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ブログ - 原発は資本と国家の狂気である

原発は資本と国家の狂気である

カテゴリ : 
資本主義批判
執筆 : 
toshi 2011-3-27 3:22
福島第一原子力発電所の状況は一進一退を繰り返しながら、対処に時間がかかればかかるほど「安全」と言えるような収束の見通しが見えにくくなっている。問題はほんの数時間先の将来すら見通せないことからくる不安なのだ。この不安は事故が未曾有で未経験だからではない。政府と電力会社が自己保身のために躊躇しているからであり、メディアもまたこの躊躇を弄んでいるからだ。多くの犠牲がでることになっても、危機が深まれば深まるほど、彼らはその危機に対する救世主を装えると信じている。このような根拠のない国家と資本への信頼は、この国の「国民」にしか通用していない。すでに多くの国はこの国とメディアの情報を信じなくなっている。

すでに、大量の放射能が空気、地下水、海水などさまざまな経路をたどって福島県から近隣地域から首都圏に到達している。モニタリングがある程度機能し、情報にアクセスできる首都圏などでは、こうした情報をもとに退避や買いだめなどが起きているが、福島県の原発に近い地域も含めて、移動して危機を回避することができない人々は、放射能汚染を覚悟しながら留まる以外にない。また、地震と津波の影響で放射能汚染のモニタリングが十分とは言えないと想像される震災にあった東北地方への影響についての情報は、首都圏のそれに比べて極端に希薄だ。測定情報が「ない」ということと影響が「ない」ということは同じことではないし、測定情報があっても,政府自らが基準値の意味を反故にしつづけて「安全」と言いつづけている現状では、その数字の「意味」は無に等しい。あるいは、どのような数字がでようと「安全」というレッテルが貼られてしまえば、それでその数値は「安全」ということになり、実際の危険は見えないところに覆い隠されてしまう。

測定数値をめぐる情報アクセスの濃淡もまたかなりはっきりと見えている。ほとんどメディアの情報にアクセスできない人たち、マスメディアにしかアクセスできない人たち、ネットにアクセスできる人たち、政府や電力会社の内部情報にアクセスできる特権的な人たち、外国語を理解することができて海外での動向を把握できる人たち、これらの人々の間に生み出される情報の格差はかなりの部分で社会的な格差と構造的につながっており、誰が犠牲者、被害者となり、誰が被害を回避できるのかという問題がここには伏在していることを皆気づいているにもかかわらず、この格差の解消を政府も電力会社も積極的ではない。政府も電力会社もいつまでたっても官邸や本社で記者会見を続けている。なぜ福島の現地で、現地の人たちと直接対話することを優先しないのだろうか。なぜ、下請けの労働者は高濃度の放射能で汚染された現場の状況を知らされないままだったのだろうか。まず最初に情報を知らされるべき人たちに情報は知らされないという構造は、記者会見のあり方一つとっても明らかなはずだ。

現在の不安という問題は、将来のリスク予測が曖昧だから起きる。この将来のリスクの見えにくさは、意図的なものだ。東電が人々の安全よりもむしろ企業としてのコストや利益にこだわったとしか思えない初動の対処をしたのは、東電が地域独占の営利企業だったからに他ならない。営利企業は、社会の基本的なインフラとしてのエネルギーの供給のための技術と経営を、人々の生存権との関わりを基本に据えて構築するようにはできていないからだ。原発の再建にこだわり、最前線でもっとも過酷な健康と生命のリスクを負いながら働いている「協力企業」の労働者の生存に配慮するための投資を後回しにするのは営利企業としての当然の選択だったといえる。会社を潰してでも人々の生存を最大限保証する方向で組織を動かすことができていない。

他方で、政府はどうか。官邸の記者会見では、これまでも多くの人たちが繰り返し指摘しているように、当初、退避については安全基準を越える放射能汚染の数値にたいしても「念のため、総理から半径3km以内の住民に避難命令、半径3kmから10km圏内の住民に対し屋内待機の指示が出ております。」であって、「発電所から3km以内の避難、10km以内での屋内待機の措置により、住民の皆様の安全は十分に確保されており、落ち着いて対処いただきたい」(12日)ということだったが、翌日には20キロ圏内の避難が勧告され、15日には「20〜30kmの圏内にいらっしゃる皆さんには、外出することなく、建物など内部にいていただきたい」とさらに退避、避難の範囲が拡がった。「20kmを超える地点では、相当程度薄まって、身体への影響が小さい、あるいはない程度になっていることが想定されておりますが、万が一にも備え、なおかつ、こうしたものは気象条件にも影響されますことから、こうした圏内の皆様には、こうした大気にできるだけ触れることのないよう、屋内等におられることをお願いする次第でございます」という15日の枝野官房長官の発言は、今ではまったく見通しが甘かったといわざるをえない。言うまでもなく、現状は、退避や避難ではすまない状況にまで汚染が拡散している。これは想定外の事故だから仕方がないとみなされがちだが、そうではない。

原発を肯定してきた価値判断は、放射能汚染の測定数値が基準を越えても「直ちに人体に影響はない」を繰り返し、食品衛生法の基準を大きく越える値となっても、「食べても飲んでも大丈夫」を繰り返して顧みないような態度を蔓延させてきた。そして、こうした態度に、専門家とよばれる人たちが動員され、政府や東電の主張にそった「安全」にお墨付きを与え、そしてこうした専門家(いわゆる御用学者だが)の「お墨付き」をもってこんどは政府や東電が「専門家も安全と言っている」という。NHKのように、公正であるべきマスメディアは、政府の見解をオウム返しにするだけであって、政府や東電の見解にたいして批判的な見解があることすら一切報道しない。メディアが最低限になうべき多様な見解を提示するという役割すら放棄しており、大本営発表を垂れ流す翼賛報道の見本となっている。

さらに「安全」プロパガンダは、学会を巻き込みはじめた。日本産婦人科学会は、学会として「福島原発事故放射線被曝による、ご本人、胎児(お腹の中の児)、母乳ならびに乳幼児への悪影響について心配する必要はありません。」という声明を「3 月15 日、午前6 時時点で福島原発より5km 以上離れたところに居住していた妊娠・授乳中女性へのご案内」として出した。また、福島県は、県の放射線健康リスク管理アドバイザー、長崎大の山下俊一教授(被ばく医療学)と高村昇教授(放射線疫学)の講演会を21日に福島市内で実施した。この講演会では「福島市の現時点の空間放射線量で、健康上のリスクは全く考えられない」と話したという。(『福島民報』3月21日)メディアが報じていないことだが、この講演会で安全を強調する山下に対して批判した市民が同じ会場の市民たちから「帰れ」などと批判されるといったことも起きている。原発を推進してきた佐藤雄平知事は、この日の講演会をふまえて「県内各地で、大気中から通常より高い値の放射能が検出されていますが、人体への影響は限りなくゼロに近いとの県放射能健康リスク管理アドバイザー(長崎大学山下俊一教授)の評価もあります。また、県内産の原乳とホウレンソウ、かき菜については、国の指示に基づき出荷を差し控えていただいております。県民の皆さんには落ち着いて行動していただきたいと思います。」(22日付け福島県庁ウエッブ)と述べたが、その後26日にいたるまで佐藤知事の県民へのメッセージは出されていない。

現在の不安と将来の見通しがたさのすべての原因は、政府や電力会社が、チェルノブイリのようなレベル7を想定した最悪のシナリオを選択せずにあえて楽観的なシナリオを前面に押し出して、地元の人々を相対的に安全な場所にいち早く退避させるための努力を怠ったことにある。その結果として、退避にもっとも困難をかかえた人たちが最後まで残された。最悪のシナリオを明確に選択して行動の方針をとれば、将来の見通しは鮮明になる。もちろん、最悪のシナリオが外れることを恐れてはならず、むしろ外れるべきであり、そのときは外れた責任をとればよい。そのことで多くの人々が救われることのほうが大切なのではないか。

一連の事故への対処が人々の生存を基本に据えた対応になっていないことと、原発建設を肯定する経済と政治のあり方とは不可分の関係にある。このことを明確に自覚することが必要だ。原発という存在を肯定してきた電力会社と政府は、原発を肯定するこれまでの価値観をはっきりと自己批判しなければ的確な事故への対処も地域住民から日本列島、さらには国境を越えて拡がる可能性をもつ被害に適切な対応をとることはできない。

福島原発の放射能のリスクを政府や東電、そして「御用学者」もNHKなどのメディアも、客観的なデータに基づいた評価を装っているが、果たしてそういえるのか。実はリスク評価は恣意的に最悪の事態を軽視するか意図的に隠しているとはいえないか。それとも彼ら自らが、最悪の事態に気づいていないのか。官邸の記者会見や専門家と言われている人たちは、福島原発の放射能の被害をレントゲン検査やCTスキャンなど放射線を使った医療の検査と比べる。こうしたリスクの比較の是非がこれまでも議論されてきていると思うが、リスクの比較とは、人々の生存に関わる重大な事故や出来事に対して政府や関係機関がどのような態度をとってきたのか、という観点からの比較がむしろ重要なのだ。

ちょうど一年前の冬に、この国は新型インフルエンザでパニックに近い状態になった。当時、政府は最悪のシナリオを描いて見せて人々を不安にさせてワクチンの不足を大々的に報じた。あるいは、鳥インフルエンザや口蹄疫でも最悪の事態を想定していちはやく家畜などの殺処分に踏み切った。最悪のシナリオを描いての対処だったといっていい。養鶏や畜産を違法にしたりインフルエンザに罹患した人を文字通り「殺処分」するなどということができるとは誰も思っていないが、究極の選択をかなり広範囲に実施した。別の例でいえば、警察庁は「安全安心」をスローガンに凶悪犯罪の発生を誇張してきた。盗聴捜査を合法化したり、監視カメラの設置、「外国人犯罪」というレイシズムそのものといっていい犯罪類型をもちだして出入国管理に生体認証を導入した。私からするとリスクは過剰に見積もられるか、あるいはリスクが意図的に作り上げられた(でっち上げられた)。

ところが、原発の事故については真逆な対応を取ってきた。原発事故について最悪のシナリオを描くということは、たとえそれが過剰であったとしても人々の安全にとってマイナスになることはないはずだ。最悪のシナリオを想定して、可能な限り人々を退避させて安全な環境を確保することが、むしろ現在の不安を払拭し、世界中の人々の信頼を獲得する唯一の道ではないか。インフルエンザなどと違って、原発の最悪のシナリオによって及ぼされる影響は、長期にわたって地球全体を覆う。最悪のシナリオが将来においても想定される以上、その発生源である原発そのものを処分するという決断を下すことが最悪のシナリオに対してとるべき唯一の選択肢だろう。最悪のシナリオを描きたがらないケースは原発以外にもある。たとえば、医薬品の副作用、公害とよばれる企業による環境汚染、人道的な軍事介入がもたらす人的な犠牲など。これらにはある種の共通性がある。資本と国家の利益がむしろ選択の価値判断の根底にあるということだ。人々の生存の権利よりもむしろ経済的政治的な利益が優先している。これは、制度がかかえている問題であって、原発の事故も放射能汚染の問題もこの制度が人々の生存に先立って優先させる利益の問題を視野に入れておかなければならない。

最悪のシナリオを想定するということは、原発の廃棄を予定するということを意味している。だから、原発を肯定し推進してきた政府や電力会社は、最悪のシナリオを採ることができない。その結果は、いうまでもなく、政府や電力会社による「最悪のシナリオは存在しない」というプロパガンダとこれを信じる以外に選択肢を選べないような情報環境に取り巻かれて根拠のない信念だけで原発を肯定する「世論」なるものの形成にむすびついた。政府も電力会社も自己批判を経ないことには究極のシナリオに対して適切な選択、つまり、原発の廃棄を政策としても企業の経営の方針としても立てられない。だから、なによりもまず自己批判せよ、というのだ。マスメディアもまず自らが加担した原発を肯定する立場に対する責任をとらなければならない。このことは原発を肯定してきた市民ひとりひとりにもつきつけられることだ。これは、決して難しいことではない。率直に現実の事態を冷静に判断し、過去の誤りを認めて修正すればいい。そのことがあってはじめて、原発の廃棄を見据えた将来の方向性が明確に見えてくるはずだ。原発の廃棄がもたらす電力不足が停電や経済成長の停滞という副作用があるとしても、それは数年で克服できることであり耐えられないことではない。むしろ廃炉に伴う長期にわたる管理のリスクにともなう人的財政的なコストを引き受けるという未だに未解決の問題に、すべての知恵を絞ることのほうがずっと大問題であって、重大な課題になる。

原発の事故は、営利をベースとした電力会社とエネルギー産業によって支えられてきた市場経済の原理が、経済とはそもそもが人々の生存を保証するシステムであるべきだという原則と根底から大きく矛盾しているということを示している。同時に、原発推進が国策であるということに含意されているのは、原発がある種のイデオロギー的な機能をになってきたことを示している。このことは忘れられがちだ。原発の問題は、言い換えれば、近代世界の文化における否定的な側面の問題であり、近代社会が肯定しつづけてきたライフスタイルの「理想」の暗部に関わるのだ。そして原発が象徴する価値は、政治的な権威の価値の物的体現物ともなる。原発の立地をめぐる政府と自治体の間の財政的な力関係の背景にある都市と農村の問題、原発輸出にみられる世界市場における国家の対外的な力の象徴としての役割、イランや朝鮮民主主義人民共和国における核開発にみられるように核兵器のメタファ(日本の原発が核兵器のメタファとしての機能を持っていないと信じているのは日本人だけだろう)としての意味にいたるまで、あるいは、進歩と繁栄の象徴として、そして、近年では温暖化に対するクリーンなエネルギーの象徴として、原発は電力供給システムである以上の意味を持つ存在であって、だからこそ国家の権威をも象徴するような位置に置かれてきた。湯を沸かして蒸気でタービンを回すだけのために核分裂反応を利用するという発想はマッドサイエンティストそのものだと僕は思うが、これをむしろ正常な科学技術のあり方だと感じる感性を近代化のなかでどの国家も持つ傾向があるということを見るとき、原発の問題は、近代国家の狂気を体現するものなのだということに気づかなければならないだろう。原発は、資本と国家の狂気の産物なのだ。

たぶん、このような近代の科学技術が資本の利益と国家の権威に加担して生み出した破滅的なシステムを停止し廃棄に追い込むことを,資本と国家の自浄作用に委ねるということは、あまりにナイーブだろう。資本も国家もみずからの価値観や行動規範を否定するようなことはしまい。むしろ、最悪のシナリオがもたらす破滅に抗うのは、私たち一人一人が原発に込められた「意味」の総体を否定する意志を明確に表示すること、この意味の物質的な担い手としての原発そのものを放棄することによって、みずからの生存の権利を再度確立するような方向へと社会を変える意志を示す場合だけだろう。

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