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●不完全な危機調整メカニズムとしてのサミット:

1975年にフランスのジスカール・デスタン大統領の提唱で始まったG8サミットは、グローバルな資本主義の危機(当時の文脈でいえば石油危機と通貨危機に伴う深刻な不況とベトナム戦争敗北に象徴される政治的危機)に対応するための先進国の利害調整の装置としての機能が期待された。また、1971年に始まる世界経済フォーラムが民間大資本によるグローバル資本主義のフォーラムとサミットは、いわば車の両輪として、非公式ながらも国際的な政治経済の調整メカニズムとして、国際法や国際機関(国連やIMF、世銀、GATT/WTO)などとは異る性質をもつものといえる。冷戦末期の80年代までがサミットによる覇権システムを通じて、東側の「社会主義ブロック」を解体し、グローバル資本主義に統合するとともに、資本主義政府の公共部門もまた民営化によって市場に統合する「新自由主義」によって、とりあえずグローバルな資本に新たな資本蓄積のフロンティアを提供することができた。これは政治が果すべきルール構築においてサミットがそれなりの影響力を行使できたということだが、90年代以降、反グーバリゼーション運動が第三世界から先進国中枢へと波及することによって、他方で、アフガン戦争でのソ連の敗北やイラン革命以降、イスラム圏のアジア・中東が、近代西欧のパラダイムを逸脱する政治的なルール構築の一角をなすようになる。資源ナショナリズムが石油と経済を介してグローバル資本主義の市場経済のゲームを受け入れたのとは異なる世界が、非西欧世界に拡がりはじめる。

G8/G7サミットは明かにグローバル資本主義の調整メカニズムとしては機能不全に陥っている。このことは、一面では、G8/G7サミットをもはや実質的な意味をもたないものとして、社会運動の側からみても無視して構わないような死に体の合意形成体とみなすこともできるが、他面では、機能低下が如実であるが故に、G8/G7サミット側は必死になってその機能回復のための強硬な手段をとる危険性を孕むものとして注目する必要があるという理解に立つこともできる。グローバルな反資本主義運動の優先課題としてサミットを位置付ける必要は、多分、90年代の反グローバリゼーション運動の時代ほどにはないと私は判断するが、同時に、上で述べた後者の観点は、特に日本に関していえば、アベノミクスの破綻と戦争法体制を前提としたときには、むしろ重要な観点だと思う。日本のG8/G7サミットへの関り方は、安全保障においても経済においても本質的な転換を迫られるだろう。戦争への関与はより直接的になるだろうし、経済に関しては、日本がゲームのルールメーカーになるだけの政治力を喪失しており中国や新興国がG8/G7サミット諸国に代ってルールメーカーになることとの相対的な国益比較においてG8/G7サミットに依拠する以外の選択肢をもてない。これは資本と国家の利害の問題であり、民衆の利害の問題ではない。民衆の利害はむしろ、いかなる意味においても既存の覇権システムであれ新たな代替的な覇権システムであれ、それらが国家と資本の利益になることがもたらす広い意味での搾取が居座るだろうからだ。

私がG8/G7サミットに反対するのは、上記のような資本と国家の利益の問題だけではない。G8/G7サミットは、先進国が標榜する「民主主義」の意思決定システムを根底から否定して、国際問題の重要な議題を指導者個人の判断に委ねるものだからだ。

以下に引用したのは外務省の「サミットに関する基礎的なQ&A」に掲載された「サミットを他の国際会議と比較した特徴は何ですか?」という質問への外務省の答えである。

「サミットでは、国際社会が直面する様々な地球規模の課題について、首脳は一つのテーブルを囲みながら、自由闊達な意見交換を通じてコンセンサスを形成し、物事を決定します。そして、その成果が宣言としてまとめられます。グローバル化が進むと世界各国の相互依存関係が進み、物事が起こりかつ展開する速度が速くなり、その影響するところも国境を越えて大きくなりますが、それらに有効に対処するためには、首脳のリーダーシップが必要となります。サミットは、首脳のリーダーシップにより、国際社会が迅速に解決することが求められている問題に効果的に対応してきています。」

「首脳」のコンセンサス形成、あるいは「首脳のリーダーシップ」によって「国際社会が迅速に解決することが求められている問題に効果的に対応」することをサミットの特徴としている。国内の合意も国際的な国境を越えた民衆相互の討議の時間的な余裕も与えずに、トップダウンで意思決定しようというものだ。各国の国内のコンセンサス(民主主義的な手続き)は、このトップダウンに縛られて、事後承認として追随することになる。首脳に一国の外交全般の広範な課題(経済、軍事・安全保障、教育・医療・福祉など)をフリーハンドで委ねることになる。憲法73条で外交関係を処理する「事務」は内閣に委ねられているが、条約は国会の承認事項と明記されている。サミットで出される「声明」「コミュニケ」「行動計画」などなど様々な名称で呼ばれる文書は条約ではないことを理由に国会の審議を経る必要がない。国内の審議や承認なしに、事実上、サミットで決定された事項がその定義もあいまいな「国際公約」なる文言によって、あたかも強制力をもつかのような印象を持たせることによって、政権は争点になる可能性のある重大な外交問題を民主主義的な手続き抜きで強行することがまかり通るようになってきた。

しかも、近年、G8/G7サミットでの合意事項は、それが実際に履行されているかどうかを確認するプロセスまで導入された。これは「説明責任報告書」として報告されることが慣例になりつつある。

2010年のロックアーン(カナダ)サミットが多分最初だと思われるが、説明責任報告書の位置づけは以下のように説明されている。

「説明責任報告書の目的は,。韮犬亮舁廚奮発に関連するコミットメントの履行実績を報告し,■韮犬旅堝阿侶覯未鯢床舛掘き将来においてコミットメントの履行実績を報告するにあたっての教訓を示す,という3つであります」(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/canada10/pdfs/accountability_j.pdf)

説明責任報告書の日本語は要約しかないが、毎年出される原文はかなり大部のものだ。年によって個別課題だけの場合もあるが、2013年は包括的な報告書として(1)援助量・援助効果・債務、(2)経済開発、(3)保健、(4)水と衛生、(5)食料安保、(6)教育、(7)ガバナンス、(8)平和と安定、(9)環境とエネルギーが取り上げられた。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000006822.pdf)

これらの諸項目について、G8/G7サミット構成国がどのような取り組みを行なってきたのかが詳細に記載されている。これは「作文」でしかないともいえるが、多方で、サミットでのコンセンサスを口約束に終らせないように箍をはめる機能を少なからず果すこのになっているのではないか。

こうしてG8/G7サミットは、首脳による非公式の会合という位置づけから、その声明等に盛り込まれた内容の実施や実現を繰返し確認され、事実上強制に近いものとして参加各国に押し付ける制度へと変質してきた。これは、別の側面から言えば、G8/G7サミットそのものの影響力の低下のあらわれでもある。G8/G7サミット参加各国とも、サミットだけに頼るのではなく、G20や様々な地域の国際組織などとの連携を通じて国益を実現しようとしはじめている。このことがG8/G7サミット内部にある大国相互の確執の露呈に繋がりかねないことを参加各国はわかっているからこそ、「説明責任報告書」のようなやっかいな手続きを通じて、相互監視を強化しようとしているともいえる。

●G8/G7サミットのグローバル戦略

G8/G7サミットは構成国の内政にはほとんど関心を寄せず、むしろ途上国をG8/G7サミットに象徴される既存のグローバル資本主義の枠組に組み込むために、先進国相互の摩擦や軋轢を調整する役割を果している。G8/G7サミットは、一般的にいえば、米国が主導権を握り米国の覇権システムの一部とみなされがちだが、これはG8/G7サミットの性質の一面でしかない。これはサミットが1970年代という時代に始まり、当初フランスが提唱したことに端的に示されている。70年代は国際的な基軸通貨ドルの凋落とベトナム戦争敗北に示された米国の軍事的な覇権の後退の時期であり、この後退局面をフランスは有効に自国の国益に沿って利用することを目論んでサミットを提唱したとみることができる。

戦後の米国の覇権は、確かにアジアやラテンアメリカに関しては他の追随を許さないものを構築したが、それ以外の地域については必ずしも米国の覇権は絶対的なものとはいえない。70年代以降、アジアは、一方で社会主義化を選択する諸国がある一方で、韓国、台湾、シンガポールといった新たに近代化のテイクオフを実現しはじめた諸国などが米国の覇権の下でグローバル資本主義に統合される。ラテンアメリカもまた米国はチリの社会主義政権を強引に崩壊させつつ軍事的政治的な覇権を維持する。しかし、ポスト冷戦期にサミットが主要な議題にしはじめる地域はもはやアジアやラテンアメリカではなく、中東、東欧から中央アジアの旧社会主義圏、そしてアフリカである。これらの地域は、歴史的にも地政学的にも米国の覇権の及ぶ地域として一括りにはできない。言うまでもなく、東欧から中央アジアはロシアや中国抜きには「統合」の構図は描けず、アフリカはかつての植民地宗主国であるフランスとイギリスの影響力の方が米国を上回る。南アジアから中東にかけてのイスラム圏もまた米国が政治的軍事的そして経済的な覇権に関心を寄せるようになるが、石油多国籍資本の構造も含めて、欧州諸国の影響力を無視することはできない。

ポスト冷戦期のG8/G7サミットの主題は、東南アジアや東アジア、あるいはラテンアメリカよりも圧倒的に中東とアフリカ、そして東欧や中央アジアに焦点がシフトしている。このことは、米国が単独で圧倒的な強さを見せうる地域ではないところで問題が噴出していることを示しており、米国のグローバルは覇権の弱い環がここにあることを示している。

しかも、G8/G7サミット諸国はこうした地域を包括できるだけの力を確保できているわけではない。ロシアが参加していた時期には東欧から旧ソ連の地域がサミットの射程に入りえたが、ロシアが抜けた現在、これらの地域の覇権の構図はむしろサミット諸国の手の届きにくいところでロシアの影響力が強まる方向に引きずられうる可能性がある。EUとNATOの拡大がこれに対抗する力となるかどうかは、米国よりも欧州諸国がキャスティングボードを握ることになり、これはG8/G7サミット内部の覇権構造に変化をもたらすことになるだろう。そしてもともとG8/G7サミット構成国ではない中国、インドなどが経済的軍事的な影響力を強めつつあることによって、とりわけ南アジア、アフリカそして中東地域の地政学的な構造は地殻変動にみまわれやすくなっているようにみえる。

1991年の湾岸戦争では日本を除くG7諸国が全て参戦した。イラン―イラク戦争ではイラクを支持した西側が今回はイラクを敵に回す。この戦争ではシリアも多国籍軍に参戦する。しかし、2004年のイラク戦争で米国が主導した有志連合による戦争にG8/G7サミット構成国で参加したのはイギリスと日本だけである。以後、米国の「単独行動主義」は、場合によってはG8/G7サミット各国のコンセンサスをも無視する方向に進んだ。

●G8/G7サミットの弱い環としてのアフリカと中国

アフリカに関しては、かつて植民地を有していたのは、フランス、イギリス、ベルギー、イタリア、ポルトガル、スペイン、ドイツであり、米国は歴史的に影響力の基盤が希薄だ。中東を管轄する米軍中央軍は1983年設立だ。1992年のソマリア内戦時に国連PKOの主力部隊を構成したが、成果をあげられず撤退した経緯がある。ブッシュ政権になって始めて米国アフリカ軍を創設(2008年)する。とはいえ司令部はアフリカには置くことができておらず、シュトゥットガルトにある。これに対してフランスは、アフリカが最大の外交課題をなす地域であり、フランス語圏アフリカとの関係については、旧宗主国と植民地との関係が独立後も継続する特異な関係を構築してきたといわれ、これが英語圏アフリカ諸国とは異ることがこれまでもしばしば指摘されてきた。事実、フランスのアフリカへの軍事介入は常態化していたともいえる。

特に「ミレニアム開発目標」が掲げられて以降、サハラ以南アフリカの貧困問題に注目が集る結果として、アフリカの開発がサミットでも重要な議題とされてきたが、このことは、フランスをはじめとする旧植民地宗主国の影響力が米国に対して総体的に高まる結果をもたらしたともいえる。米国のアフリカ外交戦略はG8/G7サミットの他の諸国(日本とロシアを除く)に大きく依存せさるをえないことになったが、これは、米国の軍事・外交の影響力の総体的な低下をまねくことになる。

しかし、アフリカをめぐる事態は、G8/G7サミットの集団的な覇権によってコントロール可能なポスト植民地主義の構造に収まらない事態の出来として、現実には進行してきた。その最大の要因は二つある。一つは中国である。2013年の中国のアフリカの対外貿易は、中国156.4$bn、米国72.2$bn、 フランス61.6$bn、インド57.0$bn、スペイン48.1$bn、イタリア40.9l$bn、ドイツ40.4$bn、英国34.4$bn、日本25.3$bn、ブラジル25.3$bn。直接投資は、英国7.5$bn、米国3.7$bn、イタリア3.6$bn、中国2.5$bn、フランス2.1$bn、インド1.8$bn。【注】
【注】アフリカにおける中国の存在感:大勢の中の1人 英エコノミスト2015/1/17
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42732

日本はTICADによってポスト冷戦期のアフリカ政策を中国よりも早く展開したが、2000年以降中国は中国=アフリカフォーラム(FOCAC)によってアフリカへの関与を積極的に展開する。欧州の植民地主義とも米国の軍事安全保障(ソマリアはその典型か)としての干渉とも異なる中国の国益を経済的な覇権とリンクさせた展開は、かつて日本が戦後のアジアに対してとった「経済帝国主義」の路線と近いともいえる。

●近代理念の欺瞞と「テロリズム」

米国の相対的な後退のもうひとつの要因はG8/G7サミットがいう「テロリズム」あるいは対テロ戦争における影響力の低下である。西欧近代の世界支配が非西欧世界に対する殺戮と侵略、テロリズムの歴史であったことを思えば、一方に植民地支配を正当化しつつ、他方で自由と 民主主義の理念を掲げる欺瞞が、500年にわたって民衆を欺いてきた歴史こそが今、西欧の支配システムに対して「テロリズム」と言われる振る舞いとして表出してきたということではないか。しかし、西欧の(そしてこの西欧的な近代を内面化した多くの近代化に「成功」した諸国とその支配層を含めて)価値体系は、この近代の欺瞞を根底から反省するパラダイムを持てずにいる。

80年代の冷戦末期、旧ソ連東欧圏をまるごと崩壊させてグローバル資本主義に統合した時代は、その裏面で、第三世界民衆による新自由主義的な統合への拒否の運動をもたらし、これが90年代以降の先進諸国をまきこむ広汎な反グローバリゼーション運動へと展開した。この反グローバリゼーションの運動は、北アフリカの民衆運動、オキュパイ運動からギリシア、スペイン、アイスランド、更にはウクライナからロシア、中国の農民や出稼ぎ労働者の反乱に至る多様で一つに収斂しない民衆の叛乱として表出しつづけている。中心をもたず、一つにならないこれらの異議申し立てにG8/G7サミットだけでなくいかなる既存の国家もそん統治の限界を露呈している。

「自由と 民主主義」の建前に対して西欧が仕掛けた戦争を回避しようとする広範囲なイスラム世界からの難民たちは、左翼が期待するような世俗的な反資本主義的「マルチチュード」としてあらかじめ規定できるような存在ではない。シリア難民は、内戦を避けて「豊かさ」の神話に引き寄せられてヨーロッパを目指すが、そのヨーロッパは近代の理念である普遍的な人間の価値(自由と平等)を掲げながらその門戸を難民には閉して排除する。受け入れられた難民たちは、貧困と差別から解放されずに社会的排除の犠牲となる。彼らは、西欧近代の欺瞞を身をもって実感する。20世紀の解放運動であれば、こうした難民や貧困層の解放を資本主義の否定と社会主義の理念のもとに収斂させる政治的な影響力もっていたが、その社会主義が、現実の社会政治体制として腐敗と搾取のもうひとつのモデルとなって自由も平等も欺瞞的なイデオロギーでしかないことを経験してきた民衆にとって、残された選択肢が「宗教」あるいは「神」の再発見だったとして、それをどうして荒唐無稽な狂信的テロリズムとして切り捨てることができるだろうか。G8/G7サミットが直面しているのは、その文書類が提示している綺麗事と現実世界が体現している国家と資本の利益維持の構造が不可避的にもたらす不自由と不平等、生存の危機と非人道的な扱いとの間にある、あまりにも大きな乖離に対する言い逃れのための論理も哲学も見出せなくなっているところにある。つまり、イデオロギーの危機が露呈しているということ、この乖離そのものが生み出す欺瞞を見抜いた民衆に対して国家や資本(市場)への信頼を取り戻せなくなっているというところにある。

このように、民衆による「近代西欧」への異議申し立ては、反グーバリゼーション運動に代表される方向性とは別の側面をもっていた。1978ー79年のイラン革命に端的に示された「革命」概念の転換はその嚆矢と言えるだろう。イラン革命以後、「革命」は左翼の専売特許とはならなくなり、とりわけイスラム圏の民衆運動にとって、世俗的な変革とイスラム革命との二つの(あるいは混淆した)選択肢が、欧米資本主義による近代化に対するオルタナティブの位置を争うようになった。このことは、世俗的な変革を欧米資本主義の成長神話へと回収することによって懐柔する伝統的な資本主義戦略も、社会主義的な生産力主義と平等の神話も、その有効性が現実によって裏切られ、その効果が削がれてきたことを意味している。このことは、イデオロギーの分野において暗黙の前提とされてきた脱宗教化されたキリスト教文化やキリスト教を主として超克の対象として形成されてきた近代哲学や世界観が想定していなかった外部から、改めて「宗教」的な解放が民衆の心を掴んだかにみえる。西欧近代が、近代の世俗主義や哲学では「神」を殺すことができなかった、ということに気付いたのは、つい最近のことのようだ。しかし、日本の近代資本主義とそのナショナリズムが、天皇制という「神」の再構築とともに始まったということをよく知っている私たちにとって、資本主義的な近代は、神であれ世俗主義であれ、資本と国家の利益を最適化するためのイデオロギーであればどのようなものも利用する悪食を本質としていることを、今に連なる歴史の記憶として身をもって経験してきた。

テロリズムの問題は、イデオロギーや宗教の問題であり、世界観の問題でもあることを理解できても、このイデオロギーへの有効な対抗的な価値観を構築できなくなったG8/G7サミットに象徴される西欧近代の覇権システムは、結果として、軍事安全保障あるいは力による封じ込めという対症療法に頼る。結果として、紛争を長期化させ、かつ拡散させることになっている。そしてまた、イスラム原理主義に象徴的に示されている既存の覇権主義への異議申し立ては、欧米だけでなく、中国、ロシアといったG8/G7サミット外の新たな覇権指向の国家にとっても制御することが困難な問題となっている。中国的な発展もロシア的な発展も民衆が求める「解放」の基準にはなりえていないなかで、諸々の宗教原理主義と呼ばれる世界観が、「解放」の希望を民衆の与えているとしても、それは実際にこれらが民衆の「解放」を実現できているからではなく、民衆にとってはそれ以外の選択肢をもはや持ちえないところに追い込まれた結果だともいえる。これは世俗革命の失敗の結果なのだ。言い換えれば、無神論による資本主義のオルタナティブを構想する左翼が、なぜ敗北したのかという問題にいかに応えるか、という重い課題を提起している。少くとも私はこうした「宿題」を負っていると感じている。
核保有国(米英仏)を含むG7が出した広島宣言の意図は、既存の核保有大国の構図を前提に、ロシアや中国(そしてインドやイスラエル)といったG7外の大国に対して、G7の覇権を確保することを意図したものだ。したがって、核軍縮というよりもむしろ核拡散を牽制しつつ核の平和利用を推進することが可能なような既存の覇権システムの「安定」化、という不可能な夢を語ったものでしかない。東アジアで、また広島でこの宣言を出す政治的な効果をG7参加国がそれぞれ自国の国益に沿うものと位置付けた内容になることは間違いなく、そうとすればそれはどのような意味をもつのか。

原爆について、日本国内のコンセンサスと米国であれ中国であれ、諸外国がとる評価とは同じにはならない。そもそも広島、長崎への原爆投下の政治的軍事的な評価についての国際的な合意はない。ましてや原爆投下が非戦闘員を巻き込んだ戦争犯罪であるという国際法上の判断も示されてはいない。多方で、原爆投下が日本のポツダム宣言受諾による戦争終結の大きな要因になったということは、米国でも中国でも自国の兵士や民衆の犠牲を回避する上で有効な手段であったと評価して原爆投下を肯定する認識がある。

このことは、対テロ戦争の文脈のなかでは、別の意味を持ちかねない。つまり、
・空爆による抑え込みに限界がある場合には次の手段として「核」の使用がありうるということを示唆する威嚇効果
・広島・長崎の「記憶」を、大量破壊兵器使用の帰結がどのようなことになるのかということを国益の観点から「敵」に想起させるという核による威嚇効果
としての意味をもつことになるだろう。

原爆投下の非人道的な側面は、日本の国内政治のなかでは核兵器廃絶や平和の理念を支える最大の要因となるが、広島宣言ではこの観点を意図的に回避したことがこれまでも繰返し批判されてきた。むしろ、広島宣言の基本は、ロシアや中国によって脅かされつつある既存の覇権システムを維持することの正当性を、軍事と経済をリンクさせたG7各国の安全保障と国益──その犠牲になるのは敵味方を問わず民衆なのだが──として打ち出す結果になった。

戦争を人道に反する行為とするような普遍的な価値に関わる文言は一切なく、日本政府は平和を偽装するうえで格好の舞台として広島を選択し、広島はそのために利用されたとしか私には思えない。それだけではない。この宣言は、核廃絶の前提に既存の覇権システム(つまりG7諸国の覇権)が維持されること、というもはやありえない条件を設定しており、これは、既存の覇権国家が危機になる場合には、ある一定の条件の下では核戦争の可能性もありうることを想定しているとも「読める」宣言だとすらえいえる。

東アジアでは、上記のことが北朝鮮と中国への威嚇効果としてのメッセージになる。グローバルな観点でいえば、ISなどへの核拡散だけに注目が集るが、対テロ戦争が空爆や地上軍投入で決着がつかないということになれば、次の軍事的な選択肢のひとつに核の使用もまた現実味を帯びざるをえないだろうということだ。

以下、宣言に即してコメントする。
宣言の前文は
http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000147441.pdf


「原子爆弾投下による極めて甚大な壊滅と非人間的な苦難という結末を経験し,そして自らの街をこれほどまでに目覚ましく復興させた。」


原爆は究極的かつ不可逆的な破壊をもたらすとはいえず、復興が可能な程度の大量破壊兵器である。「甚大な壊滅と非人間的な苦難」に重点を置いて読むのか、それとも「これほどまでに目覚ましく復興させた」ことに重点を置いて読むのかで、原爆投下の意味が違ってくる。原爆投下によって敗北を認め、原爆投下国の支配を受け入れたことがその後の「復興」につながるというメッセージだという解釈が成り立つとすれば、核保有国による核使用を絶対的に否定することにはならないともいえる。


「我々は,国際社会の安定を推進する形で,全ての人にとりより安全な世界を追求し,核兵器のない世界に向けた環境を醸成するとのコミットメントを再確認する。」


ここでの「国際社会の安定を推進する形で,全ての人にとりより安全な世界を追求し」という表現は奇妙だ。「全ての人にとりより安全な世界」とは「国際社会の安定を推進する」ことを含むのは当然のことであり、「「国際社会の安定を推進することなく,全ての人にとりより安全な世界を追求し」といったことは考えられない。「国際社会の安定を推進する形で」という限定は、「核兵器のない世界に向けた環境を醸成する」という文言にかかると解釈すべきだ。「形」という日本語は、原文がa wayだから、むしろ「方向」とか「方法」を意味するので、


「我々は,全ての人にとりより安全な世界を追求し,国際社会の安定を推進する方法で,核兵器のない世界に向けた環境を醸成するとのコミットメントを再確認する。」


ということだろう。とすると、核兵器のない世界へ向けた環境構築は、条件付きだということになる。その条件とは「国際社会の安定」であり、一般に先進国、つまり現在の覇権グループがこの言葉を用いるときには、既存の覇権構造が揺らぐことのないような条件のもとでのみ、核兵器の廃絶を準備するということになる。言い換えれば、「国際社会の安定」が担保されなければ核軍縮はありえないという宣言でもある。

事実、上の文言に続いて「宣言」は以下のように述べる。


「この任務は,シリアやウクライナ,そしてとりわけ北朝鮮による度重なる挑発行為といった,多くの地域における悪化する安全保障環境によって一層複雑なものとなっている。」



ここではシリア、ウクライナ、北朝鮮を名指ししている。シリアもウクライナも核保有国ではないが、ここで名前が挙がっているのは、これら諸国に強い影響力をもつロシアへの牽制だろう。実際にこの宣言が言いたいことは、G8から離脱(あるいは除名)したロシアが既存の覇権システムを脅かす不安定要因なっている、ということを示唆したものだろう。この意味で、シリアとウクライナへの言及と北朝鮮への言及は同列ではない。つまり、ロシアと北朝鮮が「国際社会の安定」を損う現下で最大の要因となっており、こうした不安定要因が除去されない限り、核軍縮を進めないという宣言でもある。多方で、その次の段落では、「EU3+3とイランとの間の包括的共同作業計画(JCPOA)の合意及び継続的な履行を歓迎する。」と述べて、JCPOAを「国際社会の安定を推進する方法」の事例として挙げている。とはいえイランのケースが将来においても既存の覇権構造に統合される方向で抑えこまれるかどうか、含みを残しており、核軍縮を実現できる国際環境にはないことを示唆しているようにも読める。


「我々は,全ての側面において,我々のNPTへの強いコミットメントを強調する。我々は,未だNPTの締約国となっていない国々に対し,遅滞なくかつ無条件で加入するよう求める。」


NPTは、核兵器不拡散の条約であって、核兵器廃絶を目的としていない。既存の核保有国の優位性を確保するための「核兵器の一層広範にわたる分散の防止に関する協定」であり、核保有の独占を意図しており、核軍縮に向けた現実的な方向性は示されていない。また、「平和的目的のための原子力の応用を一層発展させるため可能な最大限度まで科学的情報を交換することに参加し、及び単独で又は他の国と協力してその応用の一層の発展に貢献する権利を有する」(前文)ということを前提し、条約成立後、スリーマイル、チェルノブイリ、福島といった大事故がありながら核の平和利用について再検討されないまま現在に至っている。
【注】http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/B-S51-0403.pdf

上の「未だNPTの締約国となっていない国々」とは、インド、パキスタン、イスラエルなどを指すが、ここの名前を挙げない理由は、インドやイスラエルがG7諸国と同調する諸国であることからの配慮だろう。つまり、現行の秩序の脅威にならない限り黙認ということだろう。


「核兵器のない世界に向けた更なる進展は,(略)我々が,国際安全保障を向上させつつ,断固とした,現実的な,そして漸進的なアプローチをとることのみにより達成できる。」


核軍縮の前提は、ここでもG7の安全保障能力の向上を条件としている。多方でG7の「国際安全保障」は、日本でいう「核の傘」といった表現に端的に示されているように、核兵器保有国であるということを前提とした「安全保障」でもある。

G7の覇権システムが脅かされるような環境があればさらに「現実的な,そして漸進的なアプローチ」をとるということは、ほとんど現実的には核廃絶を進める意思がないことを示しただけだろう。今後漸減する可能性があるかもしれないが、それは国際情勢に左右されるとしかいえない。NPT発行後の1980年代は核兵器は急増しており、冷戦末期の東西対立激化を反映していたとすれば、核兵器廃絶の問題は、通常兵器による武力紛争の問題と不可分だということになる。

宣言の最後の箇所で、国連安保理決議1540と2016年核セキュリティ・サミットの最終コミュニケやアクションプランに言及することによって「非国家主体」、つまり「テロリスト」への核拡散における脅威が強調される。しかし多方で「我々は,原子力の平和的利用にコミットし,引き続きIAEAと協力し,最高水準の不拡散,原子力安全及び核セキュリティを推進していく」とも述べている。

NPTは核の平和利用を前提(あるいは推進)する立場に立つ条約であることはこの宣言の前の箇所でも言及されているが、同時に、ここで述べられているように、核の平和利用がテロリズムに関わる安全保障と一体のものとして言及される宣言の構造は、兵器であれ民生用であれ核保有国が抱えているジレンマを暗示している。

原発に代表される核の平和利用の廃止は、度重なる核施設の事故を踏まえれば、また、再生可能エネルギーの大幅な技術革新を踏まえれば、核兵器の削減とは異なって、国家安全保障の現実主義的な立場が前提するような政治・軍事上のリスクは少ないだけでなく、核被害の直接的な被害をなくす上でも有効なはずだ。しかし、平和利用は、グローバルな市場経済の競争の論理のなかで、資本と国家の経済的政治的な利益が、核からの撤退を困難にしている。ここでは安全保障と市場の論理が不可分一体の構造をとっている。つまり、「平和利用」に固執するのは、そのこと自体が核保有国の国家安全保障における他国への軍事的な威嚇効果をもつことを暗黙に前提している、ということだ。同時に、G7諸国の多くは(ドイツも輸出についての態度は明確な脱原発にはなっていない)、国際原子力ロビーからの「平和利用」の推進の主体であると同時に、平和利用が有する潜在的核兵器保有国としての威嚇効果を計算に入れてもいる。原発の途上国輸出問題は、ロシアと中国というG7以外の核大国のグーバルな「平和利用」戦略をにらんで、これら諸国との国際競争に勝つことがグローバル市場での至上命題でもあるから、平和利用=原発輸出からの撤退はG7の枠組だけでは決められないということになる。

サミットは首脳によるトップダウンによるコンセンサスの場であり、先進国が標榜する 民主主義とは決定的に対立する物事の決め方だ。G7に正当性のお墨付きを与えかねないNGOなどのよるロビーイングは、この意味でむしろ問題があると思う。少なくとも日本の私たちがとるべきG7への態度は、日本の離脱以外にないことは明かだ。このことはどこの国にとっても共通する民衆のG7に対してとるべき原則的な態度だろうと思う。ここで重要なことは、このようなG7のトップダウンによる「コンセンサス」を阻止し離脱を可能にできるのは、G7各国の国内の民衆による、 民主主義の再建のための異議申し立ての力ということになる。
◉「12・6を忘れない6日行動」国会前行動  
 *とき:12時〜13時   *場所:衆議院第二議員会館前

◉4・6 院内集会
「戦争法の施行を許さない!秘密保護法と表現の自由」
 *とき:13時30分〜15時30分 
 *会場:参議院議員会館1階101会議室

 *報 告:「情報監視審査会はこれでよいのか」
  仁比聡平議員(共産党参議院議員、情報監視審査会委員、予定)他
  
 *発 言
  ●岩崎貞明さん(民放労連)
  「 放送への圧力は許さない!高市総務大臣発言を断罪する。
   ―高市総務大臣への公開質問から辞任要求声明まで―」

  ●寺中誠さん(東京経済大学教員、アムネスティ・インターナショナル日本
        元事務局長)
  「国際人権規約と表現の自由」

  ●「公共施設ですすむ表現の自由の規制」について
    ピースフォーラム湘南
    「九条俳句」市民応援団
  
 *質疑
 *資料代:500円
 *主 催:「秘密保護法」廃止へ!実行委員会
  連絡先:新聞労連 jnpwu@mxk.mesh.ne.jp/平和フォーラム 03-5289-
  8222/5・3憲法集会実行委員会(憲法会議 03-3261-9007・許すな!
  憲法改悪・市民連絡会 03-3221- 4668)/秘密法に反対する学者・研究
  者連絡会article21ys@tbp.t-com.ne.jp/秘密法反対ネット(盗聴法に反対
  する市民連絡会090-2669-4219・日本国民救援会03-5842-5842)
このブログの更新もままならないほど忙殺されてしまい、本当はもっと早くこのブログでも告知すべきものをアップできないままになってしまった。

以下、「核と被ばくをなくす世界社会フォーラム」のウエッブから転載します。わたし自身のフォーラムへの問題意識などはまた別途投稿したいと思う。



http://www.nonukesocialforum.org/
核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016開催概要(概要のあとにプログラムの詳細があります)

私たちは、核(核兵器と原子力発電)の軍事利用、商業利用に反対する市民です。2014年10月に日本で行なわれた議論から出発し、2015年3月、チュニスでの「世界社会フォーラム(WSF)」で継続された話し合いを通じて、私たちは、2016年に日本で、核に関するテーマ別世界社会フォーラムの開催を決定しました。開催の日程概要は以下のようなものになります。 (内容は随時更新されます)
チラシ(PDF)

プログラムの詳細はこちらをご覧ください。

3月23日 オープニングフォーラム(東京:韓国YMCA 9階国際ホール)
3月24〜25日 in 福島
3月26日(土)反原発集会とデモ(代々木公園、さようなら原発1000万人アクション福島原発事故5周年 全国集会に合流) 夜フォーラム(予定)
3月27日(日)全日フォーラム開催(東京:韓国YMCA 地下大ホール)
3月28日(月)午後 院内集会(予定) /夜(関連インベント)被ばく労働ネット主催の集会(韓国YMCA 9階国際ホール)

■会場  ※各セッションの会場となる、韓国YMCA、スペースたんぽぽは、徒歩15分ほどの移動距離です。
●韓国YMCA(在日本韓国YMCA アジア青少年センター YMCA Hotel)
〒101-0064 東京都千代田区猿楽町 2 – 5 – 5 アクセス地図
●スペースたんぽぽ
東京都千代田区三崎町2-6-2 ダイナミックビル4F アクセス地図

■参加費
●通し券:2,000円
 東京での23日オープニングフォーラムから28日分科会までの共通券。(※いわき集会の参加費は除く)
●各分科会、1回券:1,000円
※生活困窮の方は、参加費変更あり。当日、受付でお申し出ください。

 このフォーラムは、これまでの世界社会フォーラムの活動をふまえて、国境を超えた原発や核兵器だけでなく、ウラン採掘から住民や労働者の被ばく、廃棄物問 題、そして経済から安全保障に至る多様な核問題に取り組むグローバルな運動を目指す第一歩として、これらの課題に取り組む皆さんの参加を期待して企画され ました。

 本フォーラムは、世界社会フォーラムのこれまでの経験を背景に実施されます。世界社会フォーラムは、2001年 以来、新自由主義グローバリゼーションや対テロ戦争への反対運動などを通じて貧困や戦争のない「もうひとつの世界」を模索するグローバルな運動として重要 な役割を担ってきました。本フォーラムは、この世界社会フォーラムのこれまでの運動の蓄積と経験を核廃棄の運動へと繋ぐことを意図しています。日本は、広 島・長崎の被ばく体験の後も、第五福竜丸の被ばくを経験しながら、世界有数の「核先進国」の道を歩み、更に、2011年 の福島原発事故の深刻な被害にもかかわらず原発再稼動と原発輸出を積極的に推進する国であり続けています。幾度となく核の被害を受けながら、なぜ核開発を 推進するのか?という疑問は、各国の反核運動から日本の私たちに投げかけられている厳しい問いかけでもあります。こうした問いかけに応えつつ、今回の フォーラムは、日本国内の反核運動と世界の運動を繋ぎ、核のない「もうひとつの世界」へ向けたグローバルな運動の第一歩としたいと考えています。

 以上の開催趣旨に賛同いただける方は、是非開催のためにご助力をいただき、あわせて当日のフォーラムにもふるってご参加いただきますよう、ここに呼びかけます。(呼びかけ団体、個人などは裏面をごらんください。)

賛同人となられる場合には、個人の場合一口2000円、団体の場合は一口5000円
【振込先】
郵便振替口座■名称:反核WSF基金■口座番号:00110-0-696242
ゆうちょ銀行■店名:〇一九(ゼロイチキュウ) 店番:019■預金種目:当座■口座番号:0696242

なお上記は目安です。財政状態や団体規模などに応じて減額されて構いません。
連絡先: ogr@nsknet.or.jp 070-5553-5495(小倉利丸: 事務局)
ウェッブ http://www.nonukesocialforum.org



http://www.nonukesocialforum.org/?page_id=77
核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016 3月23日〜28日 チラシ(PDF)
3月23日(水)
19:00~21:00
『オープニングフォーラム』
 会場:韓国YMCA 国際ホール
 発言:シコ・ウィタケー( ブラジル、世界社会フォーラムの創始者の一人)など

3月24日(木) 福島フィールドワーク
18:30~21:00 福島 いわき集会 会場:いわき市労働福祉会館
3月25日(金) 福島フィールドワーク

3月26日(土)
11:00~ (14:40~デモ出発予定)
「原発のない未来へ! 3・26全国大集会」 ブース出展と集会での発言、デモ参加
会場:代々木公園
http://sayonara-nukes.org/2016/01/160326-action-no-nukes/

19:00~21:00
分科会1 『映画「サクリファイス」上映と監督の歓迎会』
 会場:韓国YMCA 会議室303
 発言:ヴラディーミル・チェルトコフ(イタリア、『真実はどこに』 『サクリファイス』 監督)

18:00~20:30
分科会2 『クライメート・ジャスティスの観点からCOP21 交渉を、そして原発再稼働を考える』
 会場:スペースたんぽぽ
 発言:明日香壽川(環境エネルギー政策論、東北大学)、春日匠(科学技術社会論、ATTAC 関西)、ベルナール・ラポンシュ(フランス、原子炉物理学、元仏原子力庁・環境エネルギー庁高官)
 内容:気候変動の影響に喘いでいる国や地域、人々はむしろ途上国に多い。では、気候変動枠組条約の「共通だが差異ある責任と能力(CBDR&RC)」原則は、昨年12月パリのCOP21交渉では、どの程度満たされたのだろうか。本ワークショップでは、クライメート・ジャスティスについて考える。そして、原発再稼働が温暖化対策にならないことを立証していく。
 主催:ATTAC Japan国際ネットワーク委員会

3月27日(日)
10:00~12:30
分科会3 『原発を輸出しないで! 〜アジアの人びとの叫び』
 会場:韓国YMCA スペースY
 発言:メチン・グルブズ(トルコ、シノップ反原発プラットフォーム)、プナール・デミルジャン (ト
ルコ、脱原発プロジェクトnukleersiz)、ラリター・ラームダース(インド、核廃絶と平和のた
めの連合)、アミルタラージ・スティフェン(インド、反核運動全国連合)イ・ホンソク(韓国、
エネルギー正義行動)、コラソン・ファブロス(フィリピン、非核フィリピン連合)など
 内容:欧米諸国で行き詰った原子力産業は、生き残りをかけてアジア各国でその動きを強 めている。日本では国内での原発新増設の問題に加えて、原発輸出の問題も深刻さを増している。
本セッションでは、三菱とアレバが4基輸出予定のトルコ・シノップ、米仏の原子力企業と結んで日立、東芝、三菱が大規模な原発輸出をねらうインドなど、輸出される側の声に耳を傾ける。そして、輸出する側の国に住む者がどうすべきかを明確にし、原発輸出を「挟み撃ち」にして食い止めるための議論のきっかけとしたい。
 主催:No Nukes Asia Forum

13:00~15:30
分科会4 『福島での犯罪と命の救済』
  会場:韓国YMCA スペースY
 発言:飛田晋秀(福島を撮り続ける写真家)、松本徳子( 郡山市からの母子避難者)、柳原敏夫(「子ども脱被ばく裁判」弁護士)など
 内容:原発事故後の日本政府の政策の根本原理は「事故を小さく見せること」、その結果、最大の犠牲者は子どもたちだった。5年間の巨大権力犯罪の核心を紹介し、子どもと被災者の命を守るための新たな行動を提起する。
  主催:脱被ばく実現ネット

13:00~18:15
分科会5 『広島・長崎・ビキニ・福島を体験した国で、原発はなぜ再稼働されてしまうのか?』 
 会場:スペースたんぽぽ
 発言:松久保肇(原子力資料情報室)、加藤一夫(ビキニ市民ネット焼津代表幹事)、鵜飼哲(一橋大学教授)、武藤一羊(ピープルズ・プラン研究所共同創立者、現運営委員)
 内容:敗戦直前、無差別大量殺傷兵器である原爆が、アメリカによって広島と長崎に投下され、アメリカによるビキニでの水爆実験により、日本の漁民も死の灰をあび、さらには、福島東京電力原発事故で、今も空に海に地上に放射能が放出され続けている。こうした歴史と現状で、何故、日本の原発の再稼働ラッシュなどという事態がつくりだされてしまっているのか。この流れに抗するために、何が可能か、ともに討論したい。
 主催:ピープルズ・プラン研究所(PP研):People’s Plan Study Group、福島原発事故緊急会議

15:45~18:15
分科会6 『被曝労働問題の現状〜フランス・ウクライナ・韓国・日本』
  会場:韓国YMCA スペースY
  発言:フィリップ・ビヤール(フランス、原発下請労働者)、ムィコラ・ヴォズニューク(ウクライナ、チェルノブイリ原発事故処理作業者)、ギム・ヅチョン(韓国、原発非正規職労組)
内容:被曝労働問題はどの国でも社会的には闇の中にあり、原発が抱える問題の中に位置づけられていないことが多い。各国の現状を報告し、共通の課題を抽出する。
主催:被ばく労働を考えるネットワーク

18:30~21:00
分科会7 『エートス問題と国際原子力ロビー』 会場韓国YMCA スペースY
  発言:ヴラディーミル・チェルトコフ、松井英介(予定)、ティエリー・リボー、セシル・アサヌ
マ= ブリス、コリン・コバヤシ
  詳細はこちらのPDFファイルをごらんください

3月28日(月)
10:00~11:30
『国際戦略会合』 会場:スペースたんぽぽ

13:00~16:30
『 「核と被ばくをなくす世界社会フォーラム2016」参議院会館集会 』
  会場:参議院会館 講堂
  ※12:30から、議員会館ロビーにて通行証を配ります。
13:00~14:00 院内集会 「原発輸出反対!アジアからの声」
発言:メチン・グルブズ(トルコ、シノップ反原発プラットフォーム)、プナール・デミルジャン(トルコ、 脱原発プロジェクトnukleersiz)、ラリター・ラームダース (インド、核廃絶と平和のための
連合)、アミルタラージ・スティフェン(インド、反核運動全国連合)など
14:00~16:30 上映会 映画『真実はどこに? -WHOとIAEA 放射能汚染を巡って』
原題:Controverses nucléaires (2004年Fedat Film Switzerlan)
      発言:ウラディミール・チェルトコフ監督、コリン小林(ジャーナリスト)、松井英介(医師)、
  大石又七(元第五福竜丸乗組員)、ムィコラ・ヴォズニューク(ウクライナ、チェルノブイリ原発
           事故処理作業者)など

18:30~21:00
『被曝労働者の権利を求める国際連帯シンポジウム』
 会場:韓国YMCA 国際ホール
 発言:フィリップ・ビヤール、ヴァレンティン・ヘラスィムチュク(ウクライナ、チェルノ ブイリ原発事故処理作業者)、
ギム・ヅチョン(韓国、原発非正規職労組)
  内容:前日のセッションでの報告を受け、原発被曝労働者の労働・安全問題について、今後の運動の方向性と国際連帯運動の可能性を議論する。
  主催:被ばく労働を考えるネットワーク

【会場・アクセス】 ※各セッションの会場となる、韓国YMCA、スペースたんぽぽは、徒歩15分ほどの移動距離です。
●韓国YMCA(在日本韓国YMCA アジア青少年センター YMCA Hotel)
〒101-0064 東京都千代田区猿楽町 2 – 5 – 5 アクセス地図
●スペースたんぽぽ
東京都千代田区三崎町2-6-2 ダイナミックビル4F アクセス地図

【参加費】
●通し券:2,000円
 東京での23日オープニングフォーラムから28日分科会までの共通券。(※いわき集会の参加費は除く)
●各分科会、1回券:1,000円
※生活困窮の方は、参加費変更あり。当日、受付でお申し出ください。
(以上、3月16日更新)
ずいぶん前に書いた文章をアップしました。

「ロック・ポップスにおける異文化間のスタイルと意味の伝播──デヴィッド・ボウイのセクシュアリティを中心に」『女?日本?美?』(熊倉敬聡・千野香織編、慶應義塾大学出版会、1999年)所収


PDFファイル
ノーニュークスアジアフォーラム(NNAF)は設立されてから22年になるという。私はNNAFの存在を知ってはいたが、実は、直接の関わりをもったことがない。80年代から石川の志賀原発反対運動の周辺で、たまに反原発運動に顔を出す程度の中途半端な関わりしかできてこなかった者にとって、NNAFの存在はちょっとまぶしすぎるきらいがあり、遠くからその持続する運動のしたたかさを「すごいなあ」とながめるのがせいぜいだった。

今回刊行された『原発をとめるアジアの人びと』は、この22年のNNAFの足跡を端的に紹介するとともに、多様でしたたかな民衆の闘いの豊穣さを紹介したものとして、実は、あるようで類書のない貴重なドキュメンタリーでもある。

インド、トルコ、ベトナム、インドネシア、台湾、フィリピン、タイ、韓国について各国ごとに、反原発運動を、草の根の運動の視線から、ひとつひとつの闘いを丁寧に紹介している。これらの運動に共通するのは、継続する意志と多様な、ときには思いがけない戦術、そして非暴力直接行動による権力を追い詰めるしたたかさだろうと思う。本書で繰りかえし指摘されていることだが、アジア諸国に原発が導入されるのは、一方で原発を輸出しようとする日本をはじめとする先進国の国際戦略と同調する独裁的な政権による。民主化以前の台湾、韓国、インドネシア、フィリピンがそうであり、現在のベトナムやトルコもそうだろう。しかし、こうした独裁的な権力支配にあっても、草の根の反原発運動は絶えることなく継続されただけでなく、直接間接に、独裁を打倒し、民主化へと体制を転換させる力を生み出した民衆運動の重要な一翼をも担ってもいた。本書はこうした事情を紹介して、日本がいかに独裁政権を支えてきたのかという問題を繰りかえし指摘する。

反原発運動は、それ自体としてはシングルイッシューだ。多くの場合、原発立地は、農村・漁村などの「田舎」であって、有力な政治運動や政治組織が立地する場所からは遠く隔ってもいる。しかし、逆にそうだからこそ、コミュニティの自立的な運動や創意工夫、トップダウンの組織化ではない、平場の運動の創意工夫と緩やかなネットワークの形成が可能になったともいえる。

福島第一原発がアジアの運動に与えた衝撃の大きさは、本書でも随所で言及されている。この事故以降、各国の原発推進政策は後退する。日本のマスメデアは、各国政府がこの事故から教訓を得て自主的に原発政策を転換させたかのように報じてきた。しかし、本書を読むと、むしろ各国政府の政策転換を実現する力になったのは、それぞれの国の原発推進の思惑を覆す反原発運動の高揚と、これを支えた福島の真実を共有する草の根の活動だった。言い換えれば、もし、運動の高揚がなければ、福島の事故があろうとも、各国の原発政策は推進一本槍で維持されたに違いないということだ。というのも、アジア諸国の民衆が、メディアを通じて福島の状況を仔細に知るることはほとんど不可能だったろうからだ。多くの場合「福島の事故は収束した」と報じられたり、「福島の事故とわれわれの核政策とは関係がない」という、かつて日本でもみられた報道や政府の態度(チェルノブイリとは炉型が違う、とか、ソ連は社会主義で安全対策がずさんだ、とか)がどこの国にも見られたが、これに反撃し、原発の危険性を具体的な運動の交流を通じてアピールする力を培ってきたのが、各国の反原発運動だったし、これを実現してきたのがNNAFの活動だったのではないか。

本書で繰りかえし指摘されているのは、フクシマを経験しながらも原発輸出をこれまで以上に推進しようとする政府と原子力産業の姿勢を許している日本のわたしたち、この国の主権者の責任ともいえる問題だ。強権的で独裁的な国をターゲットに次々に原発を輸出し、製造業者の責任を回避する原子力協定を結ぶこの国の政策を、アジアの民衆運動は、あるときは撤回させ、あるときは立ち往生させ、またあるときはとりあえずの「敗北」から起死回生への道を探る。それぞれの国の政府の時には、投獄や死者すら出すような厳しい弾圧に抗して、日本政府を時には翻弄する民衆の力に対して、言葉では表現しつくせないものを感じる。

もうひとつ、本書で言及されている重要な観点は、発電施設としての原発が同時に核兵器のための原発でもあるという核の二面性を、アジアの運動は日本の運動以上に自覚的な場合が多く見出せるということだ。インドはその典型だろうが、今後ますます原発輸出がアジアから中東、北アフリカへと広がるなかで、原発が軍事安全保障問題と不可分だという認識を私たちがきちんと持つことは必須だろうと思う。これは、原発の事故や狭義の意味での科学技術上の問題という観点だけではなく、国際関係や安全保障にも関心をもつ必要があるということを示している。

世界の地域別原子力発電設備見通し(新政策シナリオ)(WEO2014)によれば、2012年から40年の間に、OECD諸国(つまりいわゆる「先進国」)の世界に占める原発設備のシェアは横這いである一方で、いわゆる途上国は四倍増となるという見通しをたてている。なかでも中東、インド、中国を含むアジアがとび抜けて高い原発発電設備の増加が見込まれる国・地域だとしている。これは、いわゆる新興国をはじめとして、工業化・近代化を推進しようとする国・地域が、地政学的に石油への依存を回避し、かつまた、気候変動の国際的な枠組による規制をも回避しようとすればするほど、原発に依存する傾向が強まることを示しており、グローバルな経済構造(エネルギー過剰消費の構造)を転換することなしには解決できない問題でもある。そして、どこの国でも、国家の繁栄の象徴は、経済的な「豊かさ」と軍事的な「強さ」の観念にとらわれているとすれば、民衆の反原発運動は、この二つの観念を拒否するコミュニティのオルタナティブを創造(想像)する可能性を秘めたものだと思う。日本には数えきれない多くの反原発運動や反核運動がある。とはいえ、日本の運動がアジアの多様でしたたかな運動から学ぶべきことはまだまだたくさんある。また、この国の政府と業界の横暴を押し止めるためにも私たちがやらねばならない宿題も沢山ある、このことを本書は闘いのメッセージとして伝えてくれていると思う。
(創史社、1500円+税)

初出:ノーニュークス・アジアフォーラム・ジャパン機関誌
危機管理(テロ対策)の名の下での権力の濫用

*「戦争」の再定義

集団的自衛権を合憲とする強引な解釈に基く安全保障関連法案(以下、戦争法案)が強行採決によって国会を通過し、今後は、この新たな法制度のもとで、自衛隊をはじめとする軍事関連の組織による戦闘行為の危険性が更に一段と強められることになった。

日常感覚として、私たちは、現在の日本が戦時だとは感じていない。自衛隊が海外の戦闘行為を目的に派兵されているわけではないし、どこかの国と交戦状態にあるわけでもない。現在の日本は戦前・戦中の日本のような不自由な社会ではないと多くの人びとは信じているようにみえる。しかし現実には、米国の対テロ戦争の同盟国として、戦闘行為に直接参加していないが、その片棒を担いでいるのがこの国だ。このことを踏まえて日本の市民的自由を再検証する必要がある。

米国は今でも日本の旅行者が遊びにでかける人気の国のひとつだ。米国に行ったとしても、そこで暮す人びとから戦争の影を見ることはほとんどない。同様のことは、戦場に派兵している欧州諸国にもいえることだ。他方で、欧米の軍隊が展開している中東アラブ地域の人びとは、たとえ自分たちが暮す場所が戦場にはなっていなくても、戦争への不安は強く、欧米国内の「平和」を共有することなどできない「戦時」の意識を抱く。アラブ中東からの大量の難民はこのことを象徴している。戦時とは、「平和」にみえる現実のなかでも水面下に存在しうることを自覚することは、日本の現実を見誤らないためにも必要なことだ。平和に見える日本もまた戦争に加担していないかどうか、と自問してみる価値は十分にある。つまり、戦争法が成立した現在は、瀬戸際にはあるものの、日本は戦時ではない、ということなのだろうか?もしかしたら、すでに「戦時」なのではないか?安倍政権は「戦時」を意識した法制度や政策の転換を図ろうとしているのではないか。

今年(2015年)の8月14日に、安倍首相は、戦後七〇年の「談話」を発表し、そのなかで、「満州事変」を念頭においているのだろうが、一九三〇年代以降に限って、日本の行為を「自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去」と述べた。他方で「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と述べ、戦争を正当化した。安倍の歴史認識では、台湾、朝鮮併合は植民地支配は反省の対象にすらなっていない。

一九四五年に区切りがついた一連の戦争の出発点をどの時期に求めるのか、今に至るまで定説はない。むし日本近代は戦争の連続だった。日清戦争以降、台湾と朝鮮の植民地化、第一次世界大戦参戦から満州事変へと、日本の戦争と軍隊の海外での展開はほぼ半世紀続いてきたといえる。当時の日本「国民」の意識は、戦時という意識ではなかっただろう。だが、日本の軍事的な支配にさらされたアジアの人びとの意識はむしろ一貫して「戦時」の抑圧と緊張を強いられ続けてきたのではないか。

一九四五年以後、「冷戦」と言われながら戦争は世界中で続き、日本は、基地の提供から軍需物資の供給まで、日米安保体制のなかで米国の戦争を支えてきた。いわゆる第三世界での戦争を軽視して、欧米諸国とその本土が戦場にならなかったことをもって「冷戦」と呼ぶことは、それ自体がある種のイデロギー操作だ。グローバルな視点でみたとき、冷戦もまた戦争の時代だった。

「戦争」とはどのような事態なのかを、自国の領土が戦場になっているかどうかとか、自国の軍隊が戦闘行為を行なっているかどうかといった観点からだけで判断するのは、戦争の実体をかなり狭く捉えることになってしまい、実際に起きている戦争への加担のありかたを見逃す危険性をもってしまう。日本の場合も国憲法九条によって他国よりも大きな制約を課されていることに安心して、この国が戦後憲法下にあっても、米国の戦争に加担してきたことを軽視してはならないだろう。

今回の戦争法制は、極右の安倍政権が突然持ち出してきた突拍子もない法案だということではない。残念なことだが、むしろこうした法制度が準備されるだけの前提条件をこの国が既に持っていたという現実の重大さに気づくかなければならない。それは、戦闘行為を実行できるだけの武力が既にこの国には存在している、というところに端的に示されている。九条という制約にもかかわらず、すでこの国には武力行使に十分なだけの軍事力も軍事予算も毎年計上されるという違憲状態が半世紀にわたって続いてきた。戦争法は、この現実の「武力」を行使する上での制約を大幅に外した。広島・長崎そして第五福竜丸の被ばくを経験しながら、日本は「平和利用」を口実に核開発の手を緩めたことはなかった。問題の根は深い。戦争法を廃止するだけでは十分ではない。戦争法が実効性をもってしまうだけの戦力を現実に保有しているということ、核兵器転用が可能な膨大なプルトニウムを保有していることが問題の核心だ。法だけでなく現実の「武力」を廃棄するための具体的な法の制定が必要でもある。

*「秘密戦」と市民的自由への抑圧

戦争や戦時の概念をこのようにやや幅広くとって理解すると、市民的自由についても、別の側面に光があたるようになる。戦時になると市民的自由よりも国家の安全保障が優先されるようになる。これはどこの国にもいえることであり、米国も対テロ戦争以降、愛国者法によってあからさまな市民的自由やプライバシーの権利を制限しはじめたように、市民的自由が抑制される事態は、戦争状態のひとつの指標だ。

平和運動では、戦車や戦闘機による武力行使に注目があつまり、この意味での「武力」についての議論や批判については、世論の規制の効果があがるばあいがあるが、戦争はこれだけではない。右に述べた市民的自由への干渉もまた戦争との関係で十分に注目しておく必要がある。

すこし戦前のことを振り返ってみよう。一九四〇年に内務事務官緒方信一は次のように戦争の特徴を述べていた。

 「近代戦の特質は所謂国家総力戦たる点に在る。即ち戦の勝敗を終局的に決定するものは単に武力でなく、国家の政治体制、経済的実力、又は国民思想の動向等国家総力の充実如何に存する。従って近代戦に於ては武力戦と並行し或は之に先行して外交戦、経済戦、思想戦が熾烈に展開されるのである。(略)斯る新しき形態の戦に於ては、諜報・謀略・宣伝等所謂秘密戦 の価値が極めて重要になって来るのである」(内務事務官緒方信一「防諜」『警察協会雑誌』一九四〇年六月号)


緒方は、戦争の概念を幅広くとり、新しい戦争形態として「諜報・謀略・宣伝等所謂秘密戦」があるという。そして、諜報、つまりスパイ行為とは「隠密の間に相手国の軍事・外交・経済・国民思想・国民体位等凡そ国家総力の判定基準となるべき一切の資料を探知収集し、之を通報せんとする行為を指称する」と定義してる。そして戦争にはこうした「秘密戦」なるものも含まれるというのだ。戦争は戦場で敵に対する武力攻撃だけを意味するのではなく、自国民もまた意図するかしないかにかかわらず利敵行為を行う可能性があるものとして監視の対象にされる、ということを指摘している。

これは、戦争にとって情報が武力行使と同様非常に重要だということを示唆している。軍事のイロハだが、「敵」の動向を軍隊の動向だけでなく敵国全体の状況を仔細に把握できてはじめて武力行使が可能になる。戦前の日本は、侵略した地域の住民や政治・経済・社会情勢を仔細に調査していたし、そのために大量の研究者を動員する一方で、軍や警察による諜報活動を組織的に展開し、更に町内会などの住民組織を動員して相互監視体制を敷いた。

政府は、外国系の銀行、会社、商店、教会、学校、社交団体などの「外国の合法的な組織の網」が合法的に行なう情報収集の危険性を一般大衆に宣伝してもいる。内閣情報局が発行していた大衆向けの広報誌『週報』には次の様な例示がある。重要な秘密兵器の全体の設計図は金庫の中にあっても、「部分々々の図面は必要な方面に配布され、部分品は職工の手によって作られている筈」なので「外へ出ているものを、ひとつひとつは断片的なものでも、沢山集めれば金庫の中の本尊がわかるのである」。こうしたことを日本国内に支店網をもつ外国企業などが実行することがありうるとして、以下のように警告する。

 「例えば会社が全国に百ヶ所以上の支店、出張所などを持っているとする。一つの出張所から更に百の特約店を出しているとすると、全国に一万以上の第一段の網があるわけである。この特約店等に出入する人々を第二段の網とし、更にこれらの人に接触する人の数を考えてみると、とても想像できない程の多数に上り、これだけの網があれば全国のことは何でも集まるわけである。」


あるいは、日常的な井戸端会議を例に以下のようなことを述べている。

「例えばどこそこの誰が応召した、という話は、個々の事実としては大した価値はなさそうに見えるが、『どこの誰がどの師団に応召した』という話を日本全国からたくさん集めると、今日本ではどの師団とどの師団、計何ヶ師団を動員しているということが直ぐわかる。(略)即ちある土地での見聞では、局部的で大した価値のないことでも、広く日本全国に網を拡げている合法的な組織の網にひっかかり、そこで整理されると重大な情報となるのである。スパイは、何でもない話、断片的では決して法規にはひっかからない話を広い範囲から集め、整理して、重要な秘密事項を察知しているのだということを、国民はよく認識して、おしゃべりに注意していただきたい。でないと、スパイの片棒をかついだという結果になるのである。」(『週報』、内閣情報局、一九四一年五月一四日号)


ここで指摘されていることは二つの観点に整理できるだろう。一つは、ひとつひとつの情報は国家機密とはいえない断片的なものであっても、これらが網羅的に収集されることによって、全体として国家機密とされている情報を再構築できる、ということである。もう一つは、企業活動や一般市民の日常生活が「敵」に利用されないためには、これらの市民の日常生活について、相互監視の態度が必要であるということ。「防諜思想の昂揚」、「自己防諜の徹底」、国家の指導による「官民一体の国家防衛」が強調されることになる。戦前の日本は、多くの「防諜法制」をもっていた。しかし、政府の認識は、こうした法制度だけでは不十分であって、合法的な領域であっても法を超越して人びとの行動やコミュニケーションを監視できるような体制に市民自らの自発的な参加によって実現しようとしてきた。

こうした政府の防諜キャンペーンは、同時に日本政府自体が行なう諜報活動がどのようなものであるかをも示すことになっている。日本政府もまた、日本の企業などを活用して、主に植民地や占領地域で網羅的な情報収集し、自国民を含めて、人びとの日常生活を仔細に監視し、些細なコミュニケーションにまで目配りして、過剰なまでの言論統制を敷くことを、日本の戦争遂行にとって必要な「自衛」措置だと考えていた。こうして戦前・戦中の日本がきわめて抑圧的な自由を大幅に制限された環境を生み出すことになった。治安維持法による言論弾圧はその氷山の一角であり、広範囲にわたる市民的自由を人びとが権力からの抑圧を恐れて自ら手放すだけでなく、相互に監視しあう環境ができあがった。しかし、多分多くの人びとにとって、この不自由な時代は、受忍限度内にあるものとして受け入れられてしまった。戦時にあって国家のために命をかけて戦争に赴く若者たちへの心情的な同調と靖国に象徴される戦争神聖視の国家イデオロギーへの同調が、戦争への素朴な疑問や抵抗の言論を駆逐する下からの力を支えつづけてしまった。敵国のスパイなるものへの恐怖、他方で死者への冒涜をはばかる道徳意識が、自由を犠牲にする結果をまねいた。

*監視社会の本質は変っていない

この戦前・戦中の諜報活動と市民的自由をめぐる全体の構図は、過去のものではない。ウィキリークスやエドワード・スノーデンが暴露した米国の諜報活動から明かになったことは、米国の情報収集活動の意図は、網羅的な情報収集にあったことが明かになっている。インターネットの時代であれば、これは世界中に張り巡らされている情報通信のネッーワークを監視することになる。米国は、大量の人員と莫大な予算と高性能のスーパーコンピュータを駆使して、地引き網のように情報を取得して、そのなかから必要な情報を選別することを、実際に実行してきた。そして、マイクロソフトやグーグルやインターネットの通信インフラ業者など、米国のIT大手もまた米国の諜報機関に、国籍に関係なく世界規模で個人情報を提供していたことが知られている。スノーデンが米国国家安全保障局の人間として活動するときにも米国企業の社員という表向きの肩書を利用し、在日米軍基地とも連携した行動をとっていたのではないかと言われている。

今明らかになっているのは、米国の市民的自由を憂慮した勇気ある人たちによる内部告発に基づくために、日本政府がどのようにこの米国の「秘密戦」に加担してきたのか、監視・諜報活動を内外で実施しているのか、その実態はまだ明かではない。しかし、戦争法の制定は、日本政府が、戦争を前提とした監視や諜報活動へと更に一歩踏み込むことは間違いない。どこの国でも、もはや自国民か外国人であるかを問わない監視をはじめている。IT化にともなって、政府も民間企業も、戦前・戦中とは比べものにならないほど莫大な個人情報を蓄積している。他方で、ネットは日常生活の必需品になっており、マスメディア中心の時代に比べて、SNSを活用した人びとの言論やコミュニケーションの自由が一見すると大きな広がりをみせているようにみえるが、この自由なコミュニケーションを監視する技術もまた格段に高度化しているのだ。

戦争法だけでなく、秘密保護法やマイナンバー制度、あるいは盗聴法の大幅拡大といった市民的自由の制約の立法化にとどまらず、教科書の歴史認識からヘイトスピーチの横行、政権を批判する言論へのあからさまな介入などまで、自由への干渉が一段と厳しくなっている。日本の現状は、まさに「戦時」を政府が意識しているということに他ならないように思える。秘密保護法やマイナンバー制度、今国会では成立しなかったが盗聴法の改悪などは、いずれも、戦争法の成立によって根本からその性質が変質したものとみなければならない。市民的自由は憲法に言論表現の自由が権利として明記されていたとしても、常に闘うことによってしか獲得できない。戦争法は成立したとはいえ、その廃止を求める声は依然として大きい。こうした声と秘密保護法、マイナンバー制度、盗聴捜査など警察の捜査権限の拡大などに反対する闘いが有機的な連携をとることが必要だ。戦争に反対し自由を獲得する大衆運動が今ほど必要な時ではない。

初出:『まなぶ』2015年11月号

東アジアのヤスクニズム展

カテゴリ : 
表現の自由
執筆 : 
toshi 2016-1-11 12:12
(展覧会評)東アジアのヤスクニズム展

洪成潭(ホン・ソンダム)、韓国全羅南道出身の版画家であり画家でもある。一九八〇年代の光州民衆抗争では光州市民軍文化宣伝隊として参加し、一連作版を制作するなど、戦後韓国の権力の抑圧と闘う民衆を主題とした作品を制作してきた。(日本では『光州「五月連作版画‐夜明け」ひとがひとを呼ぶ』夜光社刊)その一方で、民衆の芸術運動の実践家として市民美術学校開設などの活動もしてきた。一九八九年に国家保安法によって三年間投獄され、過酷な拷問を受け、その後遺症が今でも残っている。このときの拷問の経験を作品にした「浴槽――母さん、故郷の青い海が見えます」が二〇〇七ー八年に日本で開催された『民衆の鼓動−韓国美術のリアリズム1945−2005』展に出品された。

洪成潭の日本との直接の関わりは、今回の展覧会で展示された連作絵画「靖国の迷妄」で日本の植民地支配を真正面からとりあげつづけてきたことだろう。「靖国の迷妄」は、二〇〇七年に東京・茅場町のギャラリーマキでも展覧会が開催されたことがあるが、今回は、当時の作品に加えて、それ以後現在までに制作されてきた多くの作品が一同に会した。一連の「靖国の迷妄」作品群を一度に展示する試みは今回が初めてではないか。洪は、二〇一四年の光州ビエナーレ二〇周年特別展覧会に「セウォル5月」(洪成潭、視覚媒体研究所共同制作)を出品する。この年の旅客船セウォル号の沈没事故は政権を揺がす大問題になったが、洪はこの事件を朴槿恵(パク・クネ)政権の本質が露呈した事件として批判したために展示を拒否された。

この作品を含めて、洪成潭は呵責なき権力批判の表現者であることを徹底して貫き、彼の作品は発表されるたびに、韓国国内のマスメディアに叩かれてきた。たとえば、「セウォル5月」や朴槿恵が彼女の父親そっくりの赤ん坊を産むシーンを作品など現職の大統領を主題にした作品への検閲は非常に厳しく、たぶん公開されることはほとんどないのではないか。また、今年起きたリッパート駐韓米国大使襲撃事件を主題にした「金基宗の刃」(金基宗はリッパート大使を襲撃した人物)がソウル市立美術館に展示されたときには、「税金で運営される市立美術館にテロを美化する絵が展示されていることは、芸術を口実にしたさらなるテロだ。」とすら『東亜日報』に批判された。(電子版、日本語、9月9日)彼の作品のなかでも現政権を批判したと解釈される作品の海外持ち出しは、事実上禁止されているために、今回の展覧会でも韓国側の税関を無事通過するまで主催者は大きな緊張を強いられたという。

今回の展覧会の会場となったのは、ギャラリーではなく芝居小屋である。壁は黒く塗られ、白い壁に作品を展示する美術の空間とは真逆なのだが、むしろこれが洪の作品にとってはまたとない印象深い空間となった。この展覧会では、靖国問題そのものを直接の主題にして描かれていた初期の作品群から、戦後東アジアの韓国や台湾など旧日本植民地だった諸国が、解放後から現在に至るまで、その政治と社会に内面化させてしまった「ヤスクニ的なるもの」、言い換えれば、抑圧のナショナリスムにも光を当てた作品まで、洪の視野が大きな拡がりをみせてきた流れを一望できるものになった。この意味で、今回の展覧会のタイトルにもなっている「ヤスクニズム」(これはダグラス・ラミスの命名である)はこうした洪の作品の拡がりを的確に表現している。

洪が自らの作品「靖国と松井秀男伍長」に付した詩がオープニングなどで何度も朗読された(朗読は東京演劇アンサンブルの洪美玉さん)。この作品が象徴しているように、朝鮮人でありながら日本名で靖国に祀られた植民地出身の兵士を主題とした作品、あるいは「従軍慰安婦」として強制連行された女性たちの少女時代から切り刻まれて死に至るまでを描いた作品など、朝鮮民衆の心情に寄り添う作品が『靖国の迷妄』の出発点にあった。こうした過去の記憶を出発点とする作品群に対して、最近の彼の作品には別の傾向があらわれている。それが先に触れた九段にある靖国神社という固有名詞の存在に限定できない、ある種のイデオロギーあるいは支配の装置として、東アジアの空間に浸透している「ヤスクニ」である。これは、今ここにある政治や社会に内包された「靖国的なるもの」の問題に焦点を当てるようになってきたということだ。このヤスクニズムを象徴する作品として、会場入口の左側に展示された大作「ヤスクニ−フクシマ」がある。この作品では、中央に靖国神社の鳥居、左に事故で煙を上げる福島原発、右に沖縄のシーサーと米軍のオスプレイが描かれている。画面全体を大きな波とこれに抗うように怒りに満ちた顔で立つ人びとの姿が描かれている。ヤスクニを中心に福島と沖縄を貫く主題をこのように一つの作品として描いたもの私は他には知らない。
http://www.labornetjp.org/image/2015/0731y03

実はこの作品にはもうひつとの隠された繋りがある。今回の展覧会では展示されていない「セウォル5月」の作品の左端に靖国神社と安倍首相とともに「ヤスクニ−フクシマ」で描かれている民衆とほぼ同じ人びとが描かれており、フクシマが韓国の民衆と繋ることを洪は自覚的に作品にしている。彼の作品に頻繁に登場する批判の対象は、靖国神社だけでなく、日本、韓国、北朝鮮の指導者たちである。毎年8月15日に靖国神社を参拝する軍服のコスプレをした日本の右翼や街宣車など、愛国主義に支配されつつある今現在の日本の愚かな大衆状況が描かれる一方で、歴代韓国の指導者たちを戦前の日本の植民地支配とのある種の「連続性」のなかで描くことによって、戦後韓国の政治を鋭く批評する作品など、彼の批評は、婉曲なところがなく容赦ない。彼は、愚か者たちに共通する凡庸さを的確に表現する一方で、民衆を悲劇を悲しみや嘆きに終らせない力強さを持つ者としても表現している。

洪は、実際に兵士となる若者たちの背後にある「母」の存在に着目しはじめているように思う。女性は、戦場にわが子を送り出す悲劇のモチーフの典型としての「母」としてだけでなく、むしろ、兵士を生む存在としての「母」に着目したように思う。ギャラリートークなどでも指摘された意見にも示さてていたが、これは女性を生む性として見るステレオタイプの問題とも接点をもつ難しい主題を、男の視点から描いているという意味で、評価が分れる作品群でもあったと思う。しかし同時に、兵士を再生産する母としての女性と「慰安婦」として徴用された女性が、おなじ表現の空間のなかで共存している。これは洪にとっては必ずしも意図していたことではないだろうが、戦争とナショナリズムを考えるうえで、あるいはヤスクニズムを考える上で、これまでになかった主題を浮き上らせたことになったようにも思う。

この展覧会では光州ビエナーレにおける洪成潭への検閲に抗議して、同じく招待作家であった大浦信行が、自らの作品を燃やして制作した連作の「遠近を抱えて」も同時に展示され、ヤスクニズムと検閲もまたもうひとつのテーマとして、トークイベントでもたびたび議論された。表現の自由は作家が闘うだけの問題ではなく、ギャラリーや観るものの闘う姿勢もまた問われる展覧会であった。

2015. 7/25(土)〜 8/2(日)に東京のブレヒトの芝居小屋で開催された。
初出:『季刊・ピープルズプラン』70号
いよいよ判決!12月25日

 この間、裁判所において、ニコン側と和解協議を継続してきましたが、9月30 日の和解期日で最終的に和解協議は決裂しました。

結局、ニコン側は、自らの中止決定が誤りであることを前提とする和解には応じられないという態度を変えませんでした。
したがって、判決が言い渡されることになります。和解協議が長引いた影響で、当初予定の10 月30 日は延期され、言い渡し日は、12 月25 日となりました。
当日、記者会見および、18 時半からは、判決報告集会を開きます。ゲストに長年、監視社会批判、「表現の自由」への侵害に抗する発言・行動・研究をされている小倉利丸さんらをお迎えし、「表現の自由」への侵害、「慰安婦」問題バッシングとたたかった裁判の意味を考えます。

12月25日(金)
13:10 〜 判決言い渡し
◆東京地方裁判所611法廷
*終了後、記者会見(司法記者室)

14:45 より、公開記者会見(弁護士会館予定)
千代田区霞が関1-1-4(地下鉄東京メトロ丸の内線・日比谷線・千代田線「霞ヶ関駅」A1出口から徒歩1 分,地下鉄東京メトロ有楽町線「桜田門駅」5 番出口から徒歩約3 分)

18:30 〜(18 時開場) 判決報告集会
◆豊島区立生活産業プラザ第会議室(池袋)
原告・安世鴻(写真家)&弁護団報告
ゲスト:小倉利丸(現代資本主義論、元富山大学教授)ほか
豊島区東池袋1-20-15(地下鉄東京メトロ丸の内線・有楽町線・副都心線「池袋駅」東口下車徒歩7分)

チラシ1
チラシ2
2015/12/20 講演会「入門・サミットって何?−グローバリズムの推進装置を分析する」(茨城 ・つくば)
G7茨城・つくばサミットを考える会 第一弾講演会

2015/12月20日(日) 13:00 -15:30
・つくば市立吾妻交流センター 大会議室
 (つくば市吾妻1-10-1、TX線つくば駅前 つくばセンタービル4F)
・参加費 ¥500

・お話/ 小倉 利丸 さん
 経済学者・元富山大学教授 、「反核世界社会フォーラム2016」ファシリテーター

来年2016年5月15日〜17日に茨城県つくば市では、伊勢志摩サミットの一環として
「G7茨城・つくば科学技術大臣会合」が開催されます。

日本の対抗グローバリズム運動を牽引する“Social Dadaist”小倉さんに、
非常事態下のパリ・COP21から帰った直後、その報告ともども、
つくばでG7を斬ってもらいます。

主催/ G7茨城・つくばサミットを考える会(仮)
お問合せ/ mail: under_the_war_regime@yahoo.co.jp
tel: 090-8441-1457(加藤) / 090-3902-5801(藤田) / 080-5459-9576(鈴木)

※講演会終了後、16時30分より「G7茨城・つくばサミットを考える会(仮)」
の立上げ会議をつくば市市民活動センター(同ビル1F)にて開きます。
詳しくは【「G7茨城・つくばサミットを考える会(仮)」への参加呼びかけ】
(http://inwartimeinibaraki.hatenablog.com/entries/2015/12/11) をご一読いただ
けますよう。
県内外からの多くの方の参加をお待ちしています。
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