は足りてはいけない」</a>参照）<br /><br />●国家安全保障による原発必要論<br /><br />核の平和利用という欺瞞をささえてきたのは、原発によるエネルギー供給がもたらす経済的な繁栄という「夢」だったわけだが、この夢の背後には常に核武装との関わりがあることはこれまでも繰り返し指摘されてきたにも関わらず、平和運動でも反原発運動でも最近まで主要な関心ではなかった。今は廃刊になってしまった雑誌『軍事民論』などは核武装論にいち早く着目して日本の核開発や平和利用の問題を指摘していたし、毎日新聞社会部が『ウサギの耳とハトの夢―日本の核と情報戦略』（リベルタ出版）で戦後日本の核武装の系譜をレポートしたのは1995年のことである。<br /><br />この間、原発の危険性の指摘に加えてその経済性における優位という神話が崩れるなかで、原発必要論を経済一辺倒では維持できなくなるにつれて、原発が高いリスクとコストを抱えても必要である根拠として、安全保障上の効果を論じる傾向がはっきりと現れてきた。元航空幕僚長の田母神俊雄は自身の<a href="http://ameblo.jp/toshio-tamogami/entry-10868039534.html">ブログ</a>で、山下俊一らの議論を引きながら放射能被曝の危険性を否定したり、「反原発は我が国の核武装を封じようとする反核運動でもある。“原発は危険”という認識は“第2の（誤った）歴史認識”だ」と<a href="http://www.news-postseven.com/archives/20110807_27631.html">述べて</a>原発と核武装の関係性を肯定した。<br /><br />また、自民党の石破茂元防衛大臣は8月16日の報道ステーションで次のように述べたといわれている。<br /><span class="blogQuote"><br />「原子力発電というのがそもそも、原子力潜水艦から始まったものですのでね。日本以外のすべての国は、原子力政策というのは核政策とセットなわけですね。ですけども、日本は核を持つべきだと私は思っておりません。しかし同時に、日本は（核を）作ろうと思えばいつでも作れる。１年以内に作れると。それはひとつの抑止力ではあるのでしょう。それを本当に放棄していいですかということは、それこそもっと突き詰めた議論が必要だと思うし、私は放棄すべきだとは思わない。なぜならば、日本の周りはロシアであり、中国であり、北朝鮮であり、そしてアメリカ合衆国であり、同盟国でるか否かを捨象して言えば、核保有国が日本の周りを取り囲んでおり、そして弾道ミサイルの技術をすべての国が持っていることは決して忘れるべきではありません」（<a href="http://nikonikositaine.blog49.fc2.com/blog-entry-1903.html">ニコブログ</a>から引用）</span><br /><br />9月7日づけの読売新聞社説では核兵器の材料になり得るプルトニウムの保有が外交的には、潜在的核抑止力として機能することを評価する主張を展開した。また山名元、森本敏,中野剛志『それでも日本は原発を止められない』（産経新聞出版）では、京大原子炉実験所教授の山名元が中心となって原発必要論を経済、軍事、外交の観点から論じ、石破や田母神同様、核抑止力としての原発の必要性を主張する。（本書への批判としては前田朗の<a href="http://maeda-akira.blogspot.com/2011/10/blog-post_6145.html">ブログ</a>参照。）<br /><br />原発推進派の布陣は、こうして、日本経済の成長のネックとなるエネルギー需給の逼迫（マルクス流にいえば、エネルギー供給に対する資本の過剰）を省エネ技術と省エネライフスタイルへの転換（資本の有機的構成高度化の蓄積）と原発の稼働によって解決するという経済のシナリオに加えて、安全保障上の必要という経済合理性では説明しきれない要因との組み合わせによって、組み立てられている。このいずれもが、汚染による被害や原発の事故処理をめぐる損失よりも国家と資本の利益を優先させる発想となっているという意味で、原発推進派の基調は、人間よりも資本の利益と国家の利益を優先させる姿勢で一貫している。これは驚くようなことではなく、近代社会の資本主義モデルが本質的にもってきた性質そのものである。これほどはっきりした反人間的な経済と統治の構造が表出しているにもかかわらず、そうであってもなお、＜核＞への欲望のない資本主義の可能性はあるという神話は未だに生きつづけているようにも見える。資本と国家はそれほどに人間的であり平和な存在だったことが、ここ数世紀の歴史のなかでどれほどあったというのだろうか？<br /><br />●人工的な死<br /><br />事故のリスクより利潤が優先するのは資本主義が持って生まれた本性だ。近代奴隷貿易の犠牲者1000万人、北米先住民500万人の大半を殺戮することで生み出された「新世界」。産業革命の時代に、最先端の工場は同時に児童労働、劣悪な労働環境、長時間労働、大気汚染を貧困とともにもたらした。近代文明のなかでの人間の死は、資本の機械と国家の機械がもたらした人工的な死がその大半を占めている。自然の死から人々の大半は遠ざけられてきた。人々は社会の中で＜労働力＞となることを予定して産み出され、育てられ、人工的な死によって終わりを遂げるようにプログラムされた社会、それが資本主義であり、近代の工業化された国家に共通した構造だ。<br /><br />資本主義中枢諸国の先端的な工場から地下経済が支配するスウェットショップの移民労働者の労働現場に至るまで、至る所に人工的な死は見出される。この国が生み出す毎年3万人を越す自殺者の死と福島原発がもたらすであろう緩やかな死も、人工的な死である。植民地の獲得から帝国主義の戦争、20世紀のホロコースト（この中には日本帝国主義によるアジア大陸での大量虐殺も当然含まれる）から＜核＞の技術と文化へと受け継がれて今に至る一連の構造があり、チェルノブイリも福島もこの歴史をふまえれば例外とはいえないのだ。戦争が引き起こすわかりやすい強いられた死と日常生活のなかで人々が事故や労働災害で死亡することとの間には、社会が人々に強いる構造的な暴力と死という点では共通性がある。戦争はどこにでもあるともいえるし、「豊かさ」や人々の「幸福」を支える技術は常に人を殺す潜勢力を内包しているともいえる。交通手段は軍隊を運び、強制収容所に囚人たちを運び、職場に労働力としての人間を運び、ディズニーランドに家族を運ぶ。電力は、人間から夜を奪い、24時間工場を稼働させて労働者を酷使するインフラを提供し、世界中の基地をつなぐネットワークのインフラを支え、電気椅子を稼働させ、恋人たちのディナーや家族の団らんを支える。人工的な死と生がここでは引き剥がしようのない一体のものとして私たちのこの世界の「豊かさ」と悲惨を生み出している。しかし、豊かさと悲劇が誰にでも平等に配分されるわけではない。ある人たちにはもっぱら豊かさが、ある人たちには悲惨が配当される。（平均すればだれもがこの文明の光のなかで豊で幸福であるに違いないというのが支配者たちの言い分になる）この配分の構造を支配している資本と国家が同時に人工的な死の生産者でもある。<br /><br />私たちはこのような強いられた死に怯える。しかし、資本と国家はこうした死を当たり前のこととして、そこから政治的経済的な利益を得ることに慣れっこになっている。資本も国家も単なる機械ではない。これらは社会を構成している人間の組織でもある。強いられた死、人工的な死は彼らが私たちに与えるものであると同時に、私たちもまたこの人工的な死の加担者であることを避けることもできない。しかし、だからこそ私たちは闘うのである。</div>]]>
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		<title>1・27秘密保全法学習会のご案内</title>
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		<summary type="html" xml:base="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/" xml:lang="ja">1・27秘密保全法学習会のご案内■とき　1月27日（金）18:30-21:00■ところ　文京区民センター３B会議室（東京メトロ 後楽園駅・丸の内線（4a・5番出口）南北線（5番出口）徒歩1分 都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線（文京シビックセンター連絡口）徒歩1分）■お話 清水雅彦さん（日本体育大学准教授）「秘密保全法がもたらす社会！」■参加費　500円■主催 　盗聴法に反対する市民連絡会ネットワーク反監視プロジェクト■連絡先　盗聴法に反対する市民連絡会東京都新宿区西早稲田1-9-19-207日本消費者連盟気付TEL090-2669-4219（久保）政府は、2012年1月召集の通常国会で「秘密保全法」を制定しようとしています。「秘密保全法案」（仮称）は、行政機関がもつ情報のうち「国の安全」「外交」「公共の安全及び秩序の維持」にかかわる重要なものを特別秘密とし、それを故意や過失で漏洩をしたり、漏洩しようと共謀等をした者は重く罰するというものです。現在でも国、行政機関などの情報公開は不十分です。「秘密保全法」ができれば、官僚が自分に都合の悪い情報を「特別秘密」として隠そうとすることは疑いありません。それは、この間の原発事故をめぐる政府・東電の情報隠しをみれば明らかです。秘密保全法がつくられれば、「特別秘密」に接する公務員は萎縮し、マスコミの取材もにぶるでしょう。主権者たる市民が防衛、外交などに関する政府の行為をを知ることができなくなります。「秘密保全法」は、憲法で保障された知る権利を市民から奪う情報統制法で、民主主義社会を崩壊させるものです。「秘密保全法」は絶対に作らせてはなりません。この法案についてよく知るために学習会を開きます。ぜひ、ご参加ください。</summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/">
<![CDATA[<div>1・27秘密保全法学習会のご案内<br />■とき　<br />1月27日（金）18:30-21:00<br />■ところ　<br />文京区民センター３B会議室<br />（東京メトロ 後楽園駅・丸の内線（4a・5番出口）南北線（5番出口）徒歩1分 <br />都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線（文京シビックセンター連絡口）徒歩1分）<br />■お話 <br />清水雅彦さん（日本体育大学准教授）<br />「秘密保全法がもたらす社会！」<br />■参加費　500円<br />■主催 　<br />盗聴法に反対する市民連絡会<br />ネットワーク反監視プロジェクト<br />■連絡先　<br />盗聴法に反対する市民連絡会<br />東京都新宿区西早稲田1-9-19-207<br />日本消費者連盟気付<br />TEL090-2669-4219（久保）<br /><br />政府は、2012年1月召集の通常国会で「秘密保全法」を制定しようとしています。<br />「秘密保全法案」（仮称）は、行政機関がもつ情報のうち「国の安全」「外交」<br />「公共の安全及び秩序の維持」にかかわる重要なものを特別秘密とし、それを故<br />意や過失で漏洩をしたり、漏洩しようと共謀等をした者は重く罰するというもの<br />です。<br />現在でも国、行政機関などの情報公開は不十分です。「秘密保全法」ができれば、<br />官僚が自分に都合の悪い情報を「特別秘密」として隠そうとすることは疑いあり<br />ません。それは、この間の原発事故をめぐる政府・東電の情報隠しをみれば明ら<br />かです。<br />秘密保全法がつくられれば、「特別秘密」に接する公務員は萎縮し、マスコミの<br />取材もにぶるでしょう。主権者たる市民が防衛、外交などに関する政府の行為を<br />を知ることができなくなります。「秘密保全法」は、憲法で保障された知る権利<br />を市民から奪う情報統制法で、民主主義社会を崩壊させるものです。「秘密保全<br />法」は絶対に作らせてはなりません。<br />この法案についてよく知るために学習会を開きます。ぜひ、ご参加ください。</div>]]>
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		<title>運動の想像力について---「東京をゴミ捨て場に」再論</title>
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		<published>2011-12-05T23:20:09+09:00</published>
		<updated>2011-12-05T23:36:27+09:00</updated>
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			<name>toshi</name>
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		<summary type="html" xml:base="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/" xml:lang="ja">運動の想像力ということを最近よく考える。想像力は創造力と書き換えてもよい。３１１以降、この想像/創造力が現実として実感される磁場に引き寄せられて、うまく跳躍できていないような不全感に囚われることがしばしばある。原発の事故を何処にいて、どのような立場にあってこの事故と向き合っているのか、という問題が想像/創造力の可能性を押しとどめて、今ある生活の「安全」にだけ向かうとき、他者（とは誰かという根源的な問いを不問に付すべきではないが）への配慮と責任はどこかで後回しにされかねない。そうなってしまったときには、自らの「安全」のために他者を犠牲にする自閉的な「安全」へと退行しかねないのではないか、と思う。放射性物質を含んだ農産物や瓦礫、表土、山林の樹木などの処理をどうすべきか、をめぐって、反（脱）原発運動のなかで、明確な合意が得られていないようにみえる。福島の瓦礫は受け入れたくない＝拡散反対という主張は、暗黙のうちに汚染物質は福島で処理すべきだ、ということが含意されている。とりわけ、このことは福島から離れれば離れるほど、言い換えれば、汚染地図の汚染の濃度と反比例する形で、汚染の拡散への抵抗と自己防御が大きくなる。これは、一面では「当然」の心情ではあろうが、他面では、「それでは福島や汚染の深刻な地域についてはどう考えるべきなのか？」という問いに対しては、福島第一原発とその周辺が汚染物質の集積場になるのはやむを得ないのではないか、という反応が多分今現在のもっとも多く聞かれる「答え」だろうと思う。だから、原発に反対でなおかつ汚染瓦礫の引き受けも反対と明確に言われる場合、その答えにはある種の躊躇や曖昧さが伴うようにも見える。問題は、自己の「安全」を防御することのなかに、他者への想像力が果たしてどれほど織り込まれてるといえるのか、」だと思う。社会的な事件や事故に関して「やむを得ない」や「仕方がない」という答えほど私たちが熟慮し、警戒しなければならない言い回しはない。本当にやむを得ないのか？本当に仕方がないのか？汚染にどのように向き合うのかという問題で、私たちが原則をふまえて「どうあるべきか」という観点を抜きにして、目前のリスクを回避することにしか想像力が向かわない結果として「やむを得ない」「仕方ない」だけが議論の中心に据えられてしまってはいないか。反（脱）原発へむかう大衆的な意識、とりわけ避難が必要な深刻な地域から離れた場所に住む人々が、今ある「安全」を脅かす可能性のあるリスクの受け入れに否定的になる感情を私は否定しないが、しかし、こうした感情を減殺するような「どうあるべきなのか」という事態への理解についての原則を立てられないままになっているように見える。原則論として福島が汚染物質を受け入れるべき（受け入れる責任がある）というのであればいざしらず、そうでないとするならば、誰がその責任を負うべきなのか？責任を負うということは同時に汚染された膨大な物質を自ら受け入れるということを伴うことになるから、どこで受け入れるべきなのか、という問いと切り離せない。●「東京をゴミ捨て場に」といういささか挑発的なブログのエッセイを書いたのは、上で述べた原則論を念頭においていた。このエッセイは賛否両論あり、評判は相対的によくないと思う。極論であり暴論だという印象を読者に与えたのだと思う。誰もが東電と政府に責任があることは認めても、東京の住人すべてをリスクに晒すのはおかしいのでは？あるいは、実際に瓦礫とかを運んで東京のどこに捨てるのか？非現実的ではないか？ともかく汚染の拡散は絶対に認められない、などなど、異論は様々だ。私はこれらの異論のすべてをひっくるめたとしても、だからといって福島が汚染を引き受ける「べき」だという結論を導くには、これらの反論だけでは説得力を欠くと思っている。もちろん、「現実」論として議論するとすれば、多くの困難や不可能な事柄が横たわっていることは、私のような妄想に偏る者であっても理解はできる。とりあえずそれほど愚かではないつもりだ。その上で、敢えて東京をゴミ捨て場にすべきだ、と書いたのである。しかも、親族や友人の大半は東京に住んでいる。東京だけでなく東電管内の電力需要者が原発によって生産された電力の受益者であることは間違いない事実であり、利益を得るならリスクも負うべきだ、という当然のことを書いたまでだ。もし、議論すべきであるとすれば、東電管内でどのように主として誰がそのリスクを負うべきなのか、として議論されるべきであって、福島が引き受けるという結論を導くことはありえない、と思う。汚染物の処理については、議論の時間はないともいえるし、十分にあるともいえる。日々の除染の必要を前提にすれば今日、明日を争う問題であるが、廃炉と原発内部と周辺に飛散したプルトニウムのように半減期2万4000年の猛毒核物質の処分を念頭にいれれば、もっと長い議論の時間がありうるかもしれない。核の最終処分まで視野に入れれば、十年単位どころか百年、千年単位で原則論を立てるという展望をもつ必要がある。この間に、まったく収益に結びつかないが放射性廃棄物処理の飛躍的な技術革新は必須だろう。50年、100年という単位で、福島を原状に戻すといった時間の尺度で物事を構想することも必要だ。50年で農業や漁業ができるようになるか、廃炉の処分が終わるか、かなり難しいが。それなら100年を視野に入れてもよい。世界中で、土地を追われた人々が100年の単位で闘うことは珍しくないことを思い起こしたい。先住民の植民地主義との闘いは500年に及ぶ。●福島からの自主避難も含めて、避難の権利を確立することは重要だが、このことが、福島を瓦礫置き場にすることに結びつけられることを私は危惧している。避難の権利は重要だが、同時に帰還の権利も何百年たとうと保証しなければいけないからだ。南相馬の詩人若松丈太郎は「原発難民」という言葉を用いたが、難民のそもそもの定義は「人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れた」人々であるが、「紛争などによって住み慣れた家を追われたが、国内にとどまっているかあるいは国境を越えずに避難生活を送っている「国内避難民」」も難民と同様に扱いを受けるべき者というのが国連難民高等弁務官事務所（UNHCR）の見解だ。1948年国連はパレスチナ難民の帰還の権利と帰還しない難民への補償を決議している。帰還権は基本的人権である。原発事故で故郷を追われた人々を難民と呼ぶのは、大げさかどうか、過大評価かどうか、この点については議論があってもいいが、議論する意味のないこととはいえないのではないか。原発事故はUNHCRの考慮外だっただろうが、今後第三世界に原発に建設が進めば、将来はわからない。原発事故に由来する国内避難民であっても、この決議は参考にすべきではないか。言い換えれば、難民＝避難民を生み出した責任ある者たちは、難民の帰還の権利を何年たとうが保障すべき義務を負うと考えなければならない。同時に難民を受け入れることも義務であろう。もちろん、東京がゴミ捨て場になれば膨大な避難民を生み出すかもしれない。そのことも念頭に置いておく必要はあるがそれだけでは済まない。今回の汚染の処理問題は、福島第一原発に限らない。今後次々に原発は老朽化し、その経年劣化につれて事故の可能性は大きくなる。今後50年の間に、原発の深刻な事故がこの国で起きないと考えるほうが非現実的だろう。事故の最小化のためには原発の稼働停止が最低条件だが、それで問題が解決するわけではない。廃炉と放射性廃棄物の処分問題は日本全国の過疎地を次々に核のゴミ捨て場にする可能性を秘めている。もし、大消費地がこのリスクを引き受けないならば。福島原発由来の放射性廃棄物を東電管内以外に拡散させることに私は反対だが、いずれ沖縄を除くすべての都道府県は、この全国の過疎地に散財する原発の廃棄物の処理問題に直面する。深刻な事故が起きる可能性もありうるから、この処分問題の深刻度はより大きくなり、リスクはもっと大きくなる。福井県が大阪のために核のゴミ捨て場になる。新潟県も東京のために核のゴミ捨て場になる。すでに敷地内には膨大な使用済み核燃料が溜め込まれているのだが。原則論を押しのけて、「仕方がない」という発想だけが一人歩きすると、「日本には処分に適した場所がないから海外で処分するのは仕方がない」という発想に結びつきはしないか？そもそも原発の立地そのものがエネルギー需要を満たすためには過疎地が犠牲になるのは「仕方がない」ものとして推進されてきたのではないだろうか？だからこそ、誰が責任とリスクを負うべきかというある種の規範意識が非常に重要になる。●農産物問題では、古くて新しい問題が原発事故でも再燃したようにみえる。6月に福島の南相馬の津波被害に遇った地区を訪れた。そこではすでに地元の農家の人たちが瓦礫を片付け、「来年には絶対に農業を再開する」と語っていた。ほとんどの人が家族のうちの何人かを津波の犠牲で失っている。そうであればあるほどその土地を離れがたいであろうことは痛いほどよくわかった。「県も東電も頑張っている」と強い期待も語ってくれた。彼らがそれから半年たって、今どうしているか。農民たちは農業が彼らのアイデンティティであるから、放射能による汚染について非常に重大な関心を抱きながらも、「安全」についての楽観論や政府自治体のお墨付きを「信じたい」気持ちになるだろうということは、理解できる。他方で、都市の消費者は、政府も東電も信用できないなかで、できる限り食べ物のリスクを減らしたいと考えるから、汚染に対しても厳しい判断を支持するだろうということも理解できる。農民たちからは、政府の暫定基準を受け入れず厳しい判断を下す都市の消費者の主張によって「風評被害」を受けていると感じられ、他方で都市の消費者からは、農民たちは汚染を拡散させる者とみなされがちだ。都市の消費者の間でも、福島の農業を支えたいと考える人たちと、福島の農産物をとりあえず避けたいと考える人たちの間に見解の対立があり、ときには感情的な対立すらみられる。この問題は原発由来の問題だけではないかなり根深い都市と農村の問題を内包している。農業が地域を越えた全国レベルの市場経済に統合されるなかで（さらにそれがグローバルな市場経済に再統合されようとしてるのだが）、商品化された農産物の使用価値が利潤のために（それも流通や大手小売業や外食産業の販売戦略の影響が大きいと思うが）大きく損なうようになるのは、当然のことであり、そのなかで農民たちの労働もまた農薬や化学肥料による被害を被り、遺伝子組換え作物や食の生産現場の工業化が進んできた。こうした食の商品化の長い歴史的な経緯を見ておくことが必要だろう。今回の原発事故はこの商品化された食の商品化にまつわる問題が端的に突出した形で究極の問題として登場したともいえる。汚染食品の流通は、市場経済が全国的な市場に統合され、安価な農産物を全国から（国境を越えて）調達するような構造になければ、これほどの広がりはなかったのではないか。都市が農産物を需要するために構築してきた都市の食のための全国規模の市場流通そのものが、果たして食の市場として妥当なものなのか、という問いが今回の汚染の拡がりの背景にあることを忘れてはならない。言い換えれば、地域の自給的な市場を解体した大都市と大流通資本中心のメガマーケットそのものが、汚染の拡散を助長したのではないか。その責を生産者である農民に帰すことはできないのではないか、と私は思う。もしこうした観点を踏まえたとき、都市の消費者はそのライフスタイルを再考することもまた問われるのではないか、とも思う。汚染された農産物問題の元凶は原発であり、その事後処理のずさんさにあるにもかかわらず、対立軸が農民と都市消費者の間にひかれているように思えてならない。この対立から利益を得ているのは誰だろうか？農民と都市の消費者は本当に利害が対立するのだろうか？実は農民と都市の住民との間の対話が決定的に不足していると思う。多くの都市の消費者にとって食料はスーパーに陳列されている商品としてしか見えない。「農」の具体的な現場とそこでの労働は見えにくい。だからアイデンティティの問題が十分に理解できない。しかし、商品化された食の現実への批判的な視点を持ち、これまでのライフスタイルへの懐疑という観点を持ったとき、そこには、食をめぐる別の視点も獲得できるのではないか。農民たちにとっても、風評被害なのか文字通りの被害なのかという問題は、被曝という問題と密接に関わり、実は、自分たちの労働の場である農地の汚染や家族の被曝に関わる問題でもあるはずなのだ。そうであるなら、農民が直面している問題は、実は都市の消費者以上に深刻なのではないか？そうであるにもかかわらず、なおかつ今この場での農業にこだわることの意味をわたしのような都市の住民は想像力をもって「理解」できなければならないと思う。この理解は、肯定とか否定という問題を越えたところで設定される問題である。汚染をめぐる問題について、両者の間で合意を形成することは不可能とは思わない。農民としての生存の権利（職業選択の自由と居住の自由は憲法が保障している）も都市消費者の生存の権利も原発という主要な敵をめぐる生存権の問題として、100年を単位とした両者の対話のなかで必ず合意できる一致点が見出せると思う。この合意点は原発の拒否という観点によって構想できると思う。●想像力の問題は、すぐれて他者への想像力の問題である。つまり、自身の身近な者たちや見知った者たちを越えた、今ここで生きている他者への想像力であり、同時に、未だ出会う機会はなかったが、将来出会うかもしれない（世代を越えた）他者への想像力の問題である。こうした想像力が運動の潜勢力となることは決して不可能ではないが、そうした努力を怠れば、人々の不安は、他者を排除する核シェルターもどきの自己保身だけを生みだし、ますます核の文化が支配の力を増すだけだろうと思う。</summary>
       <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/">
<![CDATA[<div>運動の想像力ということを最近よく考える。想像力は創造力と書き換えてもよい。３１１以降、この想像/創造力が現実として実感される磁場に引き寄せられて、うまく跳躍できていないような不全感に囚われることがしばしばある。<br /><br />原発の事故を何処にいて、どのような立場にあってこの事故と向き合っているのか、という問題が想像/創造力の可能性を押しとどめて、今ある生活の「安全」にだけ向かうとき、他者（とは誰かという根源的な問いを不問に付すべきではないが）への配慮と責任はどこかで後回しにされかねない。そうなってしまったときには、自らの「安全」のために他者を犠牲にする自閉的な「安全」へと退行しかねないのではないか、と思う。<br /><br />放射性物質を含んだ農産物や瓦礫、表土、山林の樹木などの処理をどうすべきか、をめぐって、反（脱）原発運動のなかで、明確な合意が得られていないようにみえる。福島の瓦礫は受け入れたくない＝拡散反対という主張は、暗黙のうちに汚染物質は福島で処理すべきだ、ということが含意されている。とりわけ、このことは福島から離れれば離れるほど、言い換えれば、汚染地図の汚染の濃度と反比例する形で、汚染の拡散への抵抗と自己防御が大きくなる。これは、一面では「当然」の心情ではあろうが、他面では、「それでは福島や汚染の深刻な地域についてはどう考えるべきなのか？」という問いに対しては、福島第一原発とその周辺が汚染物質の集積場になるのはやむを得ないのではないか、という反応が多分今現在のもっとも多く聞かれる「答え」だろうと思う。だから、原発に反対でなおかつ汚染瓦礫の引き受けも反対と明確に言われる場合、その答えにはある種の躊躇や曖昧さが伴うようにも見える。問題は、自己の「安全」を防御することのなかに、他者への想像力が果たしてどれほど織り込まれてるといえるのか、」だと思う。<br /><br />社会的な事件や事故に関して「やむを得ない」や「仕方がない」という答えほど私たちが熟慮し、警戒しなければならない言い回しはない。本当にやむを得ないのか？本当に仕方がないのか？汚染にどのように向き合うのかという問題で、私たちが原則をふまえて「どうあるべきか」という観点を抜きにして、目前のリスクを回避することにしか想像力が向かわない結果として「やむを得ない」「仕方ない」だけが議論の中心に据えられてしまってはいないか。反（脱）原発へむかう大衆的な意識、とりわけ避難が必要な深刻な地域から離れた場所に住む人々が、今ある「安全」を脅かす可能性のあるリスクの受け入れに否定的になる感情を私は否定しないが、しかし、こうした感情を減殺するような「どうあるべきなのか」という事態への理解についての原則を立てられないままになっているように見える。原則論として福島が汚染物質を受け入れるべき（受け入れる責任がある）というのであればいざしらず、そうでないとするならば、誰がその責任を負うべきなのか？責任を負うということは同時に汚染された膨大な物質を自ら受け入れるということを伴うことになるから、どこで受け入れるべきなのか、という問いと切り離せない。<br /><br />●<br /><br />「東京をゴミ捨て場に」といういささか挑発的なブログの<a href="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=141">エッセイ</a>を書いたのは、上で述べた原則論を念頭においていた。このエッセイは賛否両論あり、評判は相対的によくないと思う。極論であり暴論だという印象を読者に与えたのだと思う。誰もが東電と政府に責任があることは認めても、東京の住人すべてをリスクに晒すのはおかしいのでは？あるいは、実際に瓦礫とかを運んで東京のどこに捨てるのか？非現実的ではないか？ともかく汚染の拡散は絶対に認められない、などなど、異論は様々だ。私はこれらの異論のすべてをひっくるめたとしても、だからといって福島が汚染を引き受ける「べき」だという結論を導くには、これらの反論だけでは説得力を欠くと思っている。もちろん、「現実」論として議論するとすれば、多くの困難や不可能な事柄が横たわっていることは、私のような妄想に偏る者であっても理解はできる。とりあえずそれほど愚かではないつもりだ。その上で、敢えて東京をゴミ捨て場にすべきだ、と書いたのである。しかも、親族や友人の大半は東京に住んでいる。東京だけでなく東電管内の電力需要者が原発によって生産された電力の受益者であることは間違いない事実であり、利益を得るならリスクも負うべきだ、という当然のことを書いたまでだ。もし、議論すべきであるとすれば、東電管内でどのように主として誰がそのリスクを負うべきなのか、として議論されるべきであって、福島が引き受けるという結論を導くことはありえない、と思う。汚染物の処理については、議論の時間はないともいえるし、十分にあるともいえる。日々の除染の必要を前提にすれば今日、明日を争う問題であるが、廃炉と原発内部と周辺に飛散したプルトニウムのように半減期2万4000年の猛毒核物質の処分を念頭にいれれば、もっと長い議論の時間がありうるかもしれない。<br /><br />核の最終処分まで視野に入れれば、十年単位どころか百年、千年単位で原則論を立てるという展望をもつ必要がある。この間に、まったく収益に結びつかないが放射性廃棄物処理の飛躍的な技術革新は必須だろう。50年、100年という単位で、福島を原状に戻すといった時間の尺度で物事を構想することも必要だ。50年で農業や漁業ができるようになるか、廃炉の処分が終わるか、かなり難しいが。それなら100年を視野に入れてもよい。世界中で、土地を追われた人々が100年の単位で闘うことは珍しくないことを思い起こしたい。先住民の植民地主義との闘いは500年に及ぶ。<br /><br />●<br /><br />福島からの自主避難も含めて、避難の権利を確立することは重要だが、このことが、福島を瓦礫置き場にすることに結びつけられることを私は危惧している。避難の権利は重要だが、同時に帰還の権利も何百年たとうと保証しなければいけないからだ。<br /><br />南相馬の詩人若松丈太郎は「原発難民」という言葉を用いたが、難民のそもそもの定義は「人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れた」人々であるが、「紛争などによって住み慣れた家を追われたが、国内にとどまっているかあるいは国境を越えずに避難生活を送っている「国内避難民」」も難民と同様に扱いを受けるべき者というのが国連難民高等弁務官事務所（UNHCR）の<a href="http://www.unhcr.or.jp/ref_unhcr/refugee/index.html">見解</a>だ。1948年国連はパレスチナ難民の帰還の権利と帰還しない難民への補償を決議している。帰還権は基本的人権である。原発事故で故郷を追われた人々を難民と呼ぶのは、大げさかどうか、過大評価かどうか、この点については議論があってもいいが、議論する意味のないこととはいえないのではないか。原発事故はUNHCRの考慮外だっただろうが、今後第三世界に原発に建設が進めば、将来はわからない。原発事故に由来する国内避難民であっても、この決議は参考にすべきではないか。言い換えれば、難民＝避難民を生み出した責任ある者たちは、難民の帰還の権利を何年たとうが保障すべき義務を負うと考えなければならない。同時に難民を受け入れることも義務であろう。もちろん、東京がゴミ捨て場になれば膨大な避難民を生み出すかもしれない。そのことも念頭に置いておく必要はあるがそれだけでは済まない。<br /><br />今回の汚染の処理問題は、福島第一原発に限らない。今後次々に原発は老朽化し、その経年劣化につれて事故の可能性は大きくなる。今後50年の間に、原発の深刻な事故がこの国で起きないと考えるほうが非現実的だろう。事故の最小化のためには原発の稼働停止が最低条件だが、それで問題が解決するわけではない。廃炉と放射性廃棄物の処分問題は日本全国の過疎地を次々に核のゴミ捨て場にする可能性を秘めている。もし、大消費地がこのリスクを引き受けないならば。福島原発由来の放射性廃棄物を東電管内以外に拡散させることに私は反対だが、いずれ沖縄を除くすべての都道府県は、この全国の過疎地に散財する原発の廃棄物の処理問題に直面する。深刻な事故が起きる可能性もありうるから、この処分問題の深刻度はより大きくなり、リスクはもっと大きくなる。福井県が大阪のために核のゴミ捨て場になる。新潟県も東京のために核のゴミ捨て場になる。すでに敷地内には膨大な使用済み核燃料が溜め込まれているのだが。<br /><br />原則論を押しのけて、「仕方がない」という発想だけが一人歩きすると、「日本には処分に適した場所がないから海外で処分するのは仕方がない」という発想に結びつきはしないか？そもそも原発の立地そのものがエネルギー需要を満たすためには過疎地が犠牲になるのは「仕方がない」ものとして推進されてきたのではないだろうか？だからこそ、誰が責任とリスクを負うべきかというある種の規範意識が非常に重要になる。<br /><br />●<br /><br />農産物問題では、古くて新しい問題が原発事故でも再燃したようにみえる。6月に福島の南相馬の津波被害に遇った地区を訪れた。そこではすでに地元の農家の人たちが瓦礫を片付け、「来年には絶対に農業を再開する」と語っていた。ほとんどの人が家族のうちの何人かを津波の犠牲で失っている。そうであればあるほどその土地を離れがたいであろうことは痛いほどよくわかった。「県も東電も頑張っている」と強い期待も語ってくれた。彼らがそれから半年たって、今どうしているか。<br /><br />農民たちは農業が彼らのアイデンティティであるから、放射能による汚染について非常に重大な関心を抱きながらも、「安全」についての楽観論や政府自治体のお墨付きを「信じたい」気持ちになるだろうということは、理解できる。他方で、都市の消費者は、政府も東電も信用できないなかで、できる限り食べ物のリスクを減らしたいと考えるから、汚染に対しても厳しい判断を支持するだろうということも理解できる。農民たちからは、政府の暫定基準を受け入れず厳しい判断を下す都市の消費者の主張によって「風評被害」を受けていると感じられ、他方で都市の消費者からは、農民たちは汚染を拡散させる者とみなされがちだ。都市の消費者の間でも、福島の農業を支えたいと考える人たちと、福島の農産物をとりあえず避けたいと考える人たちの間に見解の対立があり、ときには感情的な対立すらみられる。<br /><br />この問題は原発由来の問題だけではないかなり根深い都市と農村の問題を内包している。農業が地域を越えた全国レベルの市場経済に統合されるなかで（さらにそれがグローバルな市場経済に再統合されようとしてるのだが）、商品化された農産物の使用価値が利潤のために（それも流通や大手小売業や外食産業の販売戦略の影響が大きいと思うが）大きく損なうようになるのは、当然のことであり、そのなかで農民たちの労働もまた農薬や化学肥料による被害を被り、遺伝子組換え作物や食の生産現場の工業化が進んできた。こうした食の商品化の長い歴史的な経緯を見ておくことが必要だろう。今回の原発事故はこの商品化された食の商品化にまつわる問題が端的に突出した形で究極の問題として登場したともいえる。汚染食品の流通は、市場経済が全国的な市場に統合され、安価な農産物を全国から（国境を越えて）調達するような構造になければ、これほどの広がりはなかったのではないか。都市が農産物を需要するために構築してきた都市の食のための全国規模の市場流通そのものが、果たして食の市場として妥当なものなのか、という問いが今回の汚染の拡がりの背景にあることを忘れてはならない。言い換えれば、地域の自給的な市場を解体した大都市と大流通資本中心のメガマーケットそのものが、汚染の拡散を助長したのではないか。その責を生産者である農民に帰すことはできないのではないか、と私は思う。もしこうした観点を踏まえたとき、都市の消費者はそのライフスタイルを再考することもまた問われるのではないか、とも思う。<br /><br />汚染された農産物問題の元凶は原発であり、その事後処理のずさんさにあるにもかかわらず、対立軸が農民と都市消費者の間にひかれているように思えてならない。この対立から利益を得ているのは誰だろうか？農民と都市の消費者は本当に利害が対立するのだろうか？実は農民と都市の住民との間の対話が決定的に不足していると思う。多くの都市の消費者にとって食料はスーパーに陳列されている商品としてしか見えない。「農」の具体的な現場とそこでの労働は見えにくい。だからアイデンティティの問題が十分に理解できない。しかし、商品化された食の現実への批判的な視点を持ち、これまでのライフスタイルへの懐疑という観点を持ったとき、そこには、食をめぐる別の視点も獲得できるのではないか。農民たちにとっても、風評被害なのか文字通りの被害なのかという問題は、被曝という問題と密接に関わり、実は、自分たちの労働の場である農地の汚染や家族の被曝に関わる問題でもあるはずなのだ。そうであるなら、農民が直面している問題は、実は都市の消費者以上に深刻なのではないか？そうであるにもかかわらず、なおかつ今この場での農業にこだわることの意味をわたしのような都市の住民は想像力をもって「理解」できなければならないと思う。この理解は、肯定とか否定という問題を越えたところで設定される問題である。<br /><br />汚染をめぐる問題について、両者の間で合意を形成することは不可能とは思わない。農民としての生存の権利（職業選択の自由と居住の自由は憲法が保障している）も都市消費者の生存の権利も原発という主要な敵をめぐる生存権の問題として、100年を単位とした両者の対話のなかで必ず合意できる一致点が見出せると思う。この合意点は原発の拒否という観点によって構想できると思う。<br /><br />●<br /><br />想像力の問題は、すぐれて他者への想像力の問題である。つまり、自身の身近な者たちや見知った者たちを越えた、今ここで生きている他者への想像力であり、同時に、未だ出会う機会はなかったが、将来出会うかもしれない（世代を越えた）他者への想像力の問題である。こうした想像力が運動の潜勢力となることは決して不可能ではないが、そうした努力を怠れば、人々の不安は、他者を排除する核シェルターもどきの自己保身だけを生みだし、ますます核の文化が支配の力を増すだけだろうと思う。</div>]]>
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		<title>緊急署名：「自主」避難者に、正当で幅広い「損害賠償」を！</title>
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		<published>2011-11-29T07:05:39+09:00</published>
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		<summary type="html" xml:base="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/" xml:lang="ja">避難の問題は、瓦礫や汚染された場所の回復問題と表裏一体。場合によっては数世代、それ以上にわたる大問題である。核がもたらしたディアスポラの問題は、チェルノブイリだけではない。ウラン採掘や核実験などを視野に入れれば、この問題は、戦争、内戦、飢饉などに伴うディアスポラと同様、戦後からポスト冷戦の現在に至るある種の近代性の普遍的な本質に触れる問題であることは確かだろう。以下、緊急署名の呼びかけを転載します。---------------------＜拡散歓迎！＞---------------------------- ★ふざけるな、原賠審！　一律同額？　雀の涙の見舞金？？★---------------------「自主」避難者に、正当で幅広い「損害賠償」を！避難費用実費を賠償すべきhttp://hinan-kenri.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-cdf5.html第一次締め切り　12月2日（金）、第二次締め切り　12月9日（金）署名フォーム１（PC対応）：http://goo.gl/2HQzW署名フォーム２（PC、携帯対応）：https://pro.form-mailer.jp/fms/795bfc1624252---------------------------------------------------------- 要請項目○一律一括の金額ではなく、避難費用の実費がカバーできる賠償とすること○賠償期間は、少なくとも２年間とすること---------------------------------------------------------- 下記、要請文11月25日に開催された原子力損害賠償紛争審査会では、自主避難者・残留者を問わず、すべて一律同額の賠償とする方向で議論が進められました。このままでは、避難に伴う生活費の増加や何度も往復する交通費、子どもや妊婦の付き添いで必要な家族の避難にかかわる費用など、避難に関わる実費を算入することができなくなります。結果的に、一律の見舞金的なものとして、実際に避難にかかった費用に比べて大幅な減額となる可能性が出てきます。審査会での「一律同額」の根拠は、行政手続きが煩雑になるということでしたが、これは理由になっていません。中間指針に示されている避難区域内の避難者への賠償と同様、被害者からの実費の請求で済む話です。区域内からであろうと、区域外からであろうと、賠償は同様であるべきです。また、賠償が支払われる期間があまりに短すぎます。審査会では、草間委員から、「緊急時避難準備区域が解除された９月まで」という驚愕の発言がとびだし、結果的には12月という方向が示されていますが、除染に２年かかる、すなわちそれまでには線量が十分さがらないということを考えれば、賠償を認める期間は最低でも２年とし、それ以降も検討できるようにすべきです。さらに「第二期」（事故後一定期間が経過したのちの期間）は子ども・妊婦本人しか賠償の対象にしないなど、賠償の範囲があまりに限定的です。子ども・妊婦への配慮は、基本的な賠償の範囲を決めて、さらに追加的に賠償範囲を広げる議論の中でなされるべきものであり、賠償範囲を限定するために持ち出されるべきではありません。私たちは、これらの問題を指摘するとともに、原子力損害賠償紛争審査会に、とりわけ以下を要請します。○一律一括の金額ではなく、避難費用の実費がカバーできる賠償とすること○賠償期間は、少なくとも２年間とすることまた、東京電力に対しては審査会の議論がどうあれ、自主避難にかかった実費を完全に補償することを求めます。（呼びかけ）国際環境NGO FoE Japan（エフ・オー・イー・ジャパン）福島老朽原発を考える会（フクロウの会）問い合わせ先：国際環境NGO FoE Japan　満田／090-6142-1807福島老朽原発を考える会　阪上／090-8116-7155</summary>
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		<title>【声　明】携帯電話GPSを利用した被疑者の位置確認情報取得に反対します</title>
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		<published>2011-11-21T13:37:12+09:00</published>
		<updated>2011-11-21T13:37:12+09:00</updated>
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			<name>toshi</name>
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		<summary type="html" xml:base="http://alt-movements.org/no_more_capitalism/" xml:lang="ja">2011年11月21日【声　明】携帯電話GPSを利用した被疑者の位置確認情報取得に反対します盗聴法（組織的犯罪対策法）に反対する市民連絡会　日本消費者連盟気付　TEL090-2669-4219　　　　　　　　　　　　　　　　　ネットワーク反監視プロジェクト 　　TEL070-5553-5495政府・総務省は、11月2日、改定「個人情報保護に関するガイドライン」を公布・施行し、通信事業者に協力させて携帯電話のGPS機能の利用により、被疑者の居場所の確認を行うこととしました。通信事業者は、その携帯を有する被疑者に位置情報の取得を通知しなければならないとされていますが、通信事業者による通知とは、携帯への画面表示や振動、音などでGPSによる位置情報の取得を被疑者に知らせるというものです。これまで、容疑者の居場所は携帯電話の基地局情報を利用しておこなわれてきましたが、特定できるのは都市で数百メートル四方（PHSで100メートル）、地方で数キロの範囲にとどまっていました。携帯電話のGPS機能を使えば、建物内、道路上の人物をピンポイントで把握できます。この携帯電話のGPSを利用した位置情報取得には、二つの点で市民の権利を侵害する重大な問題があります。一つは、これが立法化されていないということです。そもそも誰がどこにいるのかという位置情報は人の動きを示す重要な個人情報であり、市民のプライバシー権の根幹となる問題です。しかし、この重大な問題が国会で議論されず、捜査当局の捜査優先という既成事実のうえに、総務省によるガイドラインの「改正」などで処理されたのです。犯罪捜査であれ、市民の位置情報の取得が許されるのか否か、許されるとすればどういう条件、手続きのもとで可能なのか、国会で根本から議論されなくてはなりません。「ガイドラインの改正」などという小手先の対応で処理されてはならないはずです。もう一つの問題は、通信事業者の協力をえるには裁判所の令状が必要とされていますが、これが検証令状であるということです。そもそも「検証」とは事実発見のために場所、物、人の身体などの状況を調べる処分であり、通信を対象とするものではありません。しかも、検証令状による捜査は、捜索・差押さえ令状などと比較して事後報告の規定がなく、不服申し立てができないなど、人権に係わる問題があります。1999年に世論の強い反対を押しきって盗聴法（「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」）が制定されましたが、それ以前、盗聴は裁判所の発付する検証令状と、捜査当局による違法盗聴によって行われてきました。また、本年制定されたコンピュータ監視法をめぐる国会での議論で、当時の江田法務大臣が通信履歴のリアルタイム盗聴を検証令状によって行うことを明言しています。このように捜査当局は、世論の反対が強い捜査手法や捜査権限の強化を国会で立法化せず、裁判所の発付する検証令状によって実現してきたのです。検証令状を利用した捜査当局の捜査手法は厳しく批判されなくてはなりません。通信技術の発達により、市民のプライバシーは大きく脅かされています。プライバシーをいかに守るか、国民的議論が求められているのです。私たちは、市民のプライバシーを侵害する、検証令状による位置確認情報の取得に強く反対します。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・</summary>
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<![CDATA[<div>2011年11月21日<br /><br />【声　明】携帯電話GPSを利用した被疑者の位置確認情報取得に反対します<br /><br />盗聴法（組織的犯罪対策法）に反対する市民連絡会<br /><br />　日本消費者連盟気付<br /><br />　TEL090-2669-4219　　　　　　　　　　　　　　　　　<br /><br />ネットワーク反監視プロジェクト 　<br /><br />　TEL070-5553-5495<br /><br />政府・総務省は、11月2日、改定「個人情報保護に関するガイドライン」を公<br />布・施行し、通信事業者に協力させて携帯電話のGPS機能の利用により、被疑者<br />の居場所の確認を行うこととしました。通信事業者は、その携帯を有する被疑<br />者に位置情報の取得を通知しなければならないとされていますが、通信事業者<br />による通知とは、携帯への画面表示や振動、音などでGPSによる位置情報の取得<br />を被疑者に知らせるというものです。<br /><br />これまで、容疑者の居場所は携帯電話の基地局情報を利用しておこなわれて<br />きましたが、特定できるのは都市で数百メートル四方（PHSで100メートル）、<br />地方で数キロの範囲にとどまっていました。携帯電話のGPS機能を使えば、建物<br />内、道路上の人物をピンポイントで把握できます。この携帯電話のGPSを利用し<br />た位置情報取得には、二つの点で市民の権利を侵害する重大な問題があります。<br /><br />一つは、これが立法化されていないということです。そもそも誰がどこにい<br />るのかという位置情報は人の動きを示す重要な個人情報であり、市民のプライ<br />バシー権の根幹となる問題です。しかし、この重大な問題が国会で議論されず、<br />捜査当局の捜査優先という既成事実のうえに、総務省によるガイドラインの<br />「改正」などで処理されたのです。犯罪捜査であれ、市民の位置情報の取得が<br />許されるのか否か、許されるとすればどういう条件、手続きのもとで可能なの<br />か、国会で根本から議論されなくてはなりません。「ガイドラインの改正」な<br />どという小手先の対応で処理されてはならないはずです。<br /><br />もう一つの問題は、通信事業者の協力をえるには裁判所の令状が必要とされ<br />ていますが、これが検証令状であるということです。そもそも「検証」とは事<br />実発見のために場所、物、人の身体などの状況を調べる処分であり、通信を対<br />象とするものではありません。しかも、検証令状による捜査は、捜索・差押さ<br />え令状などと比較して事後報告の規定がなく、不服申し立てができないなど、<br />人権に係わる問題があります。<br /><br />1999年に世論の強い反対を押しきって盗聴法（「犯罪捜査のための通信傍受<br />に関する法律」）が制定されましたが、それ以前、盗聴は裁判所の発付する検<br />証令状と、捜査当局による違法盗聴によって行われてきました。また、本年制<br />定されたコンピュータ監視法をめぐる国会での議論で、当時の江田法務大臣が<br />通信履歴のリアルタイム盗聴を検証令状によって行うことを明言しています。<br />このように捜査当局は、世論の反対が強い捜査手法や捜査権限の強化を国会で<br />立法化せず、裁判所の発付する検証令状によって実現してきたのです。検証令<br />状を利用した捜査当局の捜査手法は厳しく批判されなくてはなりません。<br /><br />通信技術の発達により、市民のプライバシーは大きく脅かされています。プ<br />ライバシーをいかに守るか、国民的議論が求められているのです。私たちは、<br />市民のプライバシーを侵害する、検証令状による位置確認情報の取得に強く反<br />対します。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />・・・・・・</div>]]>
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