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ブログ - ストリート文化の非犯罪化のために――所有権に抑圧される表現の自由

ストリート文化の非犯罪化のために――所有権に抑圧される表現の自由

カテゴリ : 
culture & politics » ストリートカルチャー
執筆 : 
toshi 2014-9-19 23:30
地域開発が進められるときには、様々な社会的排除や「浄化」が強引になされる。来年4月の北陸新幹線の開通を控えて、都市部の環境浄化が進められている。報道によれば、富山市が市の中心部の「落書き」に対して、警察に告発状を提出したと報じられているが、「落書き」と呼ばれてあたかも重大な犯罪行為であるかのように扱われることに疑問を呈するような報道はまず見たことがない。東京オリンピックを控えて、ストリートの文化やストリートの自由は更に広範囲に規制と排除と浄化のターゲットになるだろう。野宿者は排除されデモや集会などの政治活動すらこれまで以上に規制されるだろうし、もともと非政治的な裾野を幅広く持つ(政治活動家の関心を惹くことが少ない)犯罪とされてきたグラフィティもまたより厳しい規制の対象になるだろう。ストリートを政治的社会的な表現の場とするアートアクティビストたメディア・アクティビストの層が薄い日本では、一方的な政府や警察、マスメディアによる「落書き」への規制だけが議論の余地すら与えられないままに先行する危険性が高いことを私は危惧する。

「落書き」は一般に、当事者たちによってグラフィティと呼ばれる表現なので、以下ではグラフィティと呼ぶが、これは、世界中ほとんどどこにでも見出せる文字通りのグローバルなストリートの文化でもある。そして、同時に、どこの国でもグラフィティは「ヴァンダリズム(直訳すれば破壊行為)」とか「所有権の侵害行為」として犯罪化されて取締りの対象とされるのが現在の一般的傾向だろう。この一般的な傾向は、80年代半ば以降、ニューヨークの地下鉄のグラフィティ規制で主張されるようになったグラフィティを凶悪犯罪と結びつけて取締る「ゼロトレランス」とか「割れ窓理論」などと呼ばれる軽微な犯罪が凶悪犯罪を誘発するから軽犯罪を徹底して取締るべきという発想が支配的となり、貧困や資本による公共空間の支配の問題をなおざりにするなかで生まれてきたものだ。ストリートの表現の自由はこの国でも一貫して不自由の側へとシフトしてきたことは、戦後の都市の景観になかでの個人の表現の自由の場が次々に狭められてきたことを想起するだけでも十分理解可能だろう。人々が自由勝手にやっていた街路の張り紙やポスターが消え、露天や屋台も消え、貧乏人たちが日銭を稼ぐための場所は企業の広告と政府の宣伝と警察の監視の場所になってしまった。路上ミュージシャンが演奏できる場所もどんどん狭くなっている。同時に、猥雑で無秩序な場所を「汚い」とか「迷惑」とする感情が人々の中に根付いてしまった。



一方でグラフィティはどこにでもあり、他方で、グラフィティはどこでも犯罪化される、というこの構図を踏まえたとき、ここには、単に犯罪として取締ればよいという問題以上の問題が存在しているということに気づく必要がある。つまり、グローバルな資本主義が先進国であれ途上国であれ(グラフィティは米国にも中国にも、イスラエルにもパレスチナにも、ラテンアメリカ諸国にも勿論ある)、都市の(実は田舎にもある)路上の表現として、支配的な都市空間の表現、つまり商業広告や政府のプロパガンダに対抗する表現の位置を占めているということだ。私はどこの都市に行っても、その都市の自由度をグラフィティで計測する。清潔でグラフィティの目立たない場所は監視が厳しく自由度が低い。他方でグラフィティのある場所は、自由度が相対的に高い。

私が、訳者の一人として参加した、スティーヴ・ライト『Banksy's Bristol』(鈴木沓子, 毛利嘉孝との共訳、作品社、書評が読売6月23日で読める。)を訳出しようと思ったのも、グラフィティをストリートの文化として、政治や社会との関わりを抜きにはできないものなのだということを、アピールしたいという思いがあったからだ。これは、一方で、地域の社会運動や市民運動の活動家が日頃目にしているグラフィティに無関心で、関心を寄せるときには「あれにはどのような政治的な意味があるのか?」という質問しかできない、裏を返していえば、政治的ではない表現はどうでもよい、という政治主義的な文化道具論の反応か、あるいは、「やっぱり汚いよね」という反応でしかなく、逮捕のリスクを負いながらなぜ描くのか、ということにすら想像力が及ばない彼らへの私なりの問題提起でもある。他方で、グラフィティのライターたち(彼らは、絵ではなく文字を描くので、一般にライターと呼ばれるが、バンクシーのように絵を描くばあいもあり、グラフィティ・アーティストと呼んでも間違いではない)は、かっこいいとか面白いストリートの文化のスタイルに直感的あるいは感性的に惹かれて始めるのがその最初の動機だろうが、物書きとしての私は、それで満足して欲くはないと言いたいのだ。こうした私の思いは、当事者にとってはやや傲慢な上から目線かもしれないが、犯罪化された表現に対して感性的な「思い」だけで自らの行動を支え、理論武装しないことは、むしろリスクを高めるだけだと思うからだ。ストリートにおける表現の自由は無産者にとっての都市への権利なのだということを自覚するきっかけをこの本が与えてくれることも期待した。つまり、グラフィティがどのような意味を持つアクションなのかを、ライターたちの主観的な感覚や動機からだけではなく、ある意味では客観的に見据えることが必要だということを訴えたかった。というのも、都市の空間がなぜライターたちと敵対するのか、なぜ都市には表現の自由がないのか。商業広告やマスメディアの情報とグラフィティのような犯罪化された表現との間にある表現の自由の落差の根源を知ることは、ライターたちのアイデンティティにとって必須のことだからだ。つまり表現の意味を(警察や有力者が理解できるかどうかとは関わりなく)構築できなければ、ストリートの文化は単なる文化産業の金儲けの餌食になるか、警察のビジネスチャンスに貢献するだけになり、ストリートの文化として支配的な文化に楔をうがつことができない。このことは、ストリートの文化が世代的な再生産を獲得できず、時には、退屈な物真似か、絶対に許すことのできないヘイトスピーチや差別のプロパガンダに加担するといった堕落の罠に陥いる。「若い頃はやったよね」という昔話を中年以上の元ライターから聞くことほど切ないことはない。(60年代末に全共闘の活動家だった連中が、その後転向して大企業の幹部や保守政治家になって悪事を働くことに比べたら、どうということはない話かもしれないが。勿論、私だって象牙の塔の住人だから、「転向」していないなどと大見得を切れる立場ではないことは自覚しているが)

グラフィティの本は沢山翻訳されているし、バンクシーはグラフィティの世界では最も成功したアーティストで、彼の生まれ故郷の英国ブリストルは、彼のグラフィティが最大の観光資源にすらなっている。本書の解説に書いたが、だからといってバンクシーが免罪されているわけではなく、観光資源として利用する一方でグラフィティの犯罪化という基本的なスタンスを市も警察も維持し続けている。バンクシーの特異なところは、彼の作品がもっている政治性だけにあるのではない。政治的なメッセージに長けたアーティストはいくらでもいる。むしろ彼は、支配的なアートや表現の制度がストリートの表現と接するところで必然的に生み出される境界に固有の支配の脆弱な地盤を読むことにおいて、天才的な感覚をもっているという点に、彼の行為と作品の全てがある。一般に、境界線は支配の制度にとって最も脆弱になりやすいリスクの場だ。国境はその見やすい例であり、だから出入国管理という厳格な監視と管理のシステムが露出するのだが、同種の境界は都市の中にも目に見えないとはいえ張り巡らされており、グラフィティのライターたちは、この境界を読み制度の地盤沈下が可能な脆弱なポイントを探りあてることに長けていなければならない。グラフィティの存在自体が新たな境界線、あるいはストリートにおける資本と国家によって仕切られた表現への切り込みでもある。言い換えれば、ライターたちがどれだけこのことに自覚的になり、自らの行為を犯罪化しようとする制度の意思に対して自らの戦略を練ることができるのか、このことがライターたちの行動と作品に表出せざるをえないのだ。だから、リーガルウォール(合法的なグラフィティ)はいくら洗練されて優れたアートであっても「違う」のだ。このことをストリートを行き交う人々は無意識のなかで受けとめざるをえない。ジャック・ラカンが言うように、無意識がシニフィアンの織物であるというのであるならば、シニフィアンとしてのグラフィティがその一部となりうるのは当然であって、これは、市場経済と国家がもたらす所有と商品のシニフィアンの秩序への敵対の構造をなす潜勢力となるといっていい。ストリートに敵対的な弁証法を持ち込むということだ。私は、当事者のライターたちがこのようなことを考えるべきだとは思わないし、バンクシーがこうしたことを言っているわけでもない。しかし、彼らには彼らなりの自覚的な言説があって当然であり、それが、私的でかつ政治的な出来事(personal politics)として重要なのである。ストリートの文化の政治性は、それ自身が所有への「犯罪」としてのスティグマを押し付けられる以上、このスティグマこそが非犯罪化の力を形成しないわけにはいかないことも確かなことだろ思う。



ストリートの文化は、二つの相矛盾する傾向を常にかかえもつ宿命を負っている。一つは、ストリートそれ自体が、法的社会的な権利の観点からすれば、文化の担い手である無産者の若者たちを自らの生存の場でありながら疎外された場所とし、ストリートの公的な秩序への敵対者として排除するように制度化される。こうした無産者の若者達は、この制度の外に立つことを選択してしまえば、市場経済的な「価値」を享受できないから、制度の意思に従属することを半ば強制される。要するに、ストリートにおける表現行為を放棄するということだ。ストリートの無産者の文化は、貧困に根源を持つ文化であるが、この文化はこうして根絶される道を歩むことになる。もし当事者が目的意識的に抵抗しなければ。もう一つは、資本主義的な文化産業には、独自の文化的創造力を欠く一方で、商品化された文化の消費者たちは常に「新しい」スタイルをこの産業に期待する(こうした期待の心理を構築してきた原因は市場にあるのだが)。この期待を満すために文化産業はストリートの文化を「文化資源」として採掘(英語では、exploitationだが、この言葉は同時に搾取をも意味する)し商品として精製する。だから、ストリートは「公共空間」ではないし、公共空間などという洒落た空間は資本主義のどこの社会にも存在しない。ストリートはあらかじめ所有権や占有権の網の目に覆われており、表現の自由は、この所有の網の目とこれを正当化する法の秩序と法執行権力によって合法的に規制された世界を承認する文化産業か国家あるいはこれらのお抱え「絵師」にのみ許された権利でしかない。ストリートの文化の担い手はこの秩序の網の目の亀裂や切断を持ち込むが、ここで生きる糧を得られるわけではなく、犯罪者としてのレッテルを貼られることはあっても正当な文化の創造者としての認知は得られない。ここに、金鉱探しの文化産業が介入する余地があるということになる。「売れる」作品が優れた作品であるとはいえないことは十分承知していても、自分の作品が「売れる」となると、「評価された」という錯覚に陥いってしまう。(勿論私もこうした錯覚を抱え込んでおり、その例外ではない)こうして無能な文化産業はストリートの可能性を商品化し自らの利潤の源泉にする。売れれなくなれば捨てられるのは、第三世界のプランテーション農業が化学肥料の多投で地力低下すれば廃棄されるのと同じメカニズムだ。誰しもが自分の人間としての能力を〈労働力〉として資本に売り渡さなければ生きられないように、文化的な創造の担い手もまた、その能力を文化産業に売りわたすことができれば、貧困と犯罪者のスティグマから逃れられるかもしれないが、ストリートの自由は手放すことになる。ここには資本主義の宿命としての所有と自由の相克があり、ストリートを生きる無名の表現者たちは、この相克の中で身を引き裂かれながら生きることになる。

英国のブリストル出身のバンクシーはストリートのアーティストとして世界的に有名であり、その名声の故に、ストリートの無名のアーティストたちからは羨望と侮蔑の複雑な感情で語られることが多い。ストリートのサクセスストーリーの常として、グラフィティの世界でもサクセスストーリーが無産者のアーティストたちを時には妬みと敵意の渦に巻き込んでしまうことがある。支配者たちは、成功者を大いに賞賛しつつ、この例外的な存在を利用して、大多数の無名の者たちを無能呼ばわりしたり、努力の足りない者とみなしたり、「自由競争」の社会では誰でも努力すれば彼/彼女のように成功できるのだ、という教訓のお手本にしたがる。黒人にとってのオバマ、女性にとってのサッチャーしかり、である。サクセスストリーは「成功」しない大多数の者たちを貧乏な境遇に置くことを正当化する支配のイデオロギーであるが、バンクシーももちろんこうした「罠」から完全に自由なわけではない。しかし、彼は匿名であること、ストリートでの活動をやめないことを通じて、ストリートの所有の網の目の亀裂を拡げ、文化産業と表現の制度に少なからぬ揺らぎをもたらしたことは確かだと思うし、少なくとも私の知る限りにおいて、彼はブリストルの無名時代の人間関係を決してないがしろにはしていないと思う。同じことは、ブリストルのストリートからでてきて成功した、マッシヴ・アッタックやトリッキーなどのミュージシャンたちにもいえることだろう。自分たちを育ててくれたストリートを忘れないことと、このストリートでの表現の犯罪化に抗うことをこうした「成功した者たち」が示すことは大切なことだ。こうしたことが、日本のストリートの文化でも、とりわけ地方都市のような閉鎖的な場所におけるストリートの自由の条件として、絶対に必要なことだ。



近代における文化的創造は、市場経済と国民国家という大きな社会制度と無関係ではないが、他方で、これらの制度それ自身が、その内部に文化的創造の基盤を有しているといえるわけでもない。市場は、一般に、人々の感性を忠実に反映し、従って、彼らの需要(欲望)を充足するような商品の供給の効率的なメカニズムとして、他の様々な経済システムと比べて、優れた「経済性」を誇るというのが、市場原理主義者たちの言い分である。しかし、上でも述べたように、文化的な価値については市場の評価は一般的に的確なものとは言い難い。たとえば、市場で最高の売上げを誇る音楽や映画などの作品が、同時に、最も質的に優れた作品であるというような相関関係は見出しがたい。流行という文脈のなかで、大衆によって一時的に強く支持されたことを証明することはできるとしても、それが文化的な価値評価として妥当かどうかを示すものだとはいえない。もしそうであるとすれば、いかなる市場の商品も、経済的な価値だけでなく使用価値を有し、この使用価値には多かれ少なかれ文化的な価値が含まれることになるので、狭義の意味での文化的な商品(大衆音楽や娯楽としての映画など)ばかりでなく、自動車や食料品のような日常生活必需品についても、そのデザインは文化的な表象でもあり、またこれらのモノの消費はそれ自体がライフスタイルを構成するものとなり、大衆文化そのものを意味するから、このような大衆文化の価値の問題とも密接に関連することになる。

市場経済が文化において果す役割に関して、もうひとつ重要な問題がある。それは、文化的な生産に関る問題である。マルクスの生産過程のモデルを前提にすれば、資本の生産過程は、生産手段と〈労働力〉を商品として購入し、これらを用いて新たな商品を生産して市場で販売する。ここでの投資と売上げの差額が利潤になる。こうしたメカニズムは、文化的な要因については、全面的にあてはまらないところがある。自動車のデザインを決定する要件は、物の製造に必要な技術的な条件とは同じではない。デザインは無数に可能であり、その可能性から一つのデザインを選択するデザイナーの創造力は、生産過程だけで実現できるものではなく、その外で、いわば日常生活の文化的な感性に依存しなければならない。そうでなければいかに機械的なメカニズムとして優れた「移動機械」であっても、消費者の購買欲求を満すことはできないだろう。

このようなことは全ての商品にいえることであり、使用価値のデザインは市場だけで決定できない。むしろ市場の外部にあって、未だに商品化されないような潜在的な欲望の表出が市場の外部に見出されるのであり、これをいちはやく商品のデザインとしてとりこむことによって商品の使用価値の文化的な側面が形成される。市場は、こうした非市場的な使用価値を市場に媒介することを通じて、普及させ、時には「流行」として増幅させる機能をもつ。このような文化的な表象の増幅機能は、他方で、こうした増幅の結果として文化的な価値としての正当な評価を得られない表現との間に、不当ともいえる価値の格差をもたらすことにもなる。市場における文化的価値は、商品化可能であるか、あるいは何らかの商品のデザインとして利用可能であるといった条件に制約される。こうした条件を満たさない表現や文化のスタイルは市場からは排除されることになる。逆に、このような条件を満たすものであれば、たとえその文化的な対象が、反社会的であっても反市場的にはならない場合がある。ドラッグや銃器などの取引きや児童労働や人身売買などは、違法な市場という市場経済のサブシステムのなかで商品化される。経済学者はこうしたアンダーグラウンドな市場を軽視しがちだが、これは、市場経済を善いものとして擁護したいという潜在的な動機が背後にあることもあるし、道徳的な好き嫌いとは別に存在するものの意味とその存在理由を批判する観点をもつべきであろう。グラフィティもまたこうした市場の文化との関係のなかで、資本の利潤目的の投資対象として格好の選択肢のひとつになる。その結果として、グラフィティの担い手は、大きな精神的なプレッシャーとコミュニティの軋轢や相互の「成り上がり」競争に巻き込まれて疲弊し、シーンからフェーイドアウトしてゆくことになる。

グラフィティが異なる文化を越えて広がることと、文化のグローバリゼーションを公式に支える文化産業や文化の商品化の過程とを同じこととしてとらえることはできない。グラフィティのように、不法・違法行為としてどこの国でも犯罪とみなされていることと、ポピュラー音楽やハリウッド映画の「世界」性とは、それを支える構造に相似性はないからだ。しかし、適法・合法と不法・違法とを構成する統治と法の秩序は、同じ構造のの表と裏をなしているという意味では、文化の表層の背後にある文化を越える共通した構造が生み出す矛盾の表出である。この意味で、グラフィティは、場所の不法占拠とみなされるスクウォッター(公園にブルーシートで仮設の小屋を建てることや、通路にダンボールの小屋を建てることもスクウォッターのひとつの形である)やスラムの形成という、これまた世界中で見出される生活様式と、空間への権利という点で共通性をもつ。ただし、スクウォッターが居住の権利の側面としてのの空間への権利だとすれば、グラフィティはコミュニケーションの権利としての空間への権利であり、コミュニケーションである以上、そこにはメッセージと表現の手法が不可分なものとしてついてまわる。ヒップホップに起源をもつとされるグラフィティであれば、コミュニケーションとそこに込められたメッセージはパーソナル・ポリティクス、あるいは直感的な世界への感情的な意思表示(だから、それは、人種的なアイデンティティの表現であったり、体験に根ざした警官への敵意であったり、愛国心の素朴な発露であったりもする)として表出される。他方で、バンクシーをその系譜にふくめてもいいだろう社会的政治的な抵抗の意思表示としてのグラフィティの場合には、商業広告や政府の宣伝の空間に対する意識的な異議申し立てと抵抗や抗議のためのメッセージのために、空間を奪い返す意図がはっきりと示されるものといえる。だが、政治的か私的な署名かという両者の違いは、その見かけとは逆に、空間の政治が、パーソナル・ポリティクスとして浸透する一方で大きな権力のシステムの物質化(私的所有と統治のための都市計画)であってともに、「政治」の二つの側面であることを踏まえれば、権力の二つの側面であって、グラフィティとして都市空間に表出する表現もこの二つの側面に対応している。政治的メッセージだけを意味のあるグラフィティとして救い出す観点は、権力の日常生活への浸透を見逃すことになる。

都市の空間は、あらかじめ私的所有と国家による管理の下におかれながら「公共空間」という擬制によって正当化されており、無産者大衆の「自由な空間」の余地はあらかじめ排除されている。たぶん、近代国家が民主主義に基づく統治を導入している限りにおいて、公共空間の民主主義的な統治の可能性は開かれてはいる。しかし、この民主主義が「多数決」という意思決定の形式的手続きと、納税者の権利という有産者の利害に左右されるという限界によって、公共空間は多数者=多数民族と資本の利害を体現する空間となり、無産者にとっては、文字通りの「自由」な空間となることはないというように仕組まれている。公共空間の秩序維持はもっぱら警察の管轄となり、秩序規範の根底には、所有権をすべての権利のなかで最も優位に置くという価値観が据えられる。しかし、なぜ所有の権利が表現の自由やコミュケーションの権利よりも優位に置かれなければならないのか、という問いには誰も答えない。所有権を侵害しない範囲で、表現の自由もコミュニケーションの権利も認められるのが当然のことだという立場が、すべての議論の前提に置かれる。そしてこの所有の権利を侵害する表現の自由やコミュニケーションを不法・違法として犯罪化することも当然のこととみなされ、再審に付そうなどとは考えられもしない。グラフィティもスクウォッティングも、「果たして所有が最優先か?」「なぜ、表現の自由やコミュニケーションの権利、あるいは居住の権利を侵害する所有の権利を罪としないのか?」という究極の問いを孕んでいる。しかも、たとえ私的所有をはなれた公共空間であったとしても、この空間が国家=政府の管理から離れることはない。国家が民主主義的に構成されていても、なおかつ、空間への人々=霧散者の権利は保障されはしない。

人々の所有権を越えた空間への権利の不可能性には、この不可能性を可能なものへと転態させうる対立と矛盾が内在しており、この不可能性への抵抗と挑戦には、このシステムが根底に据えている所有の特権性の欺瞞を暴く潜勢力が備わっている。

資本主義的な自由は、文字通りの意味での表現の自由やコミュニケーションの自由とは何の関わりもない、市場取引の自由と領土としての統治の自由という限定的な自由に関わるのみである。ブリストルのバンクシーの話題からこのような大仰なテーマを引き出すのは牽強付会だろうか?しかし、バンクシーをめぐる議論や一連の神話を、狭いアートの世界や「カルチャー」のトピックに押しとどめて、その表象についてだけ論じることは間違ってはいないが、それだけでは私は満足したくない。当事者のライター/アーティストの主観的な動機や感情がどうあれ、その不法・違法性という制度が彼らの行為に与える「犯罪」というレッテルの背後にある大きな力の大きな物語を見失ってはならないし、この犯罪化の物語の正統性を覆えす思想的な努力は必要なことだからだ。 グラフィティもスクウォッティングも所有の優位というこの制度が消滅すればそのアンダーグラウンドとしての性格を失うから、これらが今私たちの問題意識を刺激するような政治性も文化的な価値も失うにちがいない。それでいいのだと思う。同時に、そうした世界を目指すことが必要なのだ。プルードンではないが、私たちが問題にしなければならないのは、所有の罪であって、表現やコミュニケーションの罪ではない。とりあえず、物事の善悪を転倒させることが必要だ。しかし、マルクスが指摘したように、ただの逆立ちであれば、土台を突き崩すことにはならない。逆立ちすら成り立ち得ない土台の解体のための力が必要なのである。

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