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2009年の盗聴捜査の概要が、6日付けで警察庁、海上保安庁などから公表された。公表内容は各省庁ともおなじだ。法務省の報告は下記。
http://www.moj.go.jp/PRESS/100205-1-1.pdf
公表内容は、盗聴捜査の対象犯罪、盗聴令状申請件数、令状発付件数、各令状ごとの盗聴捜査日数、盗聴された通信の通話数、犯罪関連通信の件数、逮捕者数だ。
昨年の盗聴捜査全体の概要を公表された数字から計算すると以下のようになる。
2009年盗聴捜査
申請件数 23件
令状発付件数 23件
盗聴延べ日数 292日
盗聴された通話数 4867通話
犯罪関連通信 892通話
外国語や暗号通信 なし
上記の数字から計算すると犯罪関連通信の盗聴された通話に対する割合は、18.33%となる。言い換えれば、盗聴された通信の大半は犯罪と無関係なのだ。この傾向は、盗聴法成立以来変わっていない。
犯罪捜査の可視化が言われながら、盗聴捜査で公表される内容は極めて限られている。どの機関がいつどこの裁判所に令状を請求したのか、盗聴対象の「携帯」の通信とは通話かメールかの区別もわからない。そのために盗聴捜査が具体的な事件との関わりで何らかのプライバシー侵害の恐れがあるような問題を起こしているとしてもチェックのしようがない。
さらにここにきて、盗聴捜査の拡大を狙う危惧すべき事態も起きている。先月下旬、マスコミ各社は、国家公安委員長が委嘱して取り調べの可視化を検討する有識者会議が二月に発足すると報じた。すでに5日に第一回の会合が持たれているはずだ。
サンケイは、先月28日付で次のように報じている。
捜査手法研究会 設置 取り調べ可視化を前提に捜査手法を研究
2010.1.28 10:17
警察庁は28日、捜査力強化の手法や取り調べのあり方、高度化などを研究する有識者研究会を設置すると発表した。研究会メンバーは中井洽国家公安委員長が人選、委嘱した警察OBや元検事、弁護士のほか心理学などの専門家ら12人で構成。今後、約2年かけて各国の捜査手法を研究するほか、全面的な録音・録画(可視化)を柱に討議を重ね、結論を中井委員長に提出する。(中略)
取り調べの可視化をめぐっては、中井委員長が昨年9月の就任直後から「マニフェスト通り実施する」と明言。一方で、「取り調べ当局にとって犯罪の摘発率を上げ、スピード化できる武器を持たせてあげないと、一方的な全面的可視化だけでは済まない。それが、可視化の前提だ」とも述べ、司法取引の法制化やおとり捜査、通信傍受などの捜査手法の適用拡大を含め、「新しい捜査手法」の導入
についても前向きな姿勢を見せていた。
中井国家公安委員長は、現状の盗聴捜査が犯罪捜査の効率性や摘発率をあげることには寄与できていないことを前提に、その拡大を狙っていることが上の報道からは読み取れるが、米国など日本よりも大幅に盗聴捜査の自由が認められている国で起きていることは、より多くの犯罪とは無関係な通信が捜査当局によって監視されるといった明らかな権利侵害の拡大だ。反テロ戦争の中で米国の国内法が市民的自由を大きく制約する方向に転換したが、その結果米国の安全が格段に改善されたという証拠はどこにも見当たらない。
上にも書いたように、盗聴捜査そのものが極秘のうちに行われる不可視化された捜査活動であり、事後的にも捜査の実態は開示されたとはいい難いものだ。中井委員長は、取り調べの可視化を受け入れる代償として警察の捜査そのものをよりいっそう密室化することを狙ったものだ。冤罪は、自白の強要だけではなく、警察による証拠の捏造や違法な捜査活動、人権侵害的な活動によっても生み出されている。盗聴捜査の拡大は、これまでの盗聴捜査の実態が外形的な統計数字以外は全く明らかでなく、警察庁なども積極的な情報開示の姿勢を見せてもいないわけで、こうした中で盗聴捜査の拡大が論じられるのは、容認できない。
むしろ、可視化の趣旨を踏まえれば、盗聴捜査の廃止こそが唯一の選択肢ではないか。
サンケイが報じている有識者会議のメンバーは下記。
大沢真理・東京大教授(社会政策)▽岡田薫・元警察庁刑事局長▽久保正行・元警視庁捜査1課長▽小坂井久弁護士▽高井康行弁護士(元検事)▽竹之内明弁護士▽仲真紀子・北海道大教授(心理学)▽番敦子弁護士▽本田守弘弁護士(元検事)▽前田雅英・首都大学東京教授(刑事法)▽ 桝井成夫氏(ジャーナリスト)▽山室恵弁護士(元判事)
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プライバシーを侵害し、表現の自由を規制する盗聴法の廃止を求める市民団体共同声明
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=39
電子警察の実体は取調べの可視化、捜査資料の全面開示でも不可視なままだ
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=36
http://www.moj.go.jp/PRESS/100205-1-1.pdf
公表内容は、盗聴捜査の対象犯罪、盗聴令状申請件数、令状発付件数、各令状ごとの盗聴捜査日数、盗聴された通信の通話数、犯罪関連通信の件数、逮捕者数だ。
昨年の盗聴捜査全体の概要を公表された数字から計算すると以下のようになる。
2009年盗聴捜査
申請件数 23件
令状発付件数 23件
盗聴延べ日数 292日
盗聴された通話数 4867通話
犯罪関連通信 892通話
外国語や暗号通信 なし
上記の数字から計算すると犯罪関連通信の盗聴された通話に対する割合は、18.33%となる。言い換えれば、盗聴された通信の大半は犯罪と無関係なのだ。この傾向は、盗聴法成立以来変わっていない。
犯罪捜査の可視化が言われながら、盗聴捜査で公表される内容は極めて限られている。どの機関がいつどこの裁判所に令状を請求したのか、盗聴対象の「携帯」の通信とは通話かメールかの区別もわからない。そのために盗聴捜査が具体的な事件との関わりで何らかのプライバシー侵害の恐れがあるような問題を起こしているとしてもチェックのしようがない。
さらにここにきて、盗聴捜査の拡大を狙う危惧すべき事態も起きている。先月下旬、マスコミ各社は、国家公安委員長が委嘱して取り調べの可視化を検討する有識者会議が二月に発足すると報じた。すでに5日に第一回の会合が持たれているはずだ。
サンケイは、先月28日付で次のように報じている。
捜査手法研究会 設置 取り調べ可視化を前提に捜査手法を研究
2010.1.28 10:17
警察庁は28日、捜査力強化の手法や取り調べのあり方、高度化などを研究する有識者研究会を設置すると発表した。研究会メンバーは中井洽国家公安委員長が人選、委嘱した警察OBや元検事、弁護士のほか心理学などの専門家ら12人で構成。今後、約2年かけて各国の捜査手法を研究するほか、全面的な録音・録画(可視化)を柱に討議を重ね、結論を中井委員長に提出する。(中略)
取り調べの可視化をめぐっては、中井委員長が昨年9月の就任直後から「マニフェスト通り実施する」と明言。一方で、「取り調べ当局にとって犯罪の摘発率を上げ、スピード化できる武器を持たせてあげないと、一方的な全面的可視化だけでは済まない。それが、可視化の前提だ」とも述べ、司法取引の法制化やおとり捜査、通信傍受などの捜査手法の適用拡大を含め、「新しい捜査手法」の導入
についても前向きな姿勢を見せていた。
中井国家公安委員長は、現状の盗聴捜査が犯罪捜査の効率性や摘発率をあげることには寄与できていないことを前提に、その拡大を狙っていることが上の報道からは読み取れるが、米国など日本よりも大幅に盗聴捜査の自由が認められている国で起きていることは、より多くの犯罪とは無関係な通信が捜査当局によって監視されるといった明らかな権利侵害の拡大だ。反テロ戦争の中で米国の国内法が市民的自由を大きく制約する方向に転換したが、その結果米国の安全が格段に改善されたという証拠はどこにも見当たらない。
上にも書いたように、盗聴捜査そのものが極秘のうちに行われる不可視化された捜査活動であり、事後的にも捜査の実態は開示されたとはいい難いものだ。中井委員長は、取り調べの可視化を受け入れる代償として警察の捜査そのものをよりいっそう密室化することを狙ったものだ。冤罪は、自白の強要だけではなく、警察による証拠の捏造や違法な捜査活動、人権侵害的な活動によっても生み出されている。盗聴捜査の拡大は、これまでの盗聴捜査の実態が外形的な統計数字以外は全く明らかでなく、警察庁なども積極的な情報開示の姿勢を見せてもいないわけで、こうした中で盗聴捜査の拡大が論じられるのは、容認できない。
むしろ、可視化の趣旨を踏まえれば、盗聴捜査の廃止こそが唯一の選択肢ではないか。
サンケイが報じている有識者会議のメンバーは下記。
大沢真理・東京大教授(社会政策)▽岡田薫・元警察庁刑事局長▽久保正行・元警視庁捜査1課長▽小坂井久弁護士▽高井康行弁護士(元検事)▽竹之内明弁護士▽仲真紀子・北海道大教授(心理学)▽番敦子弁護士▽本田守弘弁護士(元検事)▽前田雅英・首都大学東京教授(刑事法)▽ 桝井成夫氏(ジャーナリスト)▽山室恵弁護士(元判事)
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会期末ギリギリでレベッカ・ホルンの展覧会を東京都現代美術館に観に行くことができた。会場でもらった資料で、84年の第二回富山国際現代美術展にも出品していたことを知ったが、ぼくは観ていない。今回初めて作品に接したことになる。個展としては日本で最初ということらしいが、映像も含めて70年代から現代まで彼女の作品が通観できる。
個展のタイトルはRebellion in Silence。このタイトルは作家自身のものか美術館側のものかわからないが、日本語では「静かな叛乱」とある。叛乱rebellionに「静かな」という形容詞を付すと日本語の語感では、「叛乱」がもつ静かさとは対極の含意が打ち消されてしまう。むしろ「無言の叛乱」と言った方がより的確なのではないか。
レベッカ・ホルンの作品は、作品としての自立性が強く、この意味で、美術館のホワイトキューブのなかでうまく<生きる>表現になっていると思う。風や水の微妙な揺らぎを、微細な歯車とモーターの動きを使って創り出す。鳥の羽、蛇を想起させる金属のチューブ、アトランダムに動くチューブから放出される黒い絵の具、これらの作品の繊細な動作は確かに「無言」を「叛乱」に媒介するのだが、では、「叛乱」という言葉に対応するものは一体何なんだろうか?
ホルンは、決して非社会的な作家ではないが、作品の社会性、あるいは社会との接点を理解することは、必ずしも容易ではないかもしれない。たぶん、現代美術や戦後ドイツの社会と美術に精通しているであろう鑑賞者であれば、ホルンが意図する無言の言葉を読み取り、「叛乱」を感知するかもしれないが、ぼくのように彼女のバックグラウンドやこれまでの作品に精通していない鑑賞者は、作家とは別のコンテクストのなかで作品を「読む」自由を持つことがあってもいい。
ホルン自身の意図はぼくにはわからないが、「ペインティング・マシーン」のように、壁にアトランダムに絵の具を吹き付ける自動機械や映像作品「パフォーマンス2」に収録されている何本もの鉛筆を顔にくくり着けたホルンが、顔を左右に動かしながら紙に鉛筆の線を即興的に描くパフォーマンス
から、ぼくはかなりストレートな抽象表表現主義への「叛乱」を感じた。冷戦の時代に米国が反共文化戦略に利用したことはよく知られている。そんなことを思い出しながら、彼女の抽象表現風パフォーマンスを読むことはある意味でとても興味深い体験だったといっていい。
同じように、天井から吊るされたピアノーーその鍵盤は、あたかも内蔵がはみ出た身体のような趣で、逆さまになったピアノから露出するのだがーーの作品「アナーキーのためのコンサート」や楽譜が細い針金に吊るされてあたかも鳥の羽のようにゆらゆらと上下に動く楽譜は、ドイツが本場ともいえる古典音楽の秩序や制度への「無言」の「叛乱」であると感じる。ハリウッド映画のフィルムを地べたに裸のまま投げ出した「過ぎゆくとき」が映画についての彼女のスタンスを明確に表明したある種の政治宣言でもあると思う。いずれも、観る者の解釈の余地を大きく与えながら、しかし、何を肯定し、何に向かって否定のための「無言の言葉」をなげかえようとしているのかはかなり自明なようにも見える。
解釈の余地をあえて残す彼女の作品は、明確なメッセージを誤解の余地無く提示するような意味での社会性をもつことを要求されるような主題には必ずしもなじまないだろう。たとえば、「相互破壊の場」という作品は、殺す側と殺される側が対等に入れ替わりうることが前提となった設計になっているが、これを現代の武力紛争に当てはめて「解釈」するとすれば、ほとんど意味をなさないことは明らかだからだ。しかし、ぼくが「自明」だと言ったのは、彼女の作品に接した僕が、彼女の与り知らないだろう僕自身の経験や知識や「日本」の歴史的社会的な文脈を介して、僕がある種自由に解釈するなかで自明性が獲得されるということであって、作家の関知するところではないのは言うまでもないことだ。
鑑賞者としてのぼくは、美術館のなかで、タブララサの状態で作品に接するというわけには行かない。美術館は暗に、外の世界を美術館に持ち込んだりせずに関係性を断ち切った個としての「私」が、作家とも社会とも美術館の政治とも切り離された作品そのものと対面することを要求しているように感じて耐えられなくなることがあるが、ホルンの作品は、作品として自立していながら、ぼくが持ち込むさまざまな僕に関わる社会性を決して否定しないだけの開かれた解釈の可能性をもつようには感じた。
今回の展覧会でもっとも閉鎖的な空間を構築していたのが「鯨の腑に閉じ込められた光」
だろう。この作品は、ジャック・ルボーが書いた詩と、ニュージーランドのコンテンポラリー・ジャズのサックス奏者ハイデン・チザムの音楽とのコラボレーションの作品だとおもうのだが、美術館のリーフレットには、ホルンみずからの詩だと書かれている。部屋の中央に真黒の水をたたえた水槽を配置し、水面に垂直に立てられた先を尖らせた細い杖がゆっくりと水の表面を揺することで静かな波紋が立つ。真っ暗な部屋の全ての壁面に数台のプロジェクタを使って詩が英文で流れる。あたかも鯨の内部にいるかのような感覚に囚われる。会場で配られた簡単なパンフレットに次のような詩の訳が掲載されている。
(前略)夜、言葉は彷徨い
頭の中の影のように、
水の大理石の上を滑る。
金の杖が流れを遮り、
流れに逆らって黒い水のなかに文字を書く、
波間から文章を救い出し、
記号の陶酔をかきたてる鏡の透明のなかで。
震えながら言葉は新しい配置につく
月を見て方向を正しながら、
言葉のドームを組み上げる。
絡まりあうこだまの腹の中から脱出する。
鯨の鼓動のまわりをめぐる。
私の影は鯨の熱を感知し、
冷たい鼓動を抱きしめ、
光の炎を
心臓の中心へ送り込む。
わからない、愛が炎のなかの解放を秘めて
いるのかいないのか。
言葉の種籾は
暗闇で育ち
まだ心の結び目を結ぶには至らずに
光でもあり影でもあり
宙に浮いている。
水の一滴そして空気が
鯨の内部でかたちを結び
ひとつの叫びとなる。
言葉の誕生、
その響きは浪を越えて
太陽に向かって滑走する。
作品のイメージはまさにこの詩にあるとおりのものだ。ぼくは、この暗い空間にかなり長い時間座りながら、チザムの音(あえて分類すれば、アンビエントなエレクトロ)を体で感じながら、「鯨」について考えざるをえなかった。「鯨」というテーマをホルンはこの日本でどのような意図を持って持ち込んだのだろうか?この作品は今回の日本での個展のために制作されたものではないが、彼女はなぜ鯨という主題を選んだのか?という問いはそれなりの意味をもち、日本との文脈に置かれれば自ずとその意味も変わってくるはずだ。ぼくの最初の関心はこれだった。そして次にぼくは、この「鯨」の腑の中に入り込む「日本人」の鑑賞者たちは、はたしてこのテーマをどのように受け取るのだろうか?ということだった。いうまでもなく、この「無言」というのにふさわしい空間に、漆黒の水から生まれる「言葉」を全身に投影されながら、その言葉の意味を読み取ることは、とても難しい(言語的な限界という意味が大きいのだが)とはいえ、ホルンが調査捕鯨という名目で事実上の商業捕鯨まがいのことをやりつづけて、食文化を国家利害に従属させようというこの国に対して、この作品は、彼女が持ち込んだ「無言の叛乱」なのではないか?といったことを、ぼくはこの鯨の腑の中に佇みながら考えざるを得なかった。暗い文字通り鯨の腑のような空間に包み込まれた感覚は、心地よいはずのものだし、確かに心地よいのだが、やはり、ホルンが「鯨」というモチーフをこの日本での個展に持ち込む時に、なにがしかの鯨をめぐる「政治的な事柄」を必ずや意識したとぼくは確信するので、その確信を思えば思うほど、そして上の詩の含意を受け止めれば受け止めるほど、日本の捕鯨の是非について、ホルンは「否」の立場を暗示していることも感じ取る事ができるわけであり、もしかしたらこれこそが今回の個展のタイトルとなっている無言の叛乱に込められた様々な具体的な事がらのなかでも、特に重要な意味あるメッセージなのではないかと思ったのだ。作品は、ある意味で無言なのだが、しかし確実に問いかけられているという感覚を受け取った。暗い鯨の腑のなかで、ぼくは、体のヒーリング感とは逆に頭のなかは、むしろ彼女の問いへの答えを模索して覚醒させられるような、切迫した気持ちにならざるをえなかった。
このような、「政治的」な作品への接し方は、この国の芸術についての支配的な理解の枠組みからすれば、邪道なのかもしれないが、ぼくにはそのような講釈よりもむしろ、ホルンの作品に接しなければたぶん、それほど深くは考える事がなかったであろう幾つかの大切な社会的な事柄に向き合う事ができたという経験が一番の収穫だったと思う。
個展のタイトルはRebellion in Silence。このタイトルは作家自身のものか美術館側のものかわからないが、日本語では「静かな叛乱」とある。叛乱rebellionに「静かな」という形容詞を付すと日本語の語感では、「叛乱」がもつ静かさとは対極の含意が打ち消されてしまう。むしろ「無言の叛乱」と言った方がより的確なのではないか。
レベッカ・ホルンの作品は、作品としての自立性が強く、この意味で、美術館のホワイトキューブのなかでうまく<生きる>表現になっていると思う。風や水の微妙な揺らぎを、微細な歯車とモーターの動きを使って創り出す。鳥の羽、蛇を想起させる金属のチューブ、アトランダムに動くチューブから放出される黒い絵の具、これらの作品の繊細な動作は確かに「無言」を「叛乱」に媒介するのだが、では、「叛乱」という言葉に対応するものは一体何なんだろうか?
ホルンは、決して非社会的な作家ではないが、作品の社会性、あるいは社会との接点を理解することは、必ずしも容易ではないかもしれない。たぶん、現代美術や戦後ドイツの社会と美術に精通しているであろう鑑賞者であれば、ホルンが意図する無言の言葉を読み取り、「叛乱」を感知するかもしれないが、ぼくのように彼女のバックグラウンドやこれまでの作品に精通していない鑑賞者は、作家とは別のコンテクストのなかで作品を「読む」自由を持つことがあってもいい。
ホルン自身の意図はぼくにはわからないが、「ペインティング・マシーン」のように、壁にアトランダムに絵の具を吹き付ける自動機械や映像作品「パフォーマンス2」に収録されている何本もの鉛筆を顔にくくり着けたホルンが、顔を左右に動かしながら紙に鉛筆の線を即興的に描くパフォーマンス
から、ぼくはかなりストレートな抽象表表現主義への「叛乱」を感じた。冷戦の時代に米国が反共文化戦略に利用したことはよく知られている。そんなことを思い出しながら、彼女の抽象表現風パフォーマンスを読むことはある意味でとても興味深い体験だったといっていい。同じように、天井から吊るされたピアノーーその鍵盤は、あたかも内蔵がはみ出た身体のような趣で、逆さまになったピアノから露出するのだがーーの作品「アナーキーのためのコンサート」や楽譜が細い針金に吊るされてあたかも鳥の羽のようにゆらゆらと上下に動く楽譜は、ドイツが本場ともいえる古典音楽の秩序や制度への「無言」の「叛乱」であると感じる。ハリウッド映画のフィルムを地べたに裸のまま投げ出した「過ぎゆくとき」が映画についての彼女のスタンスを明確に表明したある種の政治宣言でもあると思う。いずれも、観る者の解釈の余地を大きく与えながら、しかし、何を肯定し、何に向かって否定のための「無言の言葉」をなげかえようとしているのかはかなり自明なようにも見える。
解釈の余地をあえて残す彼女の作品は、明確なメッセージを誤解の余地無く提示するような意味での社会性をもつことを要求されるような主題には必ずしもなじまないだろう。たとえば、「相互破壊の場」という作品は、殺す側と殺される側が対等に入れ替わりうることが前提となった設計になっているが、これを現代の武力紛争に当てはめて「解釈」するとすれば、ほとんど意味をなさないことは明らかだからだ。しかし、ぼくが「自明」だと言ったのは、彼女の作品に接した僕が、彼女の与り知らないだろう僕自身の経験や知識や「日本」の歴史的社会的な文脈を介して、僕がある種自由に解釈するなかで自明性が獲得されるということであって、作家の関知するところではないのは言うまでもないことだ。
鑑賞者としてのぼくは、美術館のなかで、タブララサの状態で作品に接するというわけには行かない。美術館は暗に、外の世界を美術館に持ち込んだりせずに関係性を断ち切った個としての「私」が、作家とも社会とも美術館の政治とも切り離された作品そのものと対面することを要求しているように感じて耐えられなくなることがあるが、ホルンの作品は、作品として自立していながら、ぼくが持ち込むさまざまな僕に関わる社会性を決して否定しないだけの開かれた解釈の可能性をもつようには感じた。
今回の展覧会でもっとも閉鎖的な空間を構築していたのが「鯨の腑に閉じ込められた光」
だろう。この作品は、ジャック・ルボーが書いた詩と、ニュージーランドのコンテンポラリー・ジャズのサックス奏者ハイデン・チザムの音楽とのコラボレーションの作品だとおもうのだが、美術館のリーフレットには、ホルンみずからの詩だと書かれている。部屋の中央に真黒の水をたたえた水槽を配置し、水面に垂直に立てられた先を尖らせた細い杖がゆっくりと水の表面を揺することで静かな波紋が立つ。真っ暗な部屋の全ての壁面に数台のプロジェクタを使って詩が英文で流れる。あたかも鯨の内部にいるかのような感覚に囚われる。会場で配られた簡単なパンフレットに次のような詩の訳が掲載されている。(前略)夜、言葉は彷徨い
頭の中の影のように、
水の大理石の上を滑る。
金の杖が流れを遮り、
流れに逆らって黒い水のなかに文字を書く、
波間から文章を救い出し、
記号の陶酔をかきたてる鏡の透明のなかで。
震えながら言葉は新しい配置につく
月を見て方向を正しながら、
言葉のドームを組み上げる。
絡まりあうこだまの腹の中から脱出する。
鯨の鼓動のまわりをめぐる。
私の影は鯨の熱を感知し、
冷たい鼓動を抱きしめ、
光の炎を
心臓の中心へ送り込む。
わからない、愛が炎のなかの解放を秘めて
いるのかいないのか。
言葉の種籾は
暗闇で育ち
まだ心の結び目を結ぶには至らずに
光でもあり影でもあり
宙に浮いている。
水の一滴そして空気が
鯨の内部でかたちを結び
ひとつの叫びとなる。
言葉の誕生、
その響きは浪を越えて
太陽に向かって滑走する。
作品のイメージはまさにこの詩にあるとおりのものだ。ぼくは、この暗い空間にかなり長い時間座りながら、チザムの音(あえて分類すれば、アンビエントなエレクトロ)を体で感じながら、「鯨」について考えざるをえなかった。「鯨」というテーマをホルンはこの日本でどのような意図を持って持ち込んだのだろうか?この作品は今回の日本での個展のために制作されたものではないが、彼女はなぜ鯨という主題を選んだのか?という問いはそれなりの意味をもち、日本との文脈に置かれれば自ずとその意味も変わってくるはずだ。ぼくの最初の関心はこれだった。そして次にぼくは、この「鯨」の腑の中に入り込む「日本人」の鑑賞者たちは、はたしてこのテーマをどのように受け取るのだろうか?ということだった。いうまでもなく、この「無言」というのにふさわしい空間に、漆黒の水から生まれる「言葉」を全身に投影されながら、その言葉の意味を読み取ることは、とても難しい(言語的な限界という意味が大きいのだが)とはいえ、ホルンが調査捕鯨という名目で事実上の商業捕鯨まがいのことをやりつづけて、食文化を国家利害に従属させようというこの国に対して、この作品は、彼女が持ち込んだ「無言の叛乱」なのではないか?といったことを、ぼくはこの鯨の腑の中に佇みながら考えざるを得なかった。暗い文字通り鯨の腑のような空間に包み込まれた感覚は、心地よいはずのものだし、確かに心地よいのだが、やはり、ホルンが「鯨」というモチーフをこの日本での個展に持ち込む時に、なにがしかの鯨をめぐる「政治的な事柄」を必ずや意識したとぼくは確信するので、その確信を思えば思うほど、そして上の詩の含意を受け止めれば受け止めるほど、日本の捕鯨の是非について、ホルンは「否」の立場を暗示していることも感じ取る事ができるわけであり、もしかしたらこれこそが今回の個展のタイトルとなっている無言の叛乱に込められた様々な具体的な事がらのなかでも、特に重要な意味あるメッセージなのではないかと思ったのだ。作品は、ある意味で無言なのだが、しかし確実に問いかけられているという感覚を受け取った。暗い鯨の腑のなかで、ぼくは、体のヒーリング感とは逆に頭のなかは、むしろ彼女の問いへの答えを模索して覚醒させられるような、切迫した気持ちにならざるをえなかった。
このような、「政治的」な作品への接し方は、この国の芸術についての支配的な理解の枠組みからすれば、邪道なのかもしれないが、ぼくにはそのような講釈よりもむしろ、ホルンの作品に接しなければたぶん、それほど深くは考える事がなかったであろう幾つかの大切な社会的な事柄に向き合う事ができたという経験が一番の収穫だったと思う。
やっと横浜事件を冤罪と認めて刑事保障の支払いを命じる判決が出た。この判決は、これまでの数次にわたる再審請求裁判、特の第三次再審請求と昨年3月30日の第四次再審請求裁判の判決をふまえたものだ。日弁連はその会長談話のなかで、昨年の第三次再審請求裁判の判決について次のように評価していた。
本判決は、その理由中で、「横浜事件の歴史的背景事情、後に神奈川県特高による拷問が認定された有罪判決が存在すること、本件の確定判決は終戦直後の混乱期に言い渡されたもので、永久保存されているはずの事件記録が故意に廃棄されたと推認されること」などを認め、無罪判決により名誉回復を図ろうとしている請求人らの心情は理解できるとした上、刑事補償を受け得る可能性の強いこと、その刑事補償の手続の中でも名誉回復を図れることを強く示唆している。かかる意味で、本判決は、小野氏だけでなく、横浜事件のすべての犠牲者に対し、特高警察を含む司法の誤りを実質的に認めたものと評価できる。
横浜事件は、戦前の治安維持法のもと、雑誌『改造』に掲載された細川嘉六の論文が共産主義を扇動する論文であるとみなされ、富山県泊の旅館で雑誌『改造』や『中央公論』の編集者らが集まって共産党再建会議を謀議したなどの容疑に問われた戦時中最大の言論弾圧事件だった。この事件をきっかけに、両雑誌は廃刊に追い込まれた。裁判の判決は、敗戦直後、治安維持法の法的効果が継続していたかどうか微妙な時期に有罪とされた。横浜事件の被告となった中央公論社の編集者だった木村亨は、生前、特高の取調べについて次のように語っていた。
特高警官どもが最初に問いかけてくる言葉は、決まって「おまえは共産主義者だろう」の一句であった。そんなキメつけの言葉に対してぼくは「ちがう、民主主義者だ」と彼らの問いを否認すると、ぼくをとりかこんだ七、八名の特高刑事どもは、手に手に棍棒や椅子のこわれた足だのロープや竹刀などをふりかざして裸のぼくにおそいかかり、なぐる蹴るの暴行を加えた」(『横浜事件、木村亨全発言』、インパクト出版会)
ぼくは幸福にも、戦後生まれとして、自分の思想信条の自由な選択のなかでコミュニストであることを(かなりイレギュラーなコミュニストだが)選び取ったが、木村のこうした体験を読むと、戦時中に果たしてどこまで自分の思想を守り通せただろうかとおもう。拷問の末の自白は、思想信条に生きるジャーナリストや知識人にとってはまさに肉体の死に優るとも劣らない大きな屈辱だったと思う。特高にとっては民主主義者と共産主義者の区別などどうでもよかったに違いないのだが、こうした慢心を当時の日本の国家権力の末端の者たちがなぜ抱くようになったのか、なぜ、適正な法執行のルールによることを容易に放棄してしまったのか、そして、そのことを末端の取調べ官だけでなく、検察も裁判所も見て見ぬふりをすることができてしまったのか。それが権力というものさ、では済まされない問題がここにある。権力は私たちの向こう側にあるのではなく、たぶん、当時の時代状況をふまえれば、こうした権力の逸脱を下支えしたのは、まさに、無名の民衆たちだったのではないか。共産主義者なら拷問にかけ投獄してもよいのだ、という感覚はひとり国家権力の中枢にある者たちだけのものではなかった。そして、この感覚が戦後も形をかえて続くことによって、治安維持法下の冤罪が半世紀も認定されないできたのではないか。
治安維持法下の過酷な拷問と取調べが、こうした社会の「空気」に支えられて、冤罪を生み出した。検挙された当事者は、戦後に冤罪を主張して再三の再申請球を繰り返してきたが、冤罪を裁判所が認定するようになるのは最近になってからだ。
4日の裁判について、東京新聞は次のように報じている。
大島裁判長は、五人を逮捕した当時の神奈川県警察部特別高等課の捜査について「脆弱(ぜいじゃく)な証拠に基づいて検挙。思い込みによる捜査から始まった」と批判。「竹刀で乱打され、靴でけられ、ときにはつるし上げられるなどの暴行を加えられた」と拷問も認めた。
さらに「検察官は拷問の事実を見過ごして起訴した点に過失があった」「拙速、粗雑と言われてもやむを得ない事件処理がなされ、裁判官にも過失があった」と司法の責任を次々と認定。「落ち度のない元被告らが被った肉体的、精神的苦痛は甚大」として満額の補償を認めた。
冤罪の認定について、検察官による拷問の事実を見逃したことや、ずさんな事件処理を認めただけでなく、裁判所の責任をも認めている点は注目できる。たぶん、当時の特高警察の取調べや検察、裁判所の「共産主義者」とみなされた人々への偏見が、拷問を容認し、ずさんな取調べを当然のこととしたに違いない。問題は、単なる警察や検察、裁判所の過失といった問題ではなく、むしろ当時の日本の支配的なイデオロギーがもたらした権力犯罪であったという点を見逃してはならない。言い換えれば、天皇主義イデオロギーや反共主義の価値観が、特高警察の特権的な力の行使を正当化し、当時の司法制度の公正な運営を阻害したのである。
治安維持法は過去の悪法だが、しかし、法執行権力の担い手たちが、イデオロギー的な偏見や人種偏見などによって、特定の価値観や文化の担い手に対して非人間的な扱いや精神的拷問を加えたり、法の抜け道を利用して長期の勾留や代用監獄の悪用を繰り返すあり方は、戦前、戦中とどれほど違うものといえるのだろうか?今回の判決は、冤罪が権力の犯罪であるという点を示唆しており、現在係争中の多くの冤罪事件や国家賠償請求裁判にとっても大変意義のあるものだと思う。
本判決は、その理由中で、「横浜事件の歴史的背景事情、後に神奈川県特高による拷問が認定された有罪判決が存在すること、本件の確定判決は終戦直後の混乱期に言い渡されたもので、永久保存されているはずの事件記録が故意に廃棄されたと推認されること」などを認め、無罪判決により名誉回復を図ろうとしている請求人らの心情は理解できるとした上、刑事補償を受け得る可能性の強いこと、その刑事補償の手続の中でも名誉回復を図れることを強く示唆している。かかる意味で、本判決は、小野氏だけでなく、横浜事件のすべての犠牲者に対し、特高警察を含む司法の誤りを実質的に認めたものと評価できる。
横浜事件は、戦前の治安維持法のもと、雑誌『改造』に掲載された細川嘉六の論文が共産主義を扇動する論文であるとみなされ、富山県泊の旅館で雑誌『改造』や『中央公論』の編集者らが集まって共産党再建会議を謀議したなどの容疑に問われた戦時中最大の言論弾圧事件だった。この事件をきっかけに、両雑誌は廃刊に追い込まれた。裁判の判決は、敗戦直後、治安維持法の法的効果が継続していたかどうか微妙な時期に有罪とされた。横浜事件の被告となった中央公論社の編集者だった木村亨は、生前、特高の取調べについて次のように語っていた。
特高警官どもが最初に問いかけてくる言葉は、決まって「おまえは共産主義者だろう」の一句であった。そんなキメつけの言葉に対してぼくは「ちがう、民主主義者だ」と彼らの問いを否認すると、ぼくをとりかこんだ七、八名の特高刑事どもは、手に手に棍棒や椅子のこわれた足だのロープや竹刀などをふりかざして裸のぼくにおそいかかり、なぐる蹴るの暴行を加えた」(『横浜事件、木村亨全発言』、インパクト出版会)
ぼくは幸福にも、戦後生まれとして、自分の思想信条の自由な選択のなかでコミュニストであることを(かなりイレギュラーなコミュニストだが)選び取ったが、木村のこうした体験を読むと、戦時中に果たしてどこまで自分の思想を守り通せただろうかとおもう。拷問の末の自白は、思想信条に生きるジャーナリストや知識人にとってはまさに肉体の死に優るとも劣らない大きな屈辱だったと思う。特高にとっては民主主義者と共産主義者の区別などどうでもよかったに違いないのだが、こうした慢心を当時の日本の国家権力の末端の者たちがなぜ抱くようになったのか、なぜ、適正な法執行のルールによることを容易に放棄してしまったのか、そして、そのことを末端の取調べ官だけでなく、検察も裁判所も見て見ぬふりをすることができてしまったのか。それが権力というものさ、では済まされない問題がここにある。権力は私たちの向こう側にあるのではなく、たぶん、当時の時代状況をふまえれば、こうした権力の逸脱を下支えしたのは、まさに、無名の民衆たちだったのではないか。共産主義者なら拷問にかけ投獄してもよいのだ、という感覚はひとり国家権力の中枢にある者たちだけのものではなかった。そして、この感覚が戦後も形をかえて続くことによって、治安維持法下の冤罪が半世紀も認定されないできたのではないか。
治安維持法下の過酷な拷問と取調べが、こうした社会の「空気」に支えられて、冤罪を生み出した。検挙された当事者は、戦後に冤罪を主張して再三の再申請球を繰り返してきたが、冤罪を裁判所が認定するようになるのは最近になってからだ。
4日の裁判について、東京新聞は次のように報じている。
大島裁判長は、五人を逮捕した当時の神奈川県警察部特別高等課の捜査について「脆弱(ぜいじゃく)な証拠に基づいて検挙。思い込みによる捜査から始まった」と批判。「竹刀で乱打され、靴でけられ、ときにはつるし上げられるなどの暴行を加えられた」と拷問も認めた。
さらに「検察官は拷問の事実を見過ごして起訴した点に過失があった」「拙速、粗雑と言われてもやむを得ない事件処理がなされ、裁判官にも過失があった」と司法の責任を次々と認定。「落ち度のない元被告らが被った肉体的、精神的苦痛は甚大」として満額の補償を認めた。
冤罪の認定について、検察官による拷問の事実を見逃したことや、ずさんな事件処理を認めただけでなく、裁判所の責任をも認めている点は注目できる。たぶん、当時の特高警察の取調べや検察、裁判所の「共産主義者」とみなされた人々への偏見が、拷問を容認し、ずさんな取調べを当然のこととしたに違いない。問題は、単なる警察や検察、裁判所の過失といった問題ではなく、むしろ当時の日本の支配的なイデオロギーがもたらした権力犯罪であったという点を見逃してはならない。言い換えれば、天皇主義イデオロギーや反共主義の価値観が、特高警察の特権的な力の行使を正当化し、当時の司法制度の公正な運営を阻害したのである。
治安維持法は過去の悪法だが、しかし、法執行権力の担い手たちが、イデオロギー的な偏見や人種偏見などによって、特定の価値観や文化の担い手に対して非人間的な扱いや精神的拷問を加えたり、法の抜け道を利用して長期の勾留や代用監獄の悪用を繰り返すあり方は、戦前、戦中とどれほど違うものといえるのだろうか?今回の判決は、冤罪が権力の犯罪であるという点を示唆しており、現在係争中の多くの冤罪事件や国家賠償請求裁判にとっても大変意義のあるものだと思う。
東京新聞は、2月2日づけで、共同通信の記事として次のようの報じている。
昨年12月の米機爆破テロ未遂事件を受け欧米各国が空港への配備を進めている、乗客への「全身透視型スキャナー検査」について日本政府も導入の検討に入ったことが2日、分かった。複数の政府関係者が明らかにした。
全身スキャナーは人間の体を白、それ以外の異物を黒い画像で示し、乗客の衣服の下に隠されたものも探知できる性能を持ち、金属探知機よりも有効とされる。ただ身体的特徴が鮮明に映し出されるためプライバシーの観点から問題が指摘されている。日本政府は米政府や航空会社の意向も聴きながら導入の可否を最終的に判断する方向だ。
関係者によると、日本政府は米機のテロ未遂事件を「新たな脅威」と位置付け、国内の航空保安体制を再確認する作業に着手。1月に内閣官房の呼び掛けで国土交通省、外務省、警察庁などによる事務レベルの会議を2回開催した。
この中で全身スキャナーの海外での運用状況が報告され、日本国内の空港で全身スキャナーを導入する場合の課題や費用、テロ防止の具体的効果について意見交換。今後も関係省庁で協議する。
この報道では、日本政府はまだ最終的な導入を決めてはいないものの、ニュアンスとしては導入の方向で検討をしていることは確実だ。問題は、内閣官房が事務レベルの会議として事実上密室で議論していることだ。プライバシー侵害だけでなく健康被害の問題も指摘されている高額のエックス線を用いたスキャン機器の導入であって、報道にあるように「米機のテロ未遂事件を「新たな脅威」と位置付け」て、導入の理由付けにするというのであれば、これは、日本ではまったく無意味なことだ。そもそも、オバマ自身が昨年暮に述べているように、米機のテロ未遂は、米国の諜報機関による組織的な対応ミスに直接の原因がある。(根本的な原因は、「テロとの戦争」そのものにあることは今は問わない)このミスに対応した対処には、米国の諜報機関や治安関連機関相互の組織のあり方を見直すというかなり面倒な制度改革を避けることはできないが、それよりもオバマは、具体的に有権者が実感できるような「テロ対策をちゃんとやっている」感覚に訴えることで政権の力を見せつけるというとんでもない間違った選択をしてしまった。全身盗撮装置を大量に米国のすべての空港に配備し、さらに世界中の空港に配備するように各国政府に圧力をかけるといった米国政府の態度は、パラノイアとしか言いようがない。
パラノイアというのは、膨大な数の盗撮装置を導入することそのものを指しているのではない。そうではなくて、このような態度の背景にある米国やこれに同伴する政府が抱く「恐れ」そのものである。彼らは、事実上世界中の大半の人々をテロリストとなる可能性を秘めた人間だとみなしており、同時に、この「テロリスト」を説得して民主主義やら自由やらの正当性や、米国の言うところの「正義」を納得させる自信もないというところに発するものだ、フーコーならさしずめ、権力にとって不可欠な「生政治」そのものの破綻というかもしれないような、権力が身体に浸透できないシステムの破綻がもたらしている「恐れ」である。米国政府も日本政府も、ともに不幸なのは、こうした自らの権力の壊死の現れが「テロと戦争」というパラノイアを引き起こしているということを自覚できていないことだろう。
さきに出された空港での全身透視スキャナー導入に反対しますの声明でも指摘されているように、全身盗撮装置は、技術的な意味においても政治的な意味においてもテロ対策にはならない。むしろ膨大な数の人々の裸体のデータベースを政府が管理し(たぶん、米国政府も共有するのだろう)、さらにこうした裸データと他の個人情報とを名寄せした不愉快な個人データファイルが蓄積されていくのだろう。
911以降のアフガン、イラク戦争へのコミットに典型なように、日本政府は未だに派兵の誤りをきちんと再検証できていない。日本政府は「テロ対策」と米国からの圧力に関しては、伝統的に思考停止に陥ってしまう。何はともあれ米国に追従することでやっかいな外交上の摩擦を回避しようとし、その結果として、日本はますます世界から孤立し、よりやっかいな外交上の立場にはまり込む。日本を訪問する多くの非西欧世界の人々をあたかもテロリストであるかのうように処遇する盗撮装置の導入は、その結果として、世界の大半(人口の大半は非西欧世界に住んでいるわけで)の人々に対して、ますます日本への敵意や猜疑心を煽ることになりはしないか?それとも、盗撮装置を大歓迎するような搭乗客がいるとでもいうのか?その反面、こうした日本への非西欧世界からの不安は、逆に日本国内のナショナリズムや排外主義、武力による威嚇の世論を醸成してしまう。監視強化は、テロ対策ではなく、単に武力による報復の連鎖を生み出すだけだ。
昨年12月の米機爆破テロ未遂事件を受け欧米各国が空港への配備を進めている、乗客への「全身透視型スキャナー検査」について日本政府も導入の検討に入ったことが2日、分かった。複数の政府関係者が明らかにした。
全身スキャナーは人間の体を白、それ以外の異物を黒い画像で示し、乗客の衣服の下に隠されたものも探知できる性能を持ち、金属探知機よりも有効とされる。ただ身体的特徴が鮮明に映し出されるためプライバシーの観点から問題が指摘されている。日本政府は米政府や航空会社の意向も聴きながら導入の可否を最終的に判断する方向だ。
関係者によると、日本政府は米機のテロ未遂事件を「新たな脅威」と位置付け、国内の航空保安体制を再確認する作業に着手。1月に内閣官房の呼び掛けで国土交通省、外務省、警察庁などによる事務レベルの会議を2回開催した。
この中で全身スキャナーの海外での運用状況が報告され、日本国内の空港で全身スキャナーを導入する場合の課題や費用、テロ防止の具体的効果について意見交換。今後も関係省庁で協議する。
この報道では、日本政府はまだ最終的な導入を決めてはいないものの、ニュアンスとしては導入の方向で検討をしていることは確実だ。問題は、内閣官房が事務レベルの会議として事実上密室で議論していることだ。プライバシー侵害だけでなく健康被害の問題も指摘されている高額のエックス線を用いたスキャン機器の導入であって、報道にあるように「米機のテロ未遂事件を「新たな脅威」と位置付け」て、導入の理由付けにするというのであれば、これは、日本ではまったく無意味なことだ。そもそも、オバマ自身が昨年暮に述べているように、米機のテロ未遂は、米国の諜報機関による組織的な対応ミスに直接の原因がある。(根本的な原因は、「テロとの戦争」そのものにあることは今は問わない)このミスに対応した対処には、米国の諜報機関や治安関連機関相互の組織のあり方を見直すというかなり面倒な制度改革を避けることはできないが、それよりもオバマは、具体的に有権者が実感できるような「テロ対策をちゃんとやっている」感覚に訴えることで政権の力を見せつけるというとんでもない間違った選択をしてしまった。全身盗撮装置を大量に米国のすべての空港に配備し、さらに世界中の空港に配備するように各国政府に圧力をかけるといった米国政府の態度は、パラノイアとしか言いようがない。
パラノイアというのは、膨大な数の盗撮装置を導入することそのものを指しているのではない。そうではなくて、このような態度の背景にある米国やこれに同伴する政府が抱く「恐れ」そのものである。彼らは、事実上世界中の大半の人々をテロリストとなる可能性を秘めた人間だとみなしており、同時に、この「テロリスト」を説得して民主主義やら自由やらの正当性や、米国の言うところの「正義」を納得させる自信もないというところに発するものだ、フーコーならさしずめ、権力にとって不可欠な「生政治」そのものの破綻というかもしれないような、権力が身体に浸透できないシステムの破綻がもたらしている「恐れ」である。米国政府も日本政府も、ともに不幸なのは、こうした自らの権力の壊死の現れが「テロと戦争」というパラノイアを引き起こしているということを自覚できていないことだろう。
さきに出された空港での全身透視スキャナー導入に反対しますの声明でも指摘されているように、全身盗撮装置は、技術的な意味においても政治的な意味においてもテロ対策にはならない。むしろ膨大な数の人々の裸体のデータベースを政府が管理し(たぶん、米国政府も共有するのだろう)、さらにこうした裸データと他の個人情報とを名寄せした不愉快な個人データファイルが蓄積されていくのだろう。
911以降のアフガン、イラク戦争へのコミットに典型なように、日本政府は未だに派兵の誤りをきちんと再検証できていない。日本政府は「テロ対策」と米国からの圧力に関しては、伝統的に思考停止に陥ってしまう。何はともあれ米国に追従することでやっかいな外交上の摩擦を回避しようとし、その結果として、日本はますます世界から孤立し、よりやっかいな外交上の立場にはまり込む。日本を訪問する多くの非西欧世界の人々をあたかもテロリストであるかのうように処遇する盗撮装置の導入は、その結果として、世界の大半(人口の大半は非西欧世界に住んでいるわけで)の人々に対して、ますます日本への敵意や猜疑心を煽ることになりはしないか?それとも、盗撮装置を大歓迎するような搭乗客がいるとでもいうのか?その反面、こうした日本への非西欧世界からの不安は、逆に日本国内のナショナリズムや排外主義、武力による威嚇の世論を醸成してしまう。監視強化は、テロ対策ではなく、単に武力による報復の連鎖を生み出すだけだ。
盗聴法廃止を求める共同声明運動がスタートした。団体署名運動で、長期間継続する。
盗聴捜査の実態はあまりよくわかっていない。(ここも参照)概要のみが公表されるだけだ。他方で、盗聴捜査は、おとり捜査などその他の人権侵害の危険性がある捜査手法とセットになって、「組織犯罪」の取り締まりに不可欠な手段だとして折りあるごとに強調されてきた。たとえば、2008年の犯罪対策閣僚会議「新たな行動計画策定に関する有識者ヒアリング」
でも、日弁連の三井義廣、民事介入暴力対策委員長は「暴力団だけを対象に、通信傍受、おとり捜査、刑事免責制度、独禁法の課徴金減免制度のような手法、口座を常に把握する制度等を考えてはどうか。」と発言するなど、弁護士サイドからの盗聴捜査の拡大が主張されるような環境がある。(第五回ヒヤリング)
他方で、国家安全保障の分野でも、通信衛星の盗聴研究が示唆されるケースもでてきている。宇宙基本法の制定を背景に「宇宙アセットの利用・研究(衛星等による監視、早期警戒、通信・傍受、そのための研究開発)」が公然と指摘されるようになっている。(安全保障と防衛力に関する懇談会、宇宙基本法への批判は、ここを参照)盗聴法それじたいは司法警察分野の問題だが、軍事安全保障分野の盗聴では、米国に注目が集まるが、日本の動きにも注目しておく必要がある。
プライバシーを侵害し、表現の自由を規制する盗聴法の廃止を求める市民団体共同声明
2010年2月1日
呼びかけ団体(2010年2月1日現在、10団体 50音順)
「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)
盗聴法廃止!ネットワーク
盗聴法(組対法)に反対する市民連絡会
盗聴法(組織的犯罪対策立法)に反対する神奈川市民の会
日本消費者連盟
ネットワーク反監視プロジェクト
反住基ネット連絡会
ふぇみん婦人民主クラブ
ピープルズ・プラン研究所
許すな!憲法改悪・市民連絡会
私たちは、民主党・社民党・国民新党の連立政権に、プライバシーを侵害し、言論・表現の自由を規制する盗聴法(正式名称は「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」)の廃止を求めます。
盗聴法は、1999年、国会議員、市民、法律家、表現者、労働組合などの強い反対の声を押しきって、辛うじて成立した法律です。その反対の声の強さは、法制定後も衰えることはありませんでした。直ちに盗聴法廃止運動が起こり、国会では盗聴法廃止法案が衆参で民主、社民、共産党、無所属の議員の手により計11回も提出されました。これは法律がつくられても、それが違憲の悪法ならば廃止されなくてはならないという議員、市民の思いの強さによるものにほかなりません。
2009年夏の衆議院選挙でついに盗聴法に反対した野党による政権交代が実現しました。今こそ、盗聴法廃止を達成するときだと、私たちは強く期待しています。
電話、携帯電話、電子メールなどは市民生活にとって必要不可欠な通信手段となっています。これらを通じて膨大な個人情報が流れています。その通信の内容が第三者に知られないことが通信手段の根幹です。憲法は21条で「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と政府の盗聴を禁止しています。これは、戦前・戦中の治安維持法下においては戦争遂行のために市民の言論・表現の自由、通信の秘密が否定、侵害された苦い体験を踏まえ、憲法が市民の表現の自由と一体のものとして、通信の秘密を保障したものです。盗聴法は、この憲法の保障する通信の秘密を侵害するものです。
1986年、警察が違憲・違法な盗聴を組織的にくり返しおこなってきたことが、衝撃的な形で明らかになりました。それが当時、日本共産党国際部長を務めていた緒方靖夫(元参議院議員)宅盗聴事件です。この事件の民事裁判で東京地裁も高裁も、緒方宅盗聴が警察による組織的行為であることを認め、国に賠償を命ずる判決をだしました。しかし、警察は反省するどころか、今も盗聴をしたことはないと居直り続けています。
盗聴法制定時の政府は、「盗聴法は暴力団などの組織的犯罪対策に必要」と称していましたが、実は盗聴法の適用要件を「組織的犯罪」と限定しておらず、「数人による共謀」があればよいとしています。「数人」とは、日本の判例では二人以上を指します。これでは友人間の盗聴も可能になります。しかも犯罪に関係するものかどうかの判断は全ての通信・会話を見るなり、聞くなりしてみなければ分かりません。このように盗聴法は全ての通信・会話が盗聴可能であることを前提としている法律です。
盗聴法は、世論の強い反対の前に捜査当局にとって使いにくい形で制定されましたが、以来10年、盗聴法の適用件数は増え続け、そのうち犯罪と無関係な通信・会話の盗聴の率は2008年には全体の87パーセントにのぼっています。さらに警察などの捜査機関は、機会あるごとに盗聴範囲拡大・権限強化をはかりたい旨の発言を繰り返しています。私たちは、市民の表現の自由、人権とプライバシーが保障される社会こそ民主主義を健全に
発展させることができると考えています。連立政権が盗聴法廃止へ一日も早く踏み出すことを強く求めます。
★賛同のお願い★
上記の声明にご賛同いただける団体は、下記内容を新規メールにコピーして、
必要事項を記入の上、info1@anti-tochoho.orgまでお送り下さい。
■盗聴法の廃止を求めるの市民団体共同声明に賛同します。
◇団体名
◇住所
◇電話番号
◇FAX番号
◇メールアドレス
※団体名以外は公表いたしません。
★集約先及び事務局
盗聴法に反対する市民連絡会
〒169-0051新宿区西早稲田1-9-19-207日本消費者連盟気付
TEL 03-5155-4765
FAX 03-5155-4767
info1(a)anti-tochoho.org
(a)を@に替えてください。
http://www.anti-tochoho.org/
★賛同締切
第1次:2010年2月28日 第2次:2010年5月31日 第三次:2010年7月31日
賛同の募集は盗聴法廃止まで継続します。
★活用方法
市民団体共同声明は、呼びかけ団体・賛同団体一覧としてマスコミ、国会などで広
く公表します。
また、ウェブサイト
http://www.anti-tochoho.org/
で公表します。
盗聴法の内容、問題点などについて知りたい方は、上記ウェブサイト
http://www.anti-tochoho.org/
をご覧下さい。
★市民団体共同声明賛同団体の情報の取り扱いについて
【利用目的】
盗聴法(組対法)に反対する市民連絡会の主催で行われる集会等のご案内の送付・送信と、それに関わる連絡業務
盗聴法(組対法)に反対する市民連絡会発行の通信の送付と、それに関わる連絡業務
盗聴法(組対法)に反対する市民連絡会へのカンパ・寄付等のお願いの送付と、それに関わる連絡業務
【第三者提供】
この賛同用紙に記入された個人情報を盗聴法(組対法)に反対する市民連絡会以外の第三者に提供することは一切ございません。
盗聴捜査の実態はあまりよくわかっていない。(ここも参照)概要のみが公表されるだけだ。他方で、盗聴捜査は、おとり捜査などその他の人権侵害の危険性がある捜査手法とセットになって、「組織犯罪」の取り締まりに不可欠な手段だとして折りあるごとに強調されてきた。たとえば、2008年の犯罪対策閣僚会議「新たな行動計画策定に関する有識者ヒアリング」
でも、日弁連の三井義廣、民事介入暴力対策委員長は「暴力団だけを対象に、通信傍受、おとり捜査、刑事免責制度、独禁法の課徴金減免制度のような手法、口座を常に把握する制度等を考えてはどうか。」と発言するなど、弁護士サイドからの盗聴捜査の拡大が主張されるような環境がある。(第五回ヒヤリング)
他方で、国家安全保障の分野でも、通信衛星の盗聴研究が示唆されるケースもでてきている。宇宙基本法の制定を背景に「宇宙アセットの利用・研究(衛星等による監視、早期警戒、通信・傍受、そのための研究開発)」が公然と指摘されるようになっている。(安全保障と防衛力に関する懇談会、宇宙基本法への批判は、ここを参照)盗聴法それじたいは司法警察分野の問題だが、軍事安全保障分野の盗聴では、米国に注目が集まるが、日本の動きにも注目しておく必要がある。
プライバシーを侵害し、表現の自由を規制する盗聴法の廃止を求める市民団体共同声明
2010年2月1日
呼びかけ団体(2010年2月1日現在、10団体 50音順)
「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)
盗聴法廃止!ネットワーク
盗聴法(組対法)に反対する市民連絡会
盗聴法(組織的犯罪対策立法)に反対する神奈川市民の会
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ふぇみん婦人民主クラブ
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許すな!憲法改悪・市民連絡会
私たちは、民主党・社民党・国民新党の連立政権に、プライバシーを侵害し、言論・表現の自由を規制する盗聴法(正式名称は「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」)の廃止を求めます。
盗聴法は、1999年、国会議員、市民、法律家、表現者、労働組合などの強い反対の声を押しきって、辛うじて成立した法律です。その反対の声の強さは、法制定後も衰えることはありませんでした。直ちに盗聴法廃止運動が起こり、国会では盗聴法廃止法案が衆参で民主、社民、共産党、無所属の議員の手により計11回も提出されました。これは法律がつくられても、それが違憲の悪法ならば廃止されなくてはならないという議員、市民の思いの強さによるものにほかなりません。
2009年夏の衆議院選挙でついに盗聴法に反対した野党による政権交代が実現しました。今こそ、盗聴法廃止を達成するときだと、私たちは強く期待しています。
電話、携帯電話、電子メールなどは市民生活にとって必要不可欠な通信手段となっています。これらを通じて膨大な個人情報が流れています。その通信の内容が第三者に知られないことが通信手段の根幹です。憲法は21条で「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と政府の盗聴を禁止しています。これは、戦前・戦中の治安維持法下においては戦争遂行のために市民の言論・表現の自由、通信の秘密が否定、侵害された苦い体験を踏まえ、憲法が市民の表現の自由と一体のものとして、通信の秘密を保障したものです。盗聴法は、この憲法の保障する通信の秘密を侵害するものです。
1986年、警察が違憲・違法な盗聴を組織的にくり返しおこなってきたことが、衝撃的な形で明らかになりました。それが当時、日本共産党国際部長を務めていた緒方靖夫(元参議院議員)宅盗聴事件です。この事件の民事裁判で東京地裁も高裁も、緒方宅盗聴が警察による組織的行為であることを認め、国に賠償を命ずる判決をだしました。しかし、警察は反省するどころか、今も盗聴をしたことはないと居直り続けています。
盗聴法制定時の政府は、「盗聴法は暴力団などの組織的犯罪対策に必要」と称していましたが、実は盗聴法の適用要件を「組織的犯罪」と限定しておらず、「数人による共謀」があればよいとしています。「数人」とは、日本の判例では二人以上を指します。これでは友人間の盗聴も可能になります。しかも犯罪に関係するものかどうかの判断は全ての通信・会話を見るなり、聞くなりしてみなければ分かりません。このように盗聴法は全ての通信・会話が盗聴可能であることを前提としている法律です。
盗聴法は、世論の強い反対の前に捜査当局にとって使いにくい形で制定されましたが、以来10年、盗聴法の適用件数は増え続け、そのうち犯罪と無関係な通信・会話の盗聴の率は2008年には全体の87パーセントにのぼっています。さらに警察などの捜査機関は、機会あるごとに盗聴範囲拡大・権限強化をはかりたい旨の発言を繰り返しています。私たちは、市民の表現の自由、人権とプライバシーが保障される社会こそ民主主義を健全に
発展させることができると考えています。連立政権が盗聴法廃止へ一日も早く踏み出すことを強く求めます。
★賛同のお願い★
上記の声明にご賛同いただける団体は、下記内容を新規メールにコピーして、
必要事項を記入の上、info1@anti-tochoho.orgまでお送り下さい。
■盗聴法の廃止を求めるの市民団体共同声明に賛同します。
◇団体名
◇住所
◇電話番号
◇FAX番号
◇メールアドレス
※団体名以外は公表いたしません。
★集約先及び事務局
盗聴法に反対する市民連絡会
〒169-0051新宿区西早稲田1-9-19-207日本消費者連盟気付
TEL 03-5155-4765
FAX 03-5155-4767
info1(a)anti-tochoho.org
(a)を@に替えてください。
http://www.anti-tochoho.org/
★賛同締切
第1次:2010年2月28日 第2次:2010年5月31日 第三次:2010年7月31日
賛同の募集は盗聴法廃止まで継続します。
★活用方法
市民団体共同声明は、呼びかけ団体・賛同団体一覧としてマスコミ、国会などで広
く公表します。
また、ウェブサイト
http://www.anti-tochoho.org/
で公表します。
盗聴法の内容、問題点などについて知りたい方は、上記ウェブサイト
http://www.anti-tochoho.org/
をご覧下さい。
★市民団体共同声明賛同団体の情報の取り扱いについて
【利用目的】
盗聴法(組対法)に反対する市民連絡会の主催で行われる集会等のご案内の送付・送信と、それに関わる連絡業務
盗聴法(組対法)に反対する市民連絡会発行の通信の送付と、それに関わる連絡業務
盗聴法(組対法)に反対する市民連絡会へのカンパ・寄付等のお願いの送付と、それに関わる連絡業務
【第三者提供】
この賛同用紙に記入された個人情報を盗聴法(組対法)に反対する市民連絡会以外の第三者に提供することは一切ございません。
今年は朝鮮半島植民地化から100年の年である。100年という月日は、併合された朝鮮半島の人々にとっては決して短くないし、忘れられるような出来事でもないが、逆にこの日本では、この100年の近代史を植民地支配の負の歴史として記憶にとどめようとする努力をむしろ退けようとする力が優っているように見える。負の歴史から目を逸らすことなく、この歴史意識の落差を埋めない限り東アジアの平和も安定もありえないし、日本はますます孤立するに違いないと思う。日米同盟に拘泥するよりも、アジアの民衆が「日本の歴史」をどのように生きてきたのかを知ることだ。
天皇制の植民地支配責任を追及する 訪韓で幕引きをさせない!2.11反「紀元節」行動
日時■2010年2月11日(木・休)
デモ■午後4時 西神田公園(JR水道橋・地下鉄神保町駅 徒歩5分)
集会■午後6時開場 文京区民センター2A(JR地下鉄春日すぐ)
お話■吉澤文寿さん(日韓会談文書・全面公開を求める会共同代表)
主催■2.11反「紀元節」行動 (090-3438-0263)
呼びかけ■アジア連帯講座/国連・憲法問題研究会/立川自衛隊監視テント村/反天
皇制運動連絡会/「日の丸・君が代」強制反対の意思表示の会/連帯社/労働運動活
動者評議会
「天皇即位20年」の年であった昨年の末、「ルール」を無視した小沢民主党幹事
長の「ごり押し」で、天皇と中国の国家副主席との会見が行われたとして、「天皇の
政治利用反対」の声が上がった。しかし、いわゆる「皇室外交」そのものが違憲なの
だ。われわれは、天皇の「政治利用反対」ではなく、「公的行為」とされる天皇の行
為のすべてが、憲法上も許されないということを、はっきりと言っていかなければな
らない。同時に、そうした天皇の行為が、つねに政治権力の必要に応じて繰り返され、
天皇一族もまたそれに応えていくことを自らの役割としてきたことを具体的に批判し
ていかなくてはならない。
その小沢は、天皇の訪韓についても「韓国の皆さんが受け入れ、歓迎してくださる
なら結構なことだ」などと述べている。今年は「韓国併合」から100年にあたる。
「過去清算」を求める立場から天皇訪韓を求める声が、「リベラル派」の中からもあ
がっている。しかしそれは、天皇の「外交元首」化=政治的権能の強化の論理にほか
ならない。戦争責任をとらないまま連続してきた天皇という地位をそのままにして、
なんらかの「遺憾の意」を示すことなど、まったく「謝罪」にはならないのだ。それ
はむしろ、「アジアシフト」を強めていくために、植民地支配責任や戦争責任の「幕
引き」を図る政府・財界の志向に沿ったものとなるだろう。日本政府の公式な謝罪と
被害当事者への補償、誤った歴史認識を正していくことこそが追求されなければなら
ない。
わたしたちは、「韓国併合」を大きな柱の一つとしてもつ天皇制国家日本の植民地
支配・侵略戦争の責任を問い続け、継続する植民地主義と排外主義に反対していくた
めの行動を呼びかけていきたい。その一歩として、天皇神話に基づく建国神話の記念
日に抗議するデモと集会に取り組む。2・11反「紀元節」行動への多くの参加を!
天皇制の植民地支配責任を追及する 訪韓で幕引きをさせない!2.11反「紀元節」行動
日時■2010年2月11日(木・休)
デモ■午後4時 西神田公園(JR水道橋・地下鉄神保町駅 徒歩5分)
集会■午後6時開場 文京区民センター2A(JR地下鉄春日すぐ)
お話■吉澤文寿さん(日韓会談文書・全面公開を求める会共同代表)
主催■2.11反「紀元節」行動 (090-3438-0263)
呼びかけ■アジア連帯講座/国連・憲法問題研究会/立川自衛隊監視テント村/反天
皇制運動連絡会/「日の丸・君が代」強制反対の意思表示の会/連帯社/労働運動活
動者評議会
「天皇即位20年」の年であった昨年の末、「ルール」を無視した小沢民主党幹事
長の「ごり押し」で、天皇と中国の国家副主席との会見が行われたとして、「天皇の
政治利用反対」の声が上がった。しかし、いわゆる「皇室外交」そのものが違憲なの
だ。われわれは、天皇の「政治利用反対」ではなく、「公的行為」とされる天皇の行
為のすべてが、憲法上も許されないということを、はっきりと言っていかなければな
らない。同時に、そうした天皇の行為が、つねに政治権力の必要に応じて繰り返され、
天皇一族もまたそれに応えていくことを自らの役割としてきたことを具体的に批判し
ていかなくてはならない。
その小沢は、天皇の訪韓についても「韓国の皆さんが受け入れ、歓迎してくださる
なら結構なことだ」などと述べている。今年は「韓国併合」から100年にあたる。
「過去清算」を求める立場から天皇訪韓を求める声が、「リベラル派」の中からもあ
がっている。しかしそれは、天皇の「外交元首」化=政治的権能の強化の論理にほか
ならない。戦争責任をとらないまま連続してきた天皇という地位をそのままにして、
なんらかの「遺憾の意」を示すことなど、まったく「謝罪」にはならないのだ。それ
はむしろ、「アジアシフト」を強めていくために、植民地支配責任や戦争責任の「幕
引き」を図る政府・財界の志向に沿ったものとなるだろう。日本政府の公式な謝罪と
被害当事者への補償、誤った歴史認識を正していくことこそが追求されなければなら
ない。
わたしたちは、「韓国併合」を大きな柱の一つとしてもつ天皇制国家日本の植民地
支配・侵略戦争の責任を問い続け、継続する植民地主義と排外主義に反対していくた
めの行動を呼びかけていきたい。その一歩として、天皇神話に基づく建国神話の記念
日に抗議するデモと集会に取り組む。2・11反「紀元節」行動への多くの参加を!
30日に東京の日比谷公園で普天間基地の閉鎖と新基地建設に反対するデモが行われた。(写真は辺野古通信のサイトから)

参加者は、6000名。首都圏で開催された普天間米軍基地関連の基地反対デモとしては最大規模だろう。昨年11月沖縄で開催された集会には2万人以上が参加しているから、まだまだだ。集会とデモをよびかけたフォーラム平和・人権・環境(平和フォーラム)は、呼びかけ文のなかで、次のように呼びかけた。
鳩山内閣の移設先の見直し表明に対して、米国政府からは恫喝のような圧力がかかっています。またマスコミ各社は日米同盟堅持のためには辺野古新基地建設推進の報道を繰り返し、外務省・防衛省の官僚による巻き返しも図られています。
私たちは、私たちの力で実現した移設先の見直しを鳩山内閣に実行させるとともに、普天間基地の閉鎖と新基地建設の阻止を実現しなければなりません。そのためには、米国政府の圧力に負けない、またマスコミ各社のキャンペーンに負けない市民の声と、その声を作りだすための大衆的な行動が必要です。
日比谷の集会とデモについてのマスコミ報道をネットで拾うと文末にあるとおり。琉球新報が圧倒的に詳細に報じており、集会決議の要旨まで掲載している。沖縄タイムスの報道がこれに続いている。「毎日」のようにまったく報道がないのは論外として、大方がベタ記事かかなり小さな扱いでしかない。沖縄の地元紙は、いずれも記事のタイトルからわかるように、基地反対の大衆的な「声」の現れとして扱っている。他方で、東京のマスメディアは共同通信を除いてすべて福島社民党党首の集会参加にのみ関心を示しているといっていい報じ方だ。政治は、政権政党が動かすものであって、なんの力もない庶民は「その他大勢」でしかないというマスメディアの権力観がはっきりと見える。沖縄のメディアは、政治は政治家や政権政党によって動くだけではなく、大衆運動が政治を動かすことがあるということがわかっている。それは戦後の沖縄の米軍統治への民衆の闘争から「復帰」以降の日米政府による沖縄支配に繰り返し沖縄の民衆が抵抗してきた歴史があるからだ。辺野古の基地建設が頓挫しているのは、政治の力というよりも、現地で闘われている基地を阻止する闘争の継続力だ。(辺野古通信参照)
沖縄現地と東京のこの温度差をぼくはマスメディアの不作為だとは思わない。沖縄現地がどのような状況なのかを知った上で、米軍基地問題を、大衆的な反基地運動につながるような方向にならないような記事の扱いにするある種の「力」を感じざるを得ない。日米政府が本当に危惧しているのは、普天間基地の問題がこじれることによって、基地の是非をめぐる問題が、普天間から沖縄の基地全体に、さらに日本中の、とりわけ首都圏にある米軍基地(これこそが日米同盟の軍事的中枢を構成しているわけだが)への地元の拒否を加速化し、米軍基地全体の日本における立地そのものが危機に陥ることへとつながることだろう。米軍基地をかかえる現地では、積極的な受け入れよりも金と政治の力によって「しかたがない」事柄として受け止められてきたわけで、基地の廃止へと世論が大きく向かう可能性はいつでも存在する。このことを一番よく知っているのは米国政府だ。だから、基地問題を政府間協議とし、地元を押さえつける役割を日本政府に押し付け、これを日本政府が受け入れるというやり方に固執してきた。この問題解決の権力構造が今揺らいでいることだけは確かだ。半世紀たっても地元のリスペクトを得られない米軍基地。そのこと自体が基地が地元の人々になにをもたらしてきたのかを何よりもよく証明しているのではないか。この当たり前のことをマスメディアは直視できない。
この四半世紀、マスメディアはほとんど重要な地域の課題を住民や市民の運動との関わりのなかで報道することをしなくなった。マスメディアは、与党や議会の動向にしか関心をもたないようになった。政府も、政治的な課題は議会政治の枠組みのなかで解決すべき問題であるという問題解決の枠組みを作り、マスメディアをこの枠組みのなかに取り込んで、大衆運動を過小評価させて報道の価値がないものにすることに成功してきた。マスメディアの態度は、政治における真実は権力者のことばのなかに宿っており、大衆(メディアの読者でもあるのだが)は取材する価値のない非力な存在としかみていない。こうしてマスメディアは知らず知らずのうちに権力の走狗になる。記者クラブ制度で情報源を独占し、スポンサーの金(そのなかには、地方、中央政府公報の資金も含まれる)に依存するマスメディアが、メディアとしての正当性を読者に信用させられるような前提をメディア自らが掘り崩し、墓穴を掘ってきたのではないか。
31日午後6時現在(数字は、記事本文の字数)
琉球新報2180
基地ノー”銀座埋め「米国にお引き取りを」 辺野古新基地反対集会
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100131-00000004-ryu-oki
辺野古新基地に反対 東京で全国集会 6000人が決議採択
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156599-storytopic-53.html
沖縄タイムス 583
「民意聞け」 6000人の声 普天間移設 東京で集会
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-01-31_2394
47ニュース(共同通信)384
普天間撤去を、東京で集会 沖縄の市民ら約6千人
http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010013001000389.html
サンケイ 363
辺野古「社民党が許さない」福島氏が強調
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100130/stt1001301855002-n1.htm
朝日 344
辺野古移設反対、東京・日比谷で集会 福島党首ら参加
http://www.asahi.com/national/update/0130/TKY201001300271.html
時事通信 287
辺野古「社民が許さぬ」=福島氏
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010013000266
日経 261
普天間基地の辺野古移設、福島氏「社民が許さぬ」
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20100130ATFS3001030012010.html
読売 190
福島・社民党首、辺野古移設「許さない」
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100130-OYT1T00742.htm
毎日 なし
◆普天間全国集会決議(要旨)琉球新報より
1996年日米両政府は普天間基地の全面返還で合意した。5年前には隣接する沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した。現在も米軍ヘリが頻繁に飛び交う普天間基地は一刻も早く無条件に返還されるべきだ。
しかし13年たった今も返還は実現していない。理由は、返還の見返りに米国は辺野古新基地建設を要求し、日本政府もそれを容認してきたからにほかならない。背景には新基地建設に絡み1兆円ともいわれる建設事業の利権が見え隠れする。
新基地建設で沖縄は豊かになるどころか、危険と生活破壊を増幅し、ジュゴンが生息するたぐいまれなる自然環境を失うことになる。
辺野古がある名護市民は市長選挙で新基地建設に反対の立場を明確にした。全国の市民、労働者はこの民意を守るために闘わなければならない。
日米安保50年、冷戦終結20年を迎える今日、米軍再編が進む中、旧来の核・軍事力を背景とした抑止力に頼る安全保障のあり方が根本的に問われている。日米地位協定や思いやり予算の根本的な見直し、米軍被害の徹底検証も取り組まなければならない。安全保障に特化した日米関係を見直し、鳩山連立政権の東アジアの平和と共生に向けた基本政策を強めるべきだ。
普天間返還、辺野古・新基地建設反対、沖縄をはじめとする全国の米軍基地の整理・撤去に向けより大きな闘いを目指そう。右決議する。
以下は、ネットでの集会呼びかけ文
===================
普天間基地いらない!新基地建設許さない!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
全国から日比谷公園・野音に1万人集まろう!
===================
沖縄から100名ほど参加予定!辺野古・高江も
【名称】普天間基地はいらない 辺野古・新基地建設を許さない1・30全国集会
― チェンジ! 日米関係 ―
【日時】2010年1月30日(土)14:00〜15:30(予定)
※集会終了後に銀座・東京駅方向に向けてデモ行進
【会場】日比谷公園・野外大音楽堂(千代田区日比谷公園1−3)
最寄り駅:地下鉄「霞ヶ関」駅「日比谷」駅「内幸町」駅
http://hibiya-kokaido.com/access%20map0802.pdf
【内容】方針提起・沖縄からの情勢報告・国会情勢報告・参加団体のアピール
【主催】1・30全国集会実行委員会
問い合わせ:フォーラム平和・人権・環境(電話03-5289-8222)
★チラシを印刷できます。
http://www.peace-forum.com/mnforce/2009/01senden/okinawa02-01.pdf
1月24日の沖縄・名護市長選挙で、辺野古への新基地建設反対の市長が誕生しま
した。
辺野古新基地建設の是非について、住民投票以来の民意を示す結果となったので
す。
しかし、翌日以降、平野官房長官が、名護市長選挙の結果を「斟酌(しんしゃく)
しなければならないという理由はない」、地元自治体の合意がなくても「法律的
にやれる場合もある」などと暴言を吐き続け、撤回も謝罪もしないでいます。
平野暴言によって名護市長選の民意をつぶさせず、普天間基地の即時閉鎖と辺野
古新基地建設の断念を求めることを沖縄とともに全国から政府へ意思表示するこ
とがすごく重要なときとなりました。
明日1月30日には、労働組合や市民団体が沖縄をはじめ全国から結集して、集会
デモをおこないます。
大結集が政府へ強く迫ることになり、沖縄への激励ともなります。ぜひ声をかけ
あって参加してください。
*************************
辺野古への基地建設を許さない実行委員会
http://www.jca.apc.org/HHK/NoNewBases/NNBJ.html
電話090-3910-4140(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック)
FAX03-5275-5989(市民のひろば)
*************************

参加者は、6000名。首都圏で開催された普天間米軍基地関連の基地反対デモとしては最大規模だろう。昨年11月沖縄で開催された集会には2万人以上が参加しているから、まだまだだ。集会とデモをよびかけたフォーラム平和・人権・環境(平和フォーラム)は、呼びかけ文のなかで、次のように呼びかけた。
鳩山内閣の移設先の見直し表明に対して、米国政府からは恫喝のような圧力がかかっています。またマスコミ各社は日米同盟堅持のためには辺野古新基地建設推進の報道を繰り返し、外務省・防衛省の官僚による巻き返しも図られています。
私たちは、私たちの力で実現した移設先の見直しを鳩山内閣に実行させるとともに、普天間基地の閉鎖と新基地建設の阻止を実現しなければなりません。そのためには、米国政府の圧力に負けない、またマスコミ各社のキャンペーンに負けない市民の声と、その声を作りだすための大衆的な行動が必要です。
日比谷の集会とデモについてのマスコミ報道をネットで拾うと文末にあるとおり。琉球新報が圧倒的に詳細に報じており、集会決議の要旨まで掲載している。沖縄タイムスの報道がこれに続いている。「毎日」のようにまったく報道がないのは論外として、大方がベタ記事かかなり小さな扱いでしかない。沖縄の地元紙は、いずれも記事のタイトルからわかるように、基地反対の大衆的な「声」の現れとして扱っている。他方で、東京のマスメディアは共同通信を除いてすべて福島社民党党首の集会参加にのみ関心を示しているといっていい報じ方だ。政治は、政権政党が動かすものであって、なんの力もない庶民は「その他大勢」でしかないというマスメディアの権力観がはっきりと見える。沖縄のメディアは、政治は政治家や政権政党によって動くだけではなく、大衆運動が政治を動かすことがあるということがわかっている。それは戦後の沖縄の米軍統治への民衆の闘争から「復帰」以降の日米政府による沖縄支配に繰り返し沖縄の民衆が抵抗してきた歴史があるからだ。辺野古の基地建設が頓挫しているのは、政治の力というよりも、現地で闘われている基地を阻止する闘争の継続力だ。(辺野古通信参照)
沖縄現地と東京のこの温度差をぼくはマスメディアの不作為だとは思わない。沖縄現地がどのような状況なのかを知った上で、米軍基地問題を、大衆的な反基地運動につながるような方向にならないような記事の扱いにするある種の「力」を感じざるを得ない。日米政府が本当に危惧しているのは、普天間基地の問題がこじれることによって、基地の是非をめぐる問題が、普天間から沖縄の基地全体に、さらに日本中の、とりわけ首都圏にある米軍基地(これこそが日米同盟の軍事的中枢を構成しているわけだが)への地元の拒否を加速化し、米軍基地全体の日本における立地そのものが危機に陥ることへとつながることだろう。米軍基地をかかえる現地では、積極的な受け入れよりも金と政治の力によって「しかたがない」事柄として受け止められてきたわけで、基地の廃止へと世論が大きく向かう可能性はいつでも存在する。このことを一番よく知っているのは米国政府だ。だから、基地問題を政府間協議とし、地元を押さえつける役割を日本政府に押し付け、これを日本政府が受け入れるというやり方に固執してきた。この問題解決の権力構造が今揺らいでいることだけは確かだ。半世紀たっても地元のリスペクトを得られない米軍基地。そのこと自体が基地が地元の人々になにをもたらしてきたのかを何よりもよく証明しているのではないか。この当たり前のことをマスメディアは直視できない。
この四半世紀、マスメディアはほとんど重要な地域の課題を住民や市民の運動との関わりのなかで報道することをしなくなった。マスメディアは、与党や議会の動向にしか関心をもたないようになった。政府も、政治的な課題は議会政治の枠組みのなかで解決すべき問題であるという問題解決の枠組みを作り、マスメディアをこの枠組みのなかに取り込んで、大衆運動を過小評価させて報道の価値がないものにすることに成功してきた。マスメディアの態度は、政治における真実は権力者のことばのなかに宿っており、大衆(メディアの読者でもあるのだが)は取材する価値のない非力な存在としかみていない。こうしてマスメディアは知らず知らずのうちに権力の走狗になる。記者クラブ制度で情報源を独占し、スポンサーの金(そのなかには、地方、中央政府公報の資金も含まれる)に依存するマスメディアが、メディアとしての正当性を読者に信用させられるような前提をメディア自らが掘り崩し、墓穴を掘ってきたのではないか。
31日午後6時現在(数字は、記事本文の字数)
琉球新報2180
基地ノー”銀座埋め「米国にお引き取りを」 辺野古新基地反対集会
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100131-00000004-ryu-oki
辺野古新基地に反対 東京で全国集会 6000人が決議採択
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-156599-storytopic-53.html
沖縄タイムス 583
「民意聞け」 6000人の声 普天間移設 東京で集会
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-01-31_2394
47ニュース(共同通信)384
普天間撤去を、東京で集会 沖縄の市民ら約6千人
http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010013001000389.html
サンケイ 363
辺野古「社民党が許さない」福島氏が強調
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100130/stt1001301855002-n1.htm
朝日 344
辺野古移設反対、東京・日比谷で集会 福島党首ら参加
http://www.asahi.com/national/update/0130/TKY201001300271.html
時事通信 287
辺野古「社民が許さぬ」=福島氏
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010013000266
日経 261
普天間基地の辺野古移設、福島氏「社民が許さぬ」
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20100130ATFS3001030012010.html
読売 190
福島・社民党首、辺野古移設「許さない」
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100130-OYT1T00742.htm
毎日 なし
◆普天間全国集会決議(要旨)琉球新報より
1996年日米両政府は普天間基地の全面返還で合意した。5年前には隣接する沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した。現在も米軍ヘリが頻繁に飛び交う普天間基地は一刻も早く無条件に返還されるべきだ。
しかし13年たった今も返還は実現していない。理由は、返還の見返りに米国は辺野古新基地建設を要求し、日本政府もそれを容認してきたからにほかならない。背景には新基地建設に絡み1兆円ともいわれる建設事業の利権が見え隠れする。
新基地建設で沖縄は豊かになるどころか、危険と生活破壊を増幅し、ジュゴンが生息するたぐいまれなる自然環境を失うことになる。
辺野古がある名護市民は市長選挙で新基地建設に反対の立場を明確にした。全国の市民、労働者はこの民意を守るために闘わなければならない。
日米安保50年、冷戦終結20年を迎える今日、米軍再編が進む中、旧来の核・軍事力を背景とした抑止力に頼る安全保障のあり方が根本的に問われている。日米地位協定や思いやり予算の根本的な見直し、米軍被害の徹底検証も取り組まなければならない。安全保障に特化した日米関係を見直し、鳩山連立政権の東アジアの平和と共生に向けた基本政策を強めるべきだ。
普天間返還、辺野古・新基地建設反対、沖縄をはじめとする全国の米軍基地の整理・撤去に向けより大きな闘いを目指そう。右決議する。
以下は、ネットでの集会呼びかけ文
===================
普天間基地いらない!新基地建設許さない!
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
全国から日比谷公園・野音に1万人集まろう!
===================
沖縄から100名ほど参加予定!辺野古・高江も
【名称】普天間基地はいらない 辺野古・新基地建設を許さない1・30全国集会
― チェンジ! 日米関係 ―
【日時】2010年1月30日(土)14:00〜15:30(予定)
※集会終了後に銀座・東京駅方向に向けてデモ行進
【会場】日比谷公園・野外大音楽堂(千代田区日比谷公園1−3)
最寄り駅:地下鉄「霞ヶ関」駅「日比谷」駅「内幸町」駅
http://hibiya-kokaido.com/access%20map0802.pdf
【内容】方針提起・沖縄からの情勢報告・国会情勢報告・参加団体のアピール
【主催】1・30全国集会実行委員会
問い合わせ:フォーラム平和・人権・環境(電話03-5289-8222)
★チラシを印刷できます。
http://www.peace-forum.com/mnforce/2009/01senden/okinawa02-01.pdf
1月24日の沖縄・名護市長選挙で、辺野古への新基地建設反対の市長が誕生しま
した。
辺野古新基地建設の是非について、住民投票以来の民意を示す結果となったので
す。
しかし、翌日以降、平野官房長官が、名護市長選挙の結果を「斟酌(しんしゃく)
しなければならないという理由はない」、地元自治体の合意がなくても「法律的
にやれる場合もある」などと暴言を吐き続け、撤回も謝罪もしないでいます。
平野暴言によって名護市長選の民意をつぶさせず、普天間基地の即時閉鎖と辺野
古新基地建設の断念を求めることを沖縄とともに全国から政府へ意思表示するこ
とがすごく重要なときとなりました。
明日1月30日には、労働組合や市民団体が沖縄をはじめ全国から結集して、集会
デモをおこないます。
大結集が政府へ強く迫ることになり、沖縄への激励ともなります。ぜひ声をかけ
あって参加してください。
*************************
辺野古への基地建設を許さない実行委員会
http://www.jca.apc.org/HHK/NoNewBases/NNBJ.html
電話090-3910-4140(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック)
FAX03-5275-5989(市民のひろば)
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毎年1月から2月にかけて前年の盗聴捜査の報告が公表される。昨年の報告はまだ出されていないので、公表されれば、別途ぼくなりのコメントを出したいと思っている。
盗聴捜査の報告は、警察庁、厚生労働省、海上保安庁、検察庁から出されるが、「傍受」対象の犯罪、傍受された通信と犯罪関連通信の数、令状発付数がリストとなって出されるが、どの都道府県警がいつからいつまで盗聴捜査を行ったのかといったことすら公表されないので、どのような犯罪捜査で盗聴捜査が実施されたのかはわからない。また、盗聴されたのが、メールなのか、ショートメッセージなのか、それとも通話なのかの区別のわからない。盗聴法が国会で審議されていた当時は、携帯電話の盗聴は技術的に不可能だといわれていたにもかかわらず、その後の盗聴捜査の実施ではほぼ100%盗聴されているのは携帯電話である。米国でも問題になってきたように、盗聴された通信のうち犯罪関連通信は全体の3割程度で、残る7割は無関係な通信だという事情は日本でも変わっていない。また、国会審議中に不可能とされた携帯の盗聴がどのような技術によって可能になったのかも不明だ。そもそも盗聴捜査に用いられる機器類やプログラムは盗聴法が成立してから10年ほどたつが、まったく機器の更新やプログラムのアップグレードなど行われてこなかったのか?機器の技術的な仕様は、盗聴能力に直接影響し、捜査機関の裁量の範囲を広げる危険性がある。この点についてもまったく今のところ不明なままだ。この間の技術進歩を考えると、機器やソフトの更新がまったくなされていないとは考えにくい。
他方で、この間、捜査機関のずさんな捜査や拷問ともいえる手法による自白偏重の取調べが数多くの冤罪を生み出してきていることが徐々にあきらかになってきた。盗聴法の国会審議でも法務省は、性善説にたって捜査機関を疑うことは不要であり、捜査機関が適法な捜査を行うということを前提としていることを主張してきた。しかし、これだけ冤罪事件が多発していることが発覚してきた現在、こうした性善説にたつことはむしろさらなる冤罪を生み出す危険性が高い。取調べの可視化や裁判における捜査資料の全面開示の要求が、マスメディアですら取り上げられるようにまでなったが、盗聴捜査にかかわる資料の開示もまた捜査過程の可視化にとって重要だという点にまでは、あまり踏み込まれていない。
盗聴捜査に限らず、捜査機関が膨大に溜め込んでいるデータが紙媒体からデジタルデータに移行しているなかで、デジタルデータの改竄や流用をチェックするための技術的な歯止めが不明確なことは冤罪の技術的な温床となる危険性をはらんでいる。デジタルデータの場合、改竄や捏造は容易であるから、証拠のつじつまを合わせるためにデータを改竄することが行われないとはいえない。この理屈は、警察自らが、電子データの証拠保全の強化の理屈として持ち出していることだが、このことは警察が保有している電子データにも当然あてはまることである。冤罪という権力犯罪を防ぐには、当然のこととして警察の電子データの改竄、隠滅などを防ぐ手立てが必要だということになろう。このようなことは素人でもわかることだから、デジタルデータを裁判所が証拠として採用するかどうかという観点からすると、採用されない可能性も高くなってもいいはずだ。
昨年8月に サンケイは次のように報じた。
海上保安庁は3日から、裁判所に提出する事件・事故の証拠写真をデジタルカメラで撮影する。警察庁も本年度中の全国導入を決めているが、捜査機関での実施は初めてで、海保は「コスト削減のほか、捜査の迅速化につながる」と期待している。
海保関係者によると、デジカメで撮影した画像は編集や書き換えができるため、捜査機関は、これまでフィルムカメラを使用。しかし昨年、メーカーが書き込みデータが瞬時にロックされ、改竄(かいざん)や消去ができないメモリーカード(記憶媒体)を開発した。海保は検察庁と協議し、証拠として公判にも使えるとの結論に達した。(以下略)
この記事は二つの点でぼくには興味深いものだった。ひとつは、こうした新たな技術仕様をもったデジカメの導入で、撮影したデータが改竄や消去ができないデジタルデータとなり、証拠としての信用性がこれまでのフイルムによる写真同等になるといえるかどうかは、実はわからない、ということだ。改竄や消去が不可能な仕様がどのようなものか、その技術の詳細が公表され、第三者の専門家によって検証されないかぎり、これだけでは、なんともいえないということだ。もう一つは、裁判所や検察は、捜査機関から送られてきた改竄も消去もできないデジタル写真による証拠であるということを自ら確認できる技術力を持っているのかもわからない。他方で、興味深いのは、消去できないわけだから、都合の悪い証拠も消去できないということになるはずであり、これは、都合の悪い証拠を隠滅するようなことが難しくなるかもしれない。そもそも捜査資料の全面的な開示の制度がなければ意味のないことではあるが...。
さて、もう一つ興味深いと思ったのは、デジタルカメラが上記の報道にあるように、証拠写真としての能力を欠いているというのは、本当なのか?これまでも裁判では証拠として採用されてこなかったのか?という点に関わる。もしデジカメの写真が証拠として公判で使えないのなら、ぼくたちが、デモで遭遇するデモの参加者を上回る数になる場合すらある公安警察が手にする多数のデジカメやデジタルビデオカメラは一体何なのだ?ということになる。公安警察などが利用するデジカメの類は、そもそもが犯罪捜査にかかわる証拠となることを前提としていないということになる。とすれば、デジカメに収められた資料はいったいどのような目的で使用されているのだろうか。
多分、刑事公安警察に限らず、犯罪捜査目的ではなく、治安維持や監視目的の情報収集活動の結果収集されたデータは膨大な量になるだろうと思う。これらについては、私たちが自己情報であるからといっても開示されることは前提にされていない。紙媒体を中心とした個人情報の収集の時代とちがって、データが電子化され、データベースに蓄積され、ネットワークで相互に参照可能な技術が普及している現在、捜査機関は、どのような私たちの個人情報の利用可能な環境にあるのかもまったく不透明なままだ。そもそも電子化されたデータがどれだけ蓄積されており、どのように利用されているのか、個人を特定した名寄せや、公判の証拠とすること以外の目的で収集されているデータがどれだけあり、それらがいったい何の目的で収集されているのか、そうした一連のことがらがまったく不透明なままだ。このこと自体が、冤罪を生み出す権力の技術的な背景をなしている。取調べの可視化が大きな注目を集めているが、これだけでは、まったく不十分だ。証拠資料の全面開示も重要であり、ぜひとも実現すべきだが、これだけでもまったく不十分だ。
捜査機関が不正、違法な捜査を電子データやコンピュータテクノロジーを用いて実行できないようにするには、これらの一連のコンピュータシステムやデータ管理を捜査機関から切り離して、裁判所あるいは公的な独立した機関が管理することが必要だと思う。そして、捜査機関の端末からいつ誰がどのようにしてデータベースにアクセスして、どのような作業を行っているのか、といったことが透明になるようなセキュリティシステムが導入される必要がある。このようなことでもしない限り、取調べの可視化も証拠資料の全面開示も抜け穴だらけになる。
こうした現状を踏まえたとき、現実的な不安がいくつかある。一つは、盗聴法の存在である。法律の廃止運動は、上記のようなコンピュータを駆使した警察の捜査、監視が野放しである以上、重要な運動であることは間違いない。さらに、これに加えて、もう一つの不安材料は、共謀罪とコンピュータ監視法案の再度の復活がありうるかどうかである。民主党は野党時代に修正案を出すなど、完全反対とはいえない態度もとっていきている。特にコンピュータ監視法案については、捜査機関がこれまで以上に容易に電子メールなどの通信履歴にアクセス可能となり、しかも、ネットワーク越しに、電子データの押収も可能にしようというものだ。上に見たように、捜査機関内部での電子データの管理が不透明な現状では、コンピュータ監視法案が万が一にでも成立してしまえば、ますます私たちのコミュニケーションは警察の監視下におかれやすい環境になることになることだけは間違いない。
参考サイト
http://www.anti-tochoho.org/
盗聴捜査の報告は、警察庁、厚生労働省、海上保安庁、検察庁から出されるが、「傍受」対象の犯罪、傍受された通信と犯罪関連通信の数、令状発付数がリストとなって出されるが、どの都道府県警がいつからいつまで盗聴捜査を行ったのかといったことすら公表されないので、どのような犯罪捜査で盗聴捜査が実施されたのかはわからない。また、盗聴されたのが、メールなのか、ショートメッセージなのか、それとも通話なのかの区別のわからない。盗聴法が国会で審議されていた当時は、携帯電話の盗聴は技術的に不可能だといわれていたにもかかわらず、その後の盗聴捜査の実施ではほぼ100%盗聴されているのは携帯電話である。米国でも問題になってきたように、盗聴された通信のうち犯罪関連通信は全体の3割程度で、残る7割は無関係な通信だという事情は日本でも変わっていない。また、国会審議中に不可能とされた携帯の盗聴がどのような技術によって可能になったのかも不明だ。そもそも盗聴捜査に用いられる機器類やプログラムは盗聴法が成立してから10年ほどたつが、まったく機器の更新やプログラムのアップグレードなど行われてこなかったのか?機器の技術的な仕様は、盗聴能力に直接影響し、捜査機関の裁量の範囲を広げる危険性がある。この点についてもまったく今のところ不明なままだ。この間の技術進歩を考えると、機器やソフトの更新がまったくなされていないとは考えにくい。
他方で、この間、捜査機関のずさんな捜査や拷問ともいえる手法による自白偏重の取調べが数多くの冤罪を生み出してきていることが徐々にあきらかになってきた。盗聴法の国会審議でも法務省は、性善説にたって捜査機関を疑うことは不要であり、捜査機関が適法な捜査を行うということを前提としていることを主張してきた。しかし、これだけ冤罪事件が多発していることが発覚してきた現在、こうした性善説にたつことはむしろさらなる冤罪を生み出す危険性が高い。取調べの可視化や裁判における捜査資料の全面開示の要求が、マスメディアですら取り上げられるようにまでなったが、盗聴捜査にかかわる資料の開示もまた捜査過程の可視化にとって重要だという点にまでは、あまり踏み込まれていない。
盗聴捜査に限らず、捜査機関が膨大に溜め込んでいるデータが紙媒体からデジタルデータに移行しているなかで、デジタルデータの改竄や流用をチェックするための技術的な歯止めが不明確なことは冤罪の技術的な温床となる危険性をはらんでいる。デジタルデータの場合、改竄や捏造は容易であるから、証拠のつじつまを合わせるためにデータを改竄することが行われないとはいえない。この理屈は、警察自らが、電子データの証拠保全の強化の理屈として持ち出していることだが、このことは警察が保有している電子データにも当然あてはまることである。冤罪という権力犯罪を防ぐには、当然のこととして警察の電子データの改竄、隠滅などを防ぐ手立てが必要だということになろう。このようなことは素人でもわかることだから、デジタルデータを裁判所が証拠として採用するかどうかという観点からすると、採用されない可能性も高くなってもいいはずだ。
昨年8月に サンケイは次のように報じた。
海上保安庁は3日から、裁判所に提出する事件・事故の証拠写真をデジタルカメラで撮影する。警察庁も本年度中の全国導入を決めているが、捜査機関での実施は初めてで、海保は「コスト削減のほか、捜査の迅速化につながる」と期待している。
海保関係者によると、デジカメで撮影した画像は編集や書き換えができるため、捜査機関は、これまでフィルムカメラを使用。しかし昨年、メーカーが書き込みデータが瞬時にロックされ、改竄(かいざん)や消去ができないメモリーカード(記憶媒体)を開発した。海保は検察庁と協議し、証拠として公判にも使えるとの結論に達した。(以下略)
この記事は二つの点でぼくには興味深いものだった。ひとつは、こうした新たな技術仕様をもったデジカメの導入で、撮影したデータが改竄や消去ができないデジタルデータとなり、証拠としての信用性がこれまでのフイルムによる写真同等になるといえるかどうかは、実はわからない、ということだ。改竄や消去が不可能な仕様がどのようなものか、その技術の詳細が公表され、第三者の専門家によって検証されないかぎり、これだけでは、なんともいえないということだ。もう一つは、裁判所や検察は、捜査機関から送られてきた改竄も消去もできないデジタル写真による証拠であるということを自ら確認できる技術力を持っているのかもわからない。他方で、興味深いのは、消去できないわけだから、都合の悪い証拠も消去できないということになるはずであり、これは、都合の悪い証拠を隠滅するようなことが難しくなるかもしれない。そもそも捜査資料の全面的な開示の制度がなければ意味のないことではあるが...。
さて、もう一つ興味深いと思ったのは、デジタルカメラが上記の報道にあるように、証拠写真としての能力を欠いているというのは、本当なのか?これまでも裁判では証拠として採用されてこなかったのか?という点に関わる。もしデジカメの写真が証拠として公判で使えないのなら、ぼくたちが、デモで遭遇するデモの参加者を上回る数になる場合すらある公安警察が手にする多数のデジカメやデジタルビデオカメラは一体何なのだ?ということになる。公安警察などが利用するデジカメの類は、そもそもが犯罪捜査にかかわる証拠となることを前提としていないということになる。とすれば、デジカメに収められた資料はいったいどのような目的で使用されているのだろうか。
多分、刑事公安警察に限らず、犯罪捜査目的ではなく、治安維持や監視目的の情報収集活動の結果収集されたデータは膨大な量になるだろうと思う。これらについては、私たちが自己情報であるからといっても開示されることは前提にされていない。紙媒体を中心とした個人情報の収集の時代とちがって、データが電子化され、データベースに蓄積され、ネットワークで相互に参照可能な技術が普及している現在、捜査機関は、どのような私たちの個人情報の利用可能な環境にあるのかもまったく不透明なままだ。そもそも電子化されたデータがどれだけ蓄積されており、どのように利用されているのか、個人を特定した名寄せや、公判の証拠とすること以外の目的で収集されているデータがどれだけあり、それらがいったい何の目的で収集されているのか、そうした一連のことがらがまったく不透明なままだ。このこと自体が、冤罪を生み出す権力の技術的な背景をなしている。取調べの可視化が大きな注目を集めているが、これだけでは、まったく不十分だ。証拠資料の全面開示も重要であり、ぜひとも実現すべきだが、これだけでもまったく不十分だ。
捜査機関が不正、違法な捜査を電子データやコンピュータテクノロジーを用いて実行できないようにするには、これらの一連のコンピュータシステムやデータ管理を捜査機関から切り離して、裁判所あるいは公的な独立した機関が管理することが必要だと思う。そして、捜査機関の端末からいつ誰がどのようにしてデータベースにアクセスして、どのような作業を行っているのか、といったことが透明になるようなセキュリティシステムが導入される必要がある。このようなことでもしない限り、取調べの可視化も証拠資料の全面開示も抜け穴だらけになる。
こうした現状を踏まえたとき、現実的な不安がいくつかある。一つは、盗聴法の存在である。法律の廃止運動は、上記のようなコンピュータを駆使した警察の捜査、監視が野放しである以上、重要な運動であることは間違いない。さらに、これに加えて、もう一つの不安材料は、共謀罪とコンピュータ監視法案の再度の復活がありうるかどうかである。民主党は野党時代に修正案を出すなど、完全反対とはいえない態度もとっていきている。特にコンピュータ監視法案については、捜査機関がこれまで以上に容易に電子メールなどの通信履歴にアクセス可能となり、しかも、ネットワーク越しに、電子データの押収も可能にしようというものだ。上に見たように、捜査機関内部での電子データの管理が不透明な現状では、コンピュータ監視法案が万が一にでも成立してしまえば、ますます私たちのコミュニケーションは警察の監視下におかれやすい環境になることになることだけは間違いない。
参考サイト
http://www.anti-tochoho.org/
今年に入って、著作権法に反するコンテンツのダウンロードも違法化された。著作権によるネット上のコンテンツへの規制やいわゆる「違法コピー」に対する厳しい監視が目立つ一方で、著作権の保護がコンピュータ・コミュニケーションにおける「持つ者」と「持たざる者」の格差を固定化する傾向に拍車をかけるようになっているという点への関心はきわめて低い。著作権の強化は、ますます知的所有の既得権を強化するだけであって、持たざる者を知的所有から排除するだけだろう。
コンピュータのソフトウエアにかぎらず、音楽CDや映画のDVDなどのコンテンツが、「海賊版」として流通している世界規模での環境を見渡したとき、そこには、かなりはっきりとした所得との相関関係が見出せるように思う。地域的にいえば、テレビやビデオの普及やコンピュータ、インタネットが普及過程に入った第三世界の諸国では、海賊版がネットだけでなく、路上なの露天などでも比較的自由に売買されてきた。ウィンドウズのOSなども正規版ではないものが、どこのアジア諸国でも比較的容易に入手できたし、音楽や映画のソフトについても同様のことがいえる。膨大な人口を抱え、急速な経済成長を遂げつつある諸国は、同時にコンピュータソフトの市場としても大きなビジネスチャンスを持つ国々だが、一般庶民が著作権に配慮せず海賊版を当たり前のようにして売買する文化環境は、ソフトウェア企業にとっては大きな経済的損失であり、みずからの財産権への深刻な侵害であるとみなされることになる。「情報はただではない」「開発コストや開発者のインセンティブを維持するには適正な価格での販売が確保されなければならない」といった理由が主張されるわけだ。しかし、同時に、海賊版であれ、これら既存のソフトのユーザとして囲い込むことによって、将来の正規ユーザへの囲い込みを見通しているという側面もある。Linuxやオープンソースを選択するよりは海賊版であれウィンドウズや商用ソフトを使ってもらった方が、長期的にみれば利益になるという計算が働いているのではないかと思う。
「海賊版」が流布するのには、警察や政府が単なる「犯罪」として処理しようとすることでは済まない社会的背景がある。海賊版は、単に金を出すのが惜しいからタダで手に入れてやろうという動機だけでは世界規模の膨大な流通を理解できない。所得の制約がそもそもソフトに支出可能な所得水準にはないという市場からの排除の環境があり、他方で、情報や知識に価格を設定する市場経済の文化が、そもそも多くの人々の生活世界における情報・知識をめぐる文化とは大きく異なっているという二つの側面がある。著作権は、生活世界が伝統的に維持してきた知識や情報を商品化市場に統合して囲い込むための法的強制力として作用する。現代の知識と情報の囲い込みは、人々がもっている知的な能力や情報・コミュニケーションの活動とその成果を自然同様の「資源」として、これを商品としてパッケージ化することによって、知的な創造力や成果を資本の創造物とする構造を生み出す。文化的な創造物は、本来、特定の誰かに帰属するようなものではなく、時間と空間を横断する多様な引用や転用と不可分な表現行為であるはずだが、市場の所有の構造は、資本にその成果を帰属させて「生産物」の最終的な処分の権利を付与する。この知識や情報の「所有者」の地位を得た資本こそが、アートであれコンピュータプログラムであれ、そのすべてを新奇なものとして創造した創造主、開発の主体であるとみなされることになる。こうした市場における所有は、近代社会の人間観が「方法論的個人主義」に基づき、人間を他者との関係のなかで定義づけるのではなく、個としての人間、それ以上に分割し得ない実体だと前提していきたことと密接に関わる。近代の個人主義は、個人の創造力を他者から切り離して、彼/彼女固有の能力とみなすが、この理屈が資本に当て嵌められて、資本の所有を資本の創造力によって根拠づけ正当化し、普遍的な価値の装いを与えるためのイデオロギーである。
文化資本の生産物もまた他の物的な生産物同様、資本の外部にある「資源」なくしては新たな創造的な使用価値を生み出すことなどできはしない。マイクロソフトの必ずしも出来がいいとはお世辞にも言えない基本ソフトも、コンピュータのハッカーコミュニティが生み出した文化なしには開発できなかった。著作権と海賊版をめぐる現代の闘争は、近代資本主義が構築しようとしてきた資本の所有に正当性を与えようする力と、本来誰かに帰属させることができないはずの知識の社会的性格との間の闘争という側面を持っている。
それでは、海賊版の普及こそが、この闘争を知識の社会性回復の唯一の答えかといえばそうではない。海賊版は、資本が構築してきた市場を前提とした知識の構成を前提として、資本によるこの知識の商品化へのさしあたりの抵抗力ではあるが、資本によって簒奪された創造力の枠組を越えることはできない。海賊版が手に入るのだから、ウィンドウズOSで何の問題もない、という考え方や、海賊版によって安価に資本の文化を享受できることで満足するわけにはいかないからだ。著作権の強化は、むしろこうした海賊版への依存からの解放という方向へむかう力をとりわけ無産者の想像/創造力として生み出す方向に向かう契機になるとみたほうがいいだろう。オープンソースやコピーレフトにそうした傾向をみてとることはできるし、LinuxやFree BSDなどにオルタナティブを期待すべきだとぼくも思うが(だからぼくもまたLinuxユーザなのだが)、しかし、ここには明確な所有をめぐる資本の秩序を逸脱するポリティックスの創造/想像力が伴わなければならないとも思う。海賊版で納得してはならないのだ。
コンピュータのソフトウエアにかぎらず、音楽CDや映画のDVDなどのコンテンツが、「海賊版」として流通している世界規模での環境を見渡したとき、そこには、かなりはっきりとした所得との相関関係が見出せるように思う。地域的にいえば、テレビやビデオの普及やコンピュータ、インタネットが普及過程に入った第三世界の諸国では、海賊版がネットだけでなく、路上なの露天などでも比較的自由に売買されてきた。ウィンドウズのOSなども正規版ではないものが、どこのアジア諸国でも比較的容易に入手できたし、音楽や映画のソフトについても同様のことがいえる。膨大な人口を抱え、急速な経済成長を遂げつつある諸国は、同時にコンピュータソフトの市場としても大きなビジネスチャンスを持つ国々だが、一般庶民が著作権に配慮せず海賊版を当たり前のようにして売買する文化環境は、ソフトウェア企業にとっては大きな経済的損失であり、みずからの財産権への深刻な侵害であるとみなされることになる。「情報はただではない」「開発コストや開発者のインセンティブを維持するには適正な価格での販売が確保されなければならない」といった理由が主張されるわけだ。しかし、同時に、海賊版であれ、これら既存のソフトのユーザとして囲い込むことによって、将来の正規ユーザへの囲い込みを見通しているという側面もある。Linuxやオープンソースを選択するよりは海賊版であれウィンドウズや商用ソフトを使ってもらった方が、長期的にみれば利益になるという計算が働いているのではないかと思う。
「海賊版」が流布するのには、警察や政府が単なる「犯罪」として処理しようとすることでは済まない社会的背景がある。海賊版は、単に金を出すのが惜しいからタダで手に入れてやろうという動機だけでは世界規模の膨大な流通を理解できない。所得の制約がそもそもソフトに支出可能な所得水準にはないという市場からの排除の環境があり、他方で、情報や知識に価格を設定する市場経済の文化が、そもそも多くの人々の生活世界における情報・知識をめぐる文化とは大きく異なっているという二つの側面がある。著作権は、生活世界が伝統的に維持してきた知識や情報を商品化市場に統合して囲い込むための法的強制力として作用する。現代の知識と情報の囲い込みは、人々がもっている知的な能力や情報・コミュニケーションの活動とその成果を自然同様の「資源」として、これを商品としてパッケージ化することによって、知的な創造力や成果を資本の創造物とする構造を生み出す。文化的な創造物は、本来、特定の誰かに帰属するようなものではなく、時間と空間を横断する多様な引用や転用と不可分な表現行為であるはずだが、市場の所有の構造は、資本にその成果を帰属させて「生産物」の最終的な処分の権利を付与する。この知識や情報の「所有者」の地位を得た資本こそが、アートであれコンピュータプログラムであれ、そのすべてを新奇なものとして創造した創造主、開発の主体であるとみなされることになる。こうした市場における所有は、近代社会の人間観が「方法論的個人主義」に基づき、人間を他者との関係のなかで定義づけるのではなく、個としての人間、それ以上に分割し得ない実体だと前提していきたことと密接に関わる。近代の個人主義は、個人の創造力を他者から切り離して、彼/彼女固有の能力とみなすが、この理屈が資本に当て嵌められて、資本の所有を資本の創造力によって根拠づけ正当化し、普遍的な価値の装いを与えるためのイデオロギーである。
文化資本の生産物もまた他の物的な生産物同様、資本の外部にある「資源」なくしては新たな創造的な使用価値を生み出すことなどできはしない。マイクロソフトの必ずしも出来がいいとはお世辞にも言えない基本ソフトも、コンピュータのハッカーコミュニティが生み出した文化なしには開発できなかった。著作権と海賊版をめぐる現代の闘争は、近代資本主義が構築しようとしてきた資本の所有に正当性を与えようする力と、本来誰かに帰属させることができないはずの知識の社会的性格との間の闘争という側面を持っている。
それでは、海賊版の普及こそが、この闘争を知識の社会性回復の唯一の答えかといえばそうではない。海賊版は、資本が構築してきた市場を前提とした知識の構成を前提として、資本によるこの知識の商品化へのさしあたりの抵抗力ではあるが、資本によって簒奪された創造力の枠組を越えることはできない。海賊版が手に入るのだから、ウィンドウズOSで何の問題もない、という考え方や、海賊版によって安価に資本の文化を享受できることで満足するわけにはいかないからだ。著作権の強化は、むしろこうした海賊版への依存からの解放という方向へむかう力をとりわけ無産者の想像/創造力として生み出す方向に向かう契機になるとみたほうがいいだろう。オープンソースやコピーレフトにそうした傾向をみてとることはできるし、LinuxやFree BSDなどにオルタナティブを期待すべきだとぼくも思うが(だからぼくもまたLinuxユーザなのだが)、しかし、ここには明確な所有をめぐる資本の秩序を逸脱するポリティックスの創造/想像力が伴わなければならないとも思う。海賊版で納得してはならないのだ。
左のコラムにあるサイト主催者紹介とコンテンツの使用規定を一部変更しました。
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/documents/index.php?cat_id=8
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