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「資本による機械使用の現実がどのような状態にあるかを暴きたてるような人間は、機械使用そのものを望まない人間であり、つまりは社会的進歩の敵だとされるのである。」(カール・マルクス『資本論』第13章「機械類と大工業」、今村仁司、三島憲一、鈴木直訳、筑摩書房)
定期点検に入る原発が増え、ストレステストのあり方に地元自治体も懐疑的ななかで、停止している原発が増えている。28日現在で商用原発54基中6基のみが稼働しているだけになった。来年4月には全原発の停止になる可能性が高い。各地で再稼働中止や廃炉にむけた訴訟も起こされている。しかし、同時に、再稼働に向けたこれまで以上に大きな圧力にみまわれるだろうとも思う。私は根っからの悲観論者なのかもしれないが、この状況から一気に原発の廃止へと向かうかどうかは、反/脱原発運動にかかっている。
原発の停止が脱原発運動の勝利の結果ではなく、原発推進の国策を前提としたこの国の原発関連の法令に基づく定期点検や福島原発事故をふまえたストレステストなど原発の稼働を前提とした対応と、こうした政府の対応に対する地元の意向との間の齟齬の結果であって、廃炉を前提としたものではない。これまでの原発の立地、建設、稼働はすべて安全、低コスト、クリーンという三つの神話を大前提にしてきた。この前提が崩れた中で、神話の再構築と神話の解体との間のせめぎあいが今起きていることだ。
再稼働への要求は、政府、財界では主流でありつづけており、多くの原発現地でも再稼働への要求は無視できない力を持ちつづけている。民主と自民という与野党最大勢力の原発への態度、資本(財界)の動向、現行の制度や法、電力会社の経営、地元自治体への補助金といった一連の政治力学のベクトルを勘案してみれば容易に想像がつくように、稼働停止から再稼働へ至るいくつもの可能性が残されており、逆に、稼働停止から廃炉に至るプロセスにはより多くの困難が横たわっている。夏場の電力不足キャンペーン、浜岡の再稼働の画策から玄海原発の再稼働強行など311以後の一連の再稼働にむけた強引な手法をみればわかるように、再稼働への政府と電力会社の意欲は根強い。福島県は、10月20日に県議会が県内全原発の廃炉を求める請願を採択し(朝日10月21日)、年末に佐藤知事は東電に対して県内の全原発の廃炉を申し入れたが、こうした動きが他の自治体に波及するような状況が見られるとはかならずしもいえないのではないか。
●民主党も自民党も基本は原発推進にかわりはない。
民主党の「基本政策」には「エネルギーの安定供給と環境との調和を達成するため、原子力発電の安全性向上と国民的合意を形成するとともに、新エネルギーの積極的な開発・普及、省エネルギーの推進を図り、エネルギーのベストミックスを実現する。エネルギー供給国との対話を強化する。」という98年の基本政策が未だにウエッブ上に掲げられたままだ。また、311以後も党のエネルギープロジェクトチーム(PT)は原発再稼働推進派が多数を占めているといわれているし(朝日)、原発事故収束対策プロジェクトチームが27日に出した「原子力規制新組織のあり方について」も原発の存続を前提としたリスク管理の組織再編を意図したものであって、脱原発=廃炉への方向性はまったくない。
民主党内部の脱原発派は、今に至るまで、エネルギー政策において主導権をとったことはない。福島原発の事故処理が事故の深刻な状況や放射能被害の隠蔽、初動対応の遅れなど、いずれも菅政権の対応はまともとはいえなかった。7月に菅は閣僚懇談会で脱原発の方針を口にするが(朝日)これも個人的な見解にすぎず内閣方針とすることは抑え込まれた。だからといって、菅が脱原発について、原則を貫こうとして首相の座から追われたというようなことでもない。原発輸出を国策とする311以前から民主党の方針は堅持されたままという誰の目にも欺瞞としかいいようのない政策の不整合を菅政権は露呈していたからだ。同時に、高濃度放射性廃棄物の最終処分場を米国と共同でモンゴルに建設することを画策するなどの<核>をめぐるグローバルな市場戦略にはむしろ力を入れてきた。(自民党衆議院議員、小野寺五典の質問趣意書への回答)言い換えれば、国内では脱原発、海外で原発推進という明らかな二枚舌を使って政権の維持に必要な野党自民党へのすりよりを試みたのだといえる。こうした権力ゲームの犠牲になるのは、民衆である。(しかし、その民衆が力なき弱者なわけではないということをこの国の権力者は忘れがちだ)
他方で自民党もまた7月に国家戦略本部が出した「日本再興|自民党の中長期政策体系」のなかで「安全強化策を施した上での既存原発の稼働維持」として脱原発路線ではなくベストミックスを提唱しており、原発推進が基本方針であることにかわりはない。
民主党も自民党も脱原発については本気だとはいえない。官僚も同様だろう。世論の動向に影響されるとはいえ、むしろ世論を原発存続の方向に誘導しようとする意図の方がずっと強い。なぜそれまでに原発に固執するのか。
●資本の欲望
財界の動向は政府以上に明確だ。経団連は11月に出した「エネルギー政策に関する第2次提言」のなかで次のように述べている。
当面、エネルギーおよび電源構成についての新たな目標は、一定の幅をもった柔軟な計画とすべきである。そのうえで、安全性及び経済合理性の確保を前提に、徹底した省エネを進め、原子力、化石燃料、再生可能エネルギーといった多様なエネルギーそれぞれについて、最大限に効率的、効果的な利用を可能とするための諸施策を提示することが重要である。
原子力は、わが国の電源構成の中で、これまでベース電源として基幹的な役割を担ってきた。政府は、原子力が今後とも一定の役割を果たせるよう、国民の信頼回復に全力を尽くさなければならない。
日本商工会議所の岡村会頭は10月20日に福島市内で記者会見し、原発再稼働を主張しエネルギー政策の見直しは10年後くらい先の話だと述べている。(福島民友ニュース)関西経済同友会も大阪商工会議所などとともに、12月22日に枝野経済産業大臣に対して、電力不足解消と原発の早期再稼働の取り組み強化を要請している。(日本経済新聞12月22日)こうしてみると、ソフトバンクの孫正義や城南信用金庫の脱原発が話題になってはいてもそれが財界の主流などとはとうてい言える状況にはない。
原発なくても電気は足りている、という主張が反/脱原発運動の多数の意見だとおもう。これは事実であるが、この事実をもって財界が説得されることは100%ありえないと私は考えている。原発がなくても電気が足りているのは、日本国内の今現在(あるいはここ数年)のことという限定された条件のなかでのことだからだ。これまでの経済成長の構造をふまえたとき、GDPの成長率とエネルギー消費の増加率の間にはかなりはっきりとした正の相関関係がある。資本の考え方は、経済成長にはエネルギー消費の増加は避けられないだけでなく、エネルギー供給が経済成長のネックになることは許されない、というところが基本だ。原発停止にともなうエネルギー供給の低下を補完するものとして、当面は火力など既存の発電設備や電力の自由化で対応し、将来的には再生可能エネルギーをあてると考えるのが脱原発経済成長論の基本だろうが、この理屈は資本には通用しない。原発推進派の発想は、再生可能エネルギーに加えて稼働可能な原発によるエネルギー供給が欲しいのである。原発に替えてではなく、原発に加えて、という発想が財界と政府にはある。資本は再生可能エネルギーよってもたらされる電力供給の増加は歓迎するだろうが、それだけでなく、休止中の原発をすべて再稼働したら得られるであろう電力供給をみすみす見逃したくないということだ。電力供給はどれだけ多くても多すぎることはない、というのが資本の基本的なスタンスである。こうしたスタンスは、経済は成長しなければならず、成長の実現のためには国際競争力で優位に立つことができるインフラ(エネルギーに関する国策)が必要だという発想と切り離すことができない。言い換えれば、原発稼働の最大の動因は資本にとっての経済成長という資本の欲望なのである。持続可能な成長と言おうと同じことである。
将来の成長を見込んだエネルギー需給の計算に対して、明確な批判の観点を構築することがぜひとも必要になる。現行の資本主義と近代国家のシステムの根幹を維持したまま、新自由主義政策をとらないとしても、再生可能エネルギーをベースにした経済成長という現実主義は、資本蓄積の宿命としての成長とエネルギーの罠に必ずはまり込む。「再生エネルギーへのシフト」が原発を織り込んで全発電量のなかの原発の比率を相対的に低下させるだけのことなら原発の稼働は阻止できない。原発全廃を前提としてエネルギー供給構造の根本的転換を明言するかどうかが原発の是非をめぐる譲るべきではない分かれ道である。エネルギー供給の「ベストミックス」は言うまでもなく選択肢にはなりようがない。しかし、さらにこれだけでも十分ではない。原発輸出が可能となる国際的な構造がある。電気が足りているのは先進国に限られている。地球規模で先進国の一人当たりの電力消費を理想モデルとすれば、電力は圧倒的に不足している。この不足を補うための原発への需要は当面の間減ることはないだろう。もし、世界中の人々が先進国のライフスタイルを理想とする限りは。原発の拡散を阻止するためには、産業や資本の構造に接合されている先進国のライフスタイルの革命が不可欠だ。(「電力は足りてはいけない」参照)
●国家安全保障による原発必要論
核の平和利用という欺瞞をささえてきたのは、原発によるエネルギー供給がもたらす経済的な繁栄という「夢」だったわけだが、この夢の背後には常に核武装との関わりがあることはこれまでも繰り返し指摘されてきたにも関わらず、平和運動でも反原発運動でも最近まで主要な関心ではなかった。今は廃刊になってしまった雑誌『軍事民論』などは核武装論にいち早く着目して日本の核開発や平和利用の問題を指摘していたし、毎日新聞社会部が『ウサギの耳とハトの夢―日本の核と情報戦略』(リベルタ出版)で戦後日本の核武装の系譜をレポートしたのは1995年のことである。
この間、原発の危険性の指摘に加えてその経済性における優位という神話が崩れるなかで、原発必要論を経済一辺倒では維持できなくなるにつれて、原発が高いリスクとコストを抱えても必要である根拠として、安全保障上の効果を論じる傾向がはっきりと現れてきた。元航空幕僚長の田母神俊雄は自身のブログで、山下俊一らの議論を引きながら放射能被曝の危険性を否定したり、「反原発は我が国の核武装を封じようとする反核運動でもある。“原発は危険”という認識は“第2の(誤った)歴史認識”だ」と述べて原発と核武装の関係性を肯定した。
また、自民党の石破茂元防衛大臣は8月16日の報道ステーションで次のように述べたといわれている。
「原子力発電というのがそもそも、原子力潜水艦から始まったものですのでね。日本以外のすべての国は、原子力政策というのは核政策とセットなわけですね。ですけども、日本は核を持つべきだと私は思っておりません。しかし同時に、日本は(核を)作ろうと思えばいつでも作れる。1年以内に作れると。それはひとつの抑止力ではあるのでしょう。それを本当に放棄していいですかということは、それこそもっと突き詰めた議論が必要だと思うし、私は放棄すべきだとは思わない。なぜならば、日本の周りはロシアであり、中国であり、北朝鮮であり、そしてアメリカ合衆国であり、同盟国でるか否かを捨象して言えば、核保有国が日本の周りを取り囲んでおり、そして弾道ミサイルの技術をすべての国が持っていることは決して忘れるべきではありません」(ニコブログから引用)
9月7日づけの読売新聞社説では核兵器の材料になり得るプルトニウムの保有が外交的には、潜在的核抑止力として機能することを評価する主張を展開した。また山名元、森本敏,中野剛志『それでも日本は原発を止められない』(産経新聞出版)では、京大原子炉実験所教授の山名元が中心となって原発必要論を経済、軍事、外交の観点から論じ、石破や田母神同様、核抑止力としての原発の必要性を主張する。(本書への批判としては前田朗のブログ参照。)
原発推進派の布陣は、こうして、日本経済の成長のネックとなるエネルギー需給の逼迫(マルクス流にいえば、エネルギー供給に対する資本の過剰)を省エネ技術と省エネライフスタイルへの転換(資本の有機的構成高度化の蓄積)と原発の稼働によって解決するという経済のシナリオに加えて、安全保障上の必要という経済合理性では説明しきれない要因との組み合わせによって、組み立てられている。このいずれもが、汚染による被害や原発の事故処理をめぐる損失よりも国家と資本の利益を優先させる発想となっているという意味で、原発推進派の基調は、人間よりも資本の利益と国家の利益を優先させる姿勢で一貫している。これは驚くようなことではなく、近代社会の資本主義モデルが本質的にもってきた性質そのものである。これほどはっきりした反人間的な経済と統治の構造が表出しているにもかかわらず、そうであってもなお、<核>への欲望のない資本主義の可能性はあるという神話は未だに生きつづけているようにも見える。資本と国家はそれほどに人間的であり平和な存在だったことが、ここ数世紀の歴史のなかでどれほどあったというのだろうか?
●人工的な死
事故のリスクより利潤が優先するのは資本主義が持って生まれた本性だ。近代奴隷貿易の犠牲者1000万人、北米先住民500万人の大半を殺戮することで生み出された「新世界」。産業革命の時代に、最先端の工場は同時に児童労働、劣悪な労働環境、長時間労働、大気汚染を貧困とともにもたらした。近代文明のなかでの人間の死は、資本の機械と国家の機械がもたらした人工的な死がその大半を占めている。自然の死から人々の大半は遠ざけられてきた。人々は社会の中で<労働力>となることを予定して産み出され、育てられ、人工的な死によって終わりを遂げるようにプログラムされた社会、それが資本主義であり、近代の工業化された国家に共通した構造だ。
資本主義中枢諸国の先端的な工場から地下経済が支配するスウェットショップの移民労働者の労働現場に至るまで、至る所に人工的な死は見出される。この国が生み出す毎年3万人を越す自殺者の死と福島原発がもたらすであろう緩やかな死も、人工的な死である。植民地の獲得から帝国主義の戦争、20世紀のホロコースト(この中には日本帝国主義によるアジア大陸での大量虐殺も当然含まれる)から<核>の技術と文化へと受け継がれて今に至る一連の構造があり、チェルノブイリも福島もこの歴史をふまえれば例外とはいえないのだ。戦争が引き起こすわかりやすい強いられた死と日常生活のなかで人々が事故や労働災害で死亡することとの間には、社会が人々に強いる構造的な暴力と死という点では共通性がある。戦争はどこにでもあるともいえるし、「豊かさ」や人々の「幸福」を支える技術は常に人を殺す潜勢力を内包しているともいえる。交通手段は軍隊を運び、強制収容所に囚人たちを運び、職場に労働力としての人間を運び、ディズニーランドに家族を運ぶ。電力は、人間から夜を奪い、24時間工場を稼働させて労働者を酷使するインフラを提供し、世界中の基地をつなぐネットワークのインフラを支え、電気椅子を稼働させ、恋人たちのディナーや家族の団らんを支える。人工的な死と生がここでは引き剥がしようのない一体のものとして私たちのこの世界の「豊かさ」と悲惨を生み出している。しかし、豊かさと悲劇が誰にでも平等に配分されるわけではない。ある人たちにはもっぱら豊かさが、ある人たちには悲惨が配当される。(平均すればだれもがこの文明の光のなかで豊で幸福であるに違いないというのが支配者たちの言い分になる)この配分の構造を支配している資本と国家が同時に人工的な死の生産者でもある。
私たちはこのような強いられた死に怯える。しかし、資本と国家はこうした死を当たり前のこととして、そこから政治的経済的な利益を得ることに慣れっこになっている。資本も国家も単なる機械ではない。これらは社会を構成している人間の組織でもある。強いられた死、人工的な死は彼らが私たちに与えるものであると同時に、私たちもまたこの人工的な死の加担者であることを避けることもできない。しかし、だからこそ私たちは闘うのである。
1・27秘密保全法学習会のご案内
■とき
1月27日(金)18:30-21:00
■ところ
文京区民センター3B会議室
(東京メトロ 後楽園駅・丸の内線(4a・5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分
都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1分)
■お話
清水雅彦さん(日本体育大学准教授)
「秘密保全法がもたらす社会!」
■参加費 500円
■主催
盗聴法に反対する市民連絡会
ネットワーク反監視プロジェクト
■連絡先
盗聴法に反対する市民連絡会
東京都新宿区西早稲田1-9-19-207
日本消費者連盟気付
TEL090-2669-4219(久保)
政府は、2012年1月召集の通常国会で「秘密保全法」を制定しようとしています。
「秘密保全法案」(仮称)は、行政機関がもつ情報のうち「国の安全」「外交」
「公共の安全及び秩序の維持」にかかわる重要なものを特別秘密とし、それを故
意や過失で漏洩をしたり、漏洩しようと共謀等をした者は重く罰するというもの
です。
現在でも国、行政機関などの情報公開は不十分です。「秘密保全法」ができれば、
官僚が自分に都合の悪い情報を「特別秘密」として隠そうとすることは疑いあり
ません。それは、この間の原発事故をめぐる政府・東電の情報隠しをみれば明ら
かです。
秘密保全法がつくられれば、「特別秘密」に接する公務員は萎縮し、マスコミの
取材もにぶるでしょう。主権者たる市民が防衛、外交などに関する政府の行為を
を知ることができなくなります。「秘密保全法」は、憲法で保障された知る権利
を市民から奪う情報統制法で、民主主義社会を崩壊させるものです。「秘密保全
法」は絶対に作らせてはなりません。
この法案についてよく知るために学習会を開きます。ぜひ、ご参加ください。
■とき
1月27日(金)18:30-21:00
■ところ
文京区民センター3B会議室
(東京メトロ 後楽園駅・丸の内線(4a・5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分
都営地下鉄春日駅三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1分)
■お話
清水雅彦さん(日本体育大学准教授)
「秘密保全法がもたらす社会!」
■参加費 500円
■主催
盗聴法に反対する市民連絡会
ネットワーク反監視プロジェクト
■連絡先
盗聴法に反対する市民連絡会
東京都新宿区西早稲田1-9-19-207
日本消費者連盟気付
TEL090-2669-4219(久保)
政府は、2012年1月召集の通常国会で「秘密保全法」を制定しようとしています。
「秘密保全法案」(仮称)は、行政機関がもつ情報のうち「国の安全」「外交」
「公共の安全及び秩序の維持」にかかわる重要なものを特別秘密とし、それを故
意や過失で漏洩をしたり、漏洩しようと共謀等をした者は重く罰するというもの
です。
現在でも国、行政機関などの情報公開は不十分です。「秘密保全法」ができれば、
官僚が自分に都合の悪い情報を「特別秘密」として隠そうとすることは疑いあり
ません。それは、この間の原発事故をめぐる政府・東電の情報隠しをみれば明ら
かです。
秘密保全法がつくられれば、「特別秘密」に接する公務員は萎縮し、マスコミの
取材もにぶるでしょう。主権者たる市民が防衛、外交などに関する政府の行為を
を知ることができなくなります。「秘密保全法」は、憲法で保障された知る権利
を市民から奪う情報統制法で、民主主義社会を崩壊させるものです。「秘密保全
法」は絶対に作らせてはなりません。
この法案についてよく知るために学習会を開きます。ぜひ、ご参加ください。
運動の想像力ということを最近よく考える。想像力は創造力と書き換えてもよい。311以降、この想像/創造力が現実として実感される磁場に引き寄せられて、うまく跳躍できていないような不全感に囚われることがしばしばある。
原発の事故を何処にいて、どのような立場にあってこの事故と向き合っているのか、という問題が想像/創造力の可能性を押しとどめて、今ある生活の「安全」にだけ向かうとき、他者(とは誰かという根源的な問いを不問に付すべきではないが)への配慮と責任はどこかで後回しにされかねない。そうなってしまったときには、自らの「安全」のために他者を犠牲にする自閉的な「安全」へと退行しかねないのではないか、と思う。
放射性物質を含んだ農産物や瓦礫、表土、山林の樹木などの処理をどうすべきか、をめぐって、反(脱)原発運動のなかで、明確な合意が得られていないようにみえる。福島の瓦礫は受け入れたくない=拡散反対という主張は、暗黙のうちに汚染物質は福島で処理すべきだ、ということが含意されている。とりわけ、このことは福島から離れれば離れるほど、言い換えれば、汚染地図の汚染の濃度と反比例する形で、汚染の拡散への抵抗と自己防御が大きくなる。これは、一面では「当然」の心情ではあろうが、他面では、「それでは福島や汚染の深刻な地域についてはどう考えるべきなのか?」という問いに対しては、福島第一原発とその周辺が汚染物質の集積場になるのはやむを得ないのではないか、という反応が多分今現在のもっとも多く聞かれる「答え」だろうと思う。だから、原発に反対でなおかつ汚染瓦礫の引き受けも反対と明確に言われる場合、その答えにはある種の躊躇や曖昧さが伴うようにも見える。問題は、自己の「安全」を防御することのなかに、他者への想像力が果たしてどれほど織り込まれてるといえるのか、」だと思う。
社会的な事件や事故に関して「やむを得ない」や「仕方がない」という答えほど私たちが熟慮し、警戒しなければならない言い回しはない。本当にやむを得ないのか?本当に仕方がないのか?汚染にどのように向き合うのかという問題で、私たちが原則をふまえて「どうあるべきか」という観点を抜きにして、目前のリスクを回避することにしか想像力が向かわない結果として「やむを得ない」「仕方ない」だけが議論の中心に据えられてしまってはいないか。反(脱)原発へむかう大衆的な意識、とりわけ避難が必要な深刻な地域から離れた場所に住む人々が、今ある「安全」を脅かす可能性のあるリスクの受け入れに否定的になる感情を私は否定しないが、しかし、こうした感情を減殺するような「どうあるべきなのか」という事態への理解についての原則を立てられないままになっているように見える。原則論として福島が汚染物質を受け入れるべき(受け入れる責任がある)というのであればいざしらず、そうでないとするならば、誰がその責任を負うべきなのか?責任を負うということは同時に汚染された膨大な物質を自ら受け入れるということを伴うことになるから、どこで受け入れるべきなのか、という問いと切り離せない。
●
「東京をゴミ捨て場に」といういささか挑発的なブログのエッセイを書いたのは、上で述べた原則論を念頭においていた。このエッセイは賛否両論あり、評判は相対的によくないと思う。極論であり暴論だという印象を読者に与えたのだと思う。誰もが東電と政府に責任があることは認めても、東京の住人すべてをリスクに晒すのはおかしいのでは?あるいは、実際に瓦礫とかを運んで東京のどこに捨てるのか?非現実的ではないか?ともかく汚染の拡散は絶対に認められない、などなど、異論は様々だ。私はこれらの異論のすべてをひっくるめたとしても、だからといって福島が汚染を引き受ける「べき」だという結論を導くには、これらの反論だけでは説得力を欠くと思っている。もちろん、「現実」論として議論するとすれば、多くの困難や不可能な事柄が横たわっていることは、私のような妄想に偏る者であっても理解はできる。とりあえずそれほど愚かではないつもりだ。その上で、敢えて東京をゴミ捨て場にすべきだ、と書いたのである。しかも、親族や友人の大半は東京に住んでいる。東京だけでなく東電管内の電力需要者が原発によって生産された電力の受益者であることは間違いない事実であり、利益を得るならリスクも負うべきだ、という当然のことを書いたまでだ。もし、議論すべきであるとすれば、東電管内でどのように主として誰がそのリスクを負うべきなのか、として議論されるべきであって、福島が引き受けるという結論を導くことはありえない、と思う。汚染物の処理については、議論の時間はないともいえるし、十分にあるともいえる。日々の除染の必要を前提にすれば今日、明日を争う問題であるが、廃炉と原発内部と周辺に飛散したプルトニウムのように半減期2万4000年の猛毒核物質の処分を念頭にいれれば、もっと長い議論の時間がありうるかもしれない。
核の最終処分まで視野に入れれば、十年単位どころか百年、千年単位で原則論を立てるという展望をもつ必要がある。この間に、まったく収益に結びつかないが放射性廃棄物処理の飛躍的な技術革新は必須だろう。50年、100年という単位で、福島を原状に戻すといった時間の尺度で物事を構想することも必要だ。50年で農業や漁業ができるようになるか、廃炉の処分が終わるか、かなり難しいが。それなら100年を視野に入れてもよい。世界中で、土地を追われた人々が100年の単位で闘うことは珍しくないことを思い起こしたい。先住民の植民地主義との闘いは500年に及ぶ。
●
福島からの自主避難も含めて、避難の権利を確立することは重要だが、このことが、福島を瓦礫置き場にすることに結びつけられることを私は危惧している。避難の権利は重要だが、同時に帰還の権利も何百年たとうと保証しなければいけないからだ。
南相馬の詩人若松丈太郎は「原発難民」という言葉を用いたが、難民のそもそもの定義は「人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れた」人々であるが、「紛争などによって住み慣れた家を追われたが、国内にとどまっているかあるいは国境を越えずに避難生活を送っている「国内避難民」」も難民と同様に扱いを受けるべき者というのが国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の見解だ。1948年国連はパレスチナ難民の帰還の権利と帰還しない難民への補償を決議している。帰還権は基本的人権である。原発事故で故郷を追われた人々を難民と呼ぶのは、大げさかどうか、過大評価かどうか、この点については議論があってもいいが、議論する意味のないこととはいえないのではないか。原発事故はUNHCRの考慮外だっただろうが、今後第三世界に原発に建設が進めば、将来はわからない。原発事故に由来する国内避難民であっても、この決議は参考にすべきではないか。言い換えれば、難民=避難民を生み出した責任ある者たちは、難民の帰還の権利を何年たとうが保障すべき義務を負うと考えなければならない。同時に難民を受け入れることも義務であろう。もちろん、東京がゴミ捨て場になれば膨大な避難民を生み出すかもしれない。そのことも念頭に置いておく必要はあるがそれだけでは済まない。
今回の汚染の処理問題は、福島第一原発に限らない。今後次々に原発は老朽化し、その経年劣化につれて事故の可能性は大きくなる。今後50年の間に、原発の深刻な事故がこの国で起きないと考えるほうが非現実的だろう。事故の最小化のためには原発の稼働停止が最低条件だが、それで問題が解決するわけではない。廃炉と放射性廃棄物の処分問題は日本全国の過疎地を次々に核のゴミ捨て場にする可能性を秘めている。もし、大消費地がこのリスクを引き受けないならば。福島原発由来の放射性廃棄物を東電管内以外に拡散させることに私は反対だが、いずれ沖縄を除くすべての都道府県は、この全国の過疎地に散財する原発の廃棄物の処理問題に直面する。深刻な事故が起きる可能性もありうるから、この処分問題の深刻度はより大きくなり、リスクはもっと大きくなる。福井県が大阪のために核のゴミ捨て場になる。新潟県も東京のために核のゴミ捨て場になる。すでに敷地内には膨大な使用済み核燃料が溜め込まれているのだが。
原則論を押しのけて、「仕方がない」という発想だけが一人歩きすると、「日本には処分に適した場所がないから海外で処分するのは仕方がない」という発想に結びつきはしないか?そもそも原発の立地そのものがエネルギー需要を満たすためには過疎地が犠牲になるのは「仕方がない」ものとして推進されてきたのではないだろうか?だからこそ、誰が責任とリスクを負うべきかというある種の規範意識が非常に重要になる。
●
農産物問題では、古くて新しい問題が原発事故でも再燃したようにみえる。6月に福島の南相馬の津波被害に遇った地区を訪れた。そこではすでに地元の農家の人たちが瓦礫を片付け、「来年には絶対に農業を再開する」と語っていた。ほとんどの人が家族のうちの何人かを津波の犠牲で失っている。そうであればあるほどその土地を離れがたいであろうことは痛いほどよくわかった。「県も東電も頑張っている」と強い期待も語ってくれた。彼らがそれから半年たって、今どうしているか。
農民たちは農業が彼らのアイデンティティであるから、放射能による汚染について非常に重大な関心を抱きながらも、「安全」についての楽観論や政府自治体のお墨付きを「信じたい」気持ちになるだろうということは、理解できる。他方で、都市の消費者は、政府も東電も信用できないなかで、できる限り食べ物のリスクを減らしたいと考えるから、汚染に対しても厳しい判断を支持するだろうということも理解できる。農民たちからは、政府の暫定基準を受け入れず厳しい判断を下す都市の消費者の主張によって「風評被害」を受けていると感じられ、他方で都市の消費者からは、農民たちは汚染を拡散させる者とみなされがちだ。都市の消費者の間でも、福島の農業を支えたいと考える人たちと、福島の農産物をとりあえず避けたいと考える人たちの間に見解の対立があり、ときには感情的な対立すらみられる。
この問題は原発由来の問題だけではないかなり根深い都市と農村の問題を内包している。農業が地域を越えた全国レベルの市場経済に統合されるなかで(さらにそれがグローバルな市場経済に再統合されようとしてるのだが)、商品化された農産物の使用価値が利潤のために(それも流通や大手小売業や外食産業の販売戦略の影響が大きいと思うが)大きく損なうようになるのは、当然のことであり、そのなかで農民たちの労働もまた農薬や化学肥料による被害を被り、遺伝子組換え作物や食の生産現場の工業化が進んできた。こうした食の商品化の長い歴史的な経緯を見ておくことが必要だろう。今回の原発事故はこの商品化された食の商品化にまつわる問題が端的に突出した形で究極の問題として登場したともいえる。汚染食品の流通は、市場経済が全国的な市場に統合され、安価な農産物を全国から(国境を越えて)調達するような構造になければ、これほどの広がりはなかったのではないか。都市が農産物を需要するために構築してきた都市の食のための全国規模の市場流通そのものが、果たして食の市場として妥当なものなのか、という問いが今回の汚染の拡がりの背景にあることを忘れてはならない。言い換えれば、地域の自給的な市場を解体した大都市と大流通資本中心のメガマーケットそのものが、汚染の拡散を助長したのではないか。その責を生産者である農民に帰すことはできないのではないか、と私は思う。もしこうした観点を踏まえたとき、都市の消費者はそのライフスタイルを再考することもまた問われるのではないか、とも思う。
汚染された農産物問題の元凶は原発であり、その事後処理のずさんさにあるにもかかわらず、対立軸が農民と都市消費者の間にひかれているように思えてならない。この対立から利益を得ているのは誰だろうか?農民と都市の消費者は本当に利害が対立するのだろうか?実は農民と都市の住民との間の対話が決定的に不足していると思う。多くの都市の消費者にとって食料はスーパーに陳列されている商品としてしか見えない。「農」の具体的な現場とそこでの労働は見えにくい。だからアイデンティティの問題が十分に理解できない。しかし、商品化された食の現実への批判的な視点を持ち、これまでのライフスタイルへの懐疑という観点を持ったとき、そこには、食をめぐる別の視点も獲得できるのではないか。農民たちにとっても、風評被害なのか文字通りの被害なのかという問題は、被曝という問題と密接に関わり、実は、自分たちの労働の場である農地の汚染や家族の被曝に関わる問題でもあるはずなのだ。そうであるなら、農民が直面している問題は、実は都市の消費者以上に深刻なのではないか?そうであるにもかかわらず、なおかつ今この場での農業にこだわることの意味をわたしのような都市の住民は想像力をもって「理解」できなければならないと思う。この理解は、肯定とか否定という問題を越えたところで設定される問題である。
汚染をめぐる問題について、両者の間で合意を形成することは不可能とは思わない。農民としての生存の権利(職業選択の自由と居住の自由は憲法が保障している)も都市消費者の生存の権利も原発という主要な敵をめぐる生存権の問題として、100年を単位とした両者の対話のなかで必ず合意できる一致点が見出せると思う。この合意点は原発の拒否という観点によって構想できると思う。
●
想像力の問題は、すぐれて他者への想像力の問題である。つまり、自身の身近な者たちや見知った者たちを越えた、今ここで生きている他者への想像力であり、同時に、未だ出会う機会はなかったが、将来出会うかもしれない(世代を越えた)他者への想像力の問題である。こうした想像力が運動の潜勢力となることは決して不可能ではないが、そうした努力を怠れば、人々の不安は、他者を排除する核シェルターもどきの自己保身だけを生みだし、ますます核の文化が支配の力を増すだけだろうと思う。
原発の事故を何処にいて、どのような立場にあってこの事故と向き合っているのか、という問題が想像/創造力の可能性を押しとどめて、今ある生活の「安全」にだけ向かうとき、他者(とは誰かという根源的な問いを不問に付すべきではないが)への配慮と責任はどこかで後回しにされかねない。そうなってしまったときには、自らの「安全」のために他者を犠牲にする自閉的な「安全」へと退行しかねないのではないか、と思う。
放射性物質を含んだ農産物や瓦礫、表土、山林の樹木などの処理をどうすべきか、をめぐって、反(脱)原発運動のなかで、明確な合意が得られていないようにみえる。福島の瓦礫は受け入れたくない=拡散反対という主張は、暗黙のうちに汚染物質は福島で処理すべきだ、ということが含意されている。とりわけ、このことは福島から離れれば離れるほど、言い換えれば、汚染地図の汚染の濃度と反比例する形で、汚染の拡散への抵抗と自己防御が大きくなる。これは、一面では「当然」の心情ではあろうが、他面では、「それでは福島や汚染の深刻な地域についてはどう考えるべきなのか?」という問いに対しては、福島第一原発とその周辺が汚染物質の集積場になるのはやむを得ないのではないか、という反応が多分今現在のもっとも多く聞かれる「答え」だろうと思う。だから、原発に反対でなおかつ汚染瓦礫の引き受けも反対と明確に言われる場合、その答えにはある種の躊躇や曖昧さが伴うようにも見える。問題は、自己の「安全」を防御することのなかに、他者への想像力が果たしてどれほど織り込まれてるといえるのか、」だと思う。
社会的な事件や事故に関して「やむを得ない」や「仕方がない」という答えほど私たちが熟慮し、警戒しなければならない言い回しはない。本当にやむを得ないのか?本当に仕方がないのか?汚染にどのように向き合うのかという問題で、私たちが原則をふまえて「どうあるべきか」という観点を抜きにして、目前のリスクを回避することにしか想像力が向かわない結果として「やむを得ない」「仕方ない」だけが議論の中心に据えられてしまってはいないか。反(脱)原発へむかう大衆的な意識、とりわけ避難が必要な深刻な地域から離れた場所に住む人々が、今ある「安全」を脅かす可能性のあるリスクの受け入れに否定的になる感情を私は否定しないが、しかし、こうした感情を減殺するような「どうあるべきなのか」という事態への理解についての原則を立てられないままになっているように見える。原則論として福島が汚染物質を受け入れるべき(受け入れる責任がある)というのであればいざしらず、そうでないとするならば、誰がその責任を負うべきなのか?責任を負うということは同時に汚染された膨大な物質を自ら受け入れるということを伴うことになるから、どこで受け入れるべきなのか、という問いと切り離せない。
●
「東京をゴミ捨て場に」といういささか挑発的なブログのエッセイを書いたのは、上で述べた原則論を念頭においていた。このエッセイは賛否両論あり、評判は相対的によくないと思う。極論であり暴論だという印象を読者に与えたのだと思う。誰もが東電と政府に責任があることは認めても、東京の住人すべてをリスクに晒すのはおかしいのでは?あるいは、実際に瓦礫とかを運んで東京のどこに捨てるのか?非現実的ではないか?ともかく汚染の拡散は絶対に認められない、などなど、異論は様々だ。私はこれらの異論のすべてをひっくるめたとしても、だからといって福島が汚染を引き受ける「べき」だという結論を導くには、これらの反論だけでは説得力を欠くと思っている。もちろん、「現実」論として議論するとすれば、多くの困難や不可能な事柄が横たわっていることは、私のような妄想に偏る者であっても理解はできる。とりあえずそれほど愚かではないつもりだ。その上で、敢えて東京をゴミ捨て場にすべきだ、と書いたのである。しかも、親族や友人の大半は東京に住んでいる。東京だけでなく東電管内の電力需要者が原発によって生産された電力の受益者であることは間違いない事実であり、利益を得るならリスクも負うべきだ、という当然のことを書いたまでだ。もし、議論すべきであるとすれば、東電管内でどのように主として誰がそのリスクを負うべきなのか、として議論されるべきであって、福島が引き受けるという結論を導くことはありえない、と思う。汚染物の処理については、議論の時間はないともいえるし、十分にあるともいえる。日々の除染の必要を前提にすれば今日、明日を争う問題であるが、廃炉と原発内部と周辺に飛散したプルトニウムのように半減期2万4000年の猛毒核物質の処分を念頭にいれれば、もっと長い議論の時間がありうるかもしれない。
核の最終処分まで視野に入れれば、十年単位どころか百年、千年単位で原則論を立てるという展望をもつ必要がある。この間に、まったく収益に結びつかないが放射性廃棄物処理の飛躍的な技術革新は必須だろう。50年、100年という単位で、福島を原状に戻すといった時間の尺度で物事を構想することも必要だ。50年で農業や漁業ができるようになるか、廃炉の処分が終わるか、かなり難しいが。それなら100年を視野に入れてもよい。世界中で、土地を追われた人々が100年の単位で闘うことは珍しくないことを思い起こしたい。先住民の植民地主義との闘いは500年に及ぶ。
●
福島からの自主避難も含めて、避難の権利を確立することは重要だが、このことが、福島を瓦礫置き場にすることに結びつけられることを私は危惧している。避難の権利は重要だが、同時に帰還の権利も何百年たとうと保証しなければいけないからだ。
南相馬の詩人若松丈太郎は「原発難民」という言葉を用いたが、難民のそもそもの定義は「人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるかあるいは迫害を受ける恐れがあるために他国に逃れた」人々であるが、「紛争などによって住み慣れた家を追われたが、国内にとどまっているかあるいは国境を越えずに避難生活を送っている「国内避難民」」も難民と同様に扱いを受けるべき者というのが国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の見解だ。1948年国連はパレスチナ難民の帰還の権利と帰還しない難民への補償を決議している。帰還権は基本的人権である。原発事故で故郷を追われた人々を難民と呼ぶのは、大げさかどうか、過大評価かどうか、この点については議論があってもいいが、議論する意味のないこととはいえないのではないか。原発事故はUNHCRの考慮外だっただろうが、今後第三世界に原発に建設が進めば、将来はわからない。原発事故に由来する国内避難民であっても、この決議は参考にすべきではないか。言い換えれば、難民=避難民を生み出した責任ある者たちは、難民の帰還の権利を何年たとうが保障すべき義務を負うと考えなければならない。同時に難民を受け入れることも義務であろう。もちろん、東京がゴミ捨て場になれば膨大な避難民を生み出すかもしれない。そのことも念頭に置いておく必要はあるがそれだけでは済まない。
今回の汚染の処理問題は、福島第一原発に限らない。今後次々に原発は老朽化し、その経年劣化につれて事故の可能性は大きくなる。今後50年の間に、原発の深刻な事故がこの国で起きないと考えるほうが非現実的だろう。事故の最小化のためには原発の稼働停止が最低条件だが、それで問題が解決するわけではない。廃炉と放射性廃棄物の処分問題は日本全国の過疎地を次々に核のゴミ捨て場にする可能性を秘めている。もし、大消費地がこのリスクを引き受けないならば。福島原発由来の放射性廃棄物を東電管内以外に拡散させることに私は反対だが、いずれ沖縄を除くすべての都道府県は、この全国の過疎地に散財する原発の廃棄物の処理問題に直面する。深刻な事故が起きる可能性もありうるから、この処分問題の深刻度はより大きくなり、リスクはもっと大きくなる。福井県が大阪のために核のゴミ捨て場になる。新潟県も東京のために核のゴミ捨て場になる。すでに敷地内には膨大な使用済み核燃料が溜め込まれているのだが。
原則論を押しのけて、「仕方がない」という発想だけが一人歩きすると、「日本には処分に適した場所がないから海外で処分するのは仕方がない」という発想に結びつきはしないか?そもそも原発の立地そのものがエネルギー需要を満たすためには過疎地が犠牲になるのは「仕方がない」ものとして推進されてきたのではないだろうか?だからこそ、誰が責任とリスクを負うべきかというある種の規範意識が非常に重要になる。
●
農産物問題では、古くて新しい問題が原発事故でも再燃したようにみえる。6月に福島の南相馬の津波被害に遇った地区を訪れた。そこではすでに地元の農家の人たちが瓦礫を片付け、「来年には絶対に農業を再開する」と語っていた。ほとんどの人が家族のうちの何人かを津波の犠牲で失っている。そうであればあるほどその土地を離れがたいであろうことは痛いほどよくわかった。「県も東電も頑張っている」と強い期待も語ってくれた。彼らがそれから半年たって、今どうしているか。
農民たちは農業が彼らのアイデンティティであるから、放射能による汚染について非常に重大な関心を抱きながらも、「安全」についての楽観論や政府自治体のお墨付きを「信じたい」気持ちになるだろうということは、理解できる。他方で、都市の消費者は、政府も東電も信用できないなかで、できる限り食べ物のリスクを減らしたいと考えるから、汚染に対しても厳しい判断を支持するだろうということも理解できる。農民たちからは、政府の暫定基準を受け入れず厳しい判断を下す都市の消費者の主張によって「風評被害」を受けていると感じられ、他方で都市の消費者からは、農民たちは汚染を拡散させる者とみなされがちだ。都市の消費者の間でも、福島の農業を支えたいと考える人たちと、福島の農産物をとりあえず避けたいと考える人たちの間に見解の対立があり、ときには感情的な対立すらみられる。
この問題は原発由来の問題だけではないかなり根深い都市と農村の問題を内包している。農業が地域を越えた全国レベルの市場経済に統合されるなかで(さらにそれがグローバルな市場経済に再統合されようとしてるのだが)、商品化された農産物の使用価値が利潤のために(それも流通や大手小売業や外食産業の販売戦略の影響が大きいと思うが)大きく損なうようになるのは、当然のことであり、そのなかで農民たちの労働もまた農薬や化学肥料による被害を被り、遺伝子組換え作物や食の生産現場の工業化が進んできた。こうした食の商品化の長い歴史的な経緯を見ておくことが必要だろう。今回の原発事故はこの商品化された食の商品化にまつわる問題が端的に突出した形で究極の問題として登場したともいえる。汚染食品の流通は、市場経済が全国的な市場に統合され、安価な農産物を全国から(国境を越えて)調達するような構造になければ、これほどの広がりはなかったのではないか。都市が農産物を需要するために構築してきた都市の食のための全国規模の市場流通そのものが、果たして食の市場として妥当なものなのか、という問いが今回の汚染の拡がりの背景にあることを忘れてはならない。言い換えれば、地域の自給的な市場を解体した大都市と大流通資本中心のメガマーケットそのものが、汚染の拡散を助長したのではないか。その責を生産者である農民に帰すことはできないのではないか、と私は思う。もしこうした観点を踏まえたとき、都市の消費者はそのライフスタイルを再考することもまた問われるのではないか、とも思う。
汚染された農産物問題の元凶は原発であり、その事後処理のずさんさにあるにもかかわらず、対立軸が農民と都市消費者の間にひかれているように思えてならない。この対立から利益を得ているのは誰だろうか?農民と都市の消費者は本当に利害が対立するのだろうか?実は農民と都市の住民との間の対話が決定的に不足していると思う。多くの都市の消費者にとって食料はスーパーに陳列されている商品としてしか見えない。「農」の具体的な現場とそこでの労働は見えにくい。だからアイデンティティの問題が十分に理解できない。しかし、商品化された食の現実への批判的な視点を持ち、これまでのライフスタイルへの懐疑という観点を持ったとき、そこには、食をめぐる別の視点も獲得できるのではないか。農民たちにとっても、風評被害なのか文字通りの被害なのかという問題は、被曝という問題と密接に関わり、実は、自分たちの労働の場である農地の汚染や家族の被曝に関わる問題でもあるはずなのだ。そうであるなら、農民が直面している問題は、実は都市の消費者以上に深刻なのではないか?そうであるにもかかわらず、なおかつ今この場での農業にこだわることの意味をわたしのような都市の住民は想像力をもって「理解」できなければならないと思う。この理解は、肯定とか否定という問題を越えたところで設定される問題である。
汚染をめぐる問題について、両者の間で合意を形成することは不可能とは思わない。農民としての生存の権利(職業選択の自由と居住の自由は憲法が保障している)も都市消費者の生存の権利も原発という主要な敵をめぐる生存権の問題として、100年を単位とした両者の対話のなかで必ず合意できる一致点が見出せると思う。この合意点は原発の拒否という観点によって構想できると思う。
●
想像力の問題は、すぐれて他者への想像力の問題である。つまり、自身の身近な者たちや見知った者たちを越えた、今ここで生きている他者への想像力であり、同時に、未だ出会う機会はなかったが、将来出会うかもしれない(世代を越えた)他者への想像力の問題である。こうした想像力が運動の潜勢力となることは決して不可能ではないが、そうした努力を怠れば、人々の不安は、他者を排除する核シェルターもどきの自己保身だけを生みだし、ますます核の文化が支配の力を増すだけだろうと思う。
避難の問題は、瓦礫や汚染された場所の回復問題と表裏一体。場合によっては数世代、それ以上にわたる大問題である。核がもたらしたディアスポラの問題は、チェルノブイリだけではない。ウラン採掘や核実験などを視野に入れれば、この問題は、戦争、内戦、飢饉などに伴うディアスポラと同様、戦後からポスト冷戦の現在に至るある種の近代性の普遍的な本質に触れる問題であることは確かだろう。以下、緊急署名の呼びかけを転載します。
---------------------<拡散歓迎!>----------------------------
★ふざけるな、原賠審! 一律同額? 雀の涙の見舞金??★
---------------------
「自主」避難者に、正当で幅広い「損害賠償」を!
避難費用実費を賠償すべき
http://hinan-kenri.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-cdf5.html
第一次締め切り 12月2日(金)、第二次締め切り 12月9日(金)
署名フォーム1(PC対応):http://goo.gl/2HQzW
署名フォーム2(PC、携帯対応):
https://pro.form-mailer.jp/fms/795bfc1624252
---------------------------------------------------------- 要請項目
○一律一括の金額ではなく、避難費用の実費がカバーできる賠償とすること
○賠償期間は、少なくとも2年間とすること
---------------------------------------------------------- 下記、要請文
11月25日に開催された原子力損害賠償紛争審査会では、自主避難者・残留者を問わず、すべて一律同額の賠償とする方向で議論が進められました。このままでは、避難に伴う生活費の増加や何度も往復する交通費、子どもや妊婦の付き添いで必要な家族の避難にかかわる費用など、避難に関わる実費を算入することができなくなります。結果的に、一律の見舞金的なものとして、実際に避難にかかった費用に比べて大幅な減額となる可能性が出てきます。
審査会での「一律同額」の根拠は、行政手続きが煩雑になるということでしたが、これは理由になっていません。中間指針に示されている避難区域内の避難者への賠償と同様、被害者からの実費の請求で済む話です。区域内からであろうと、区域外からであろうと、賠償は同様であるべきです。
また、賠償が支払われる期間があまりに短すぎます。審査会では、草間委員から、「緊急時避難準備区域が解除された9月まで」という驚愕の発言がとびだし、結果的には12月という方向が示されていますが、除染に2年かかる、すなわちそれまでには線量が十分さがらないということを考えれば、賠償を認める期間は最低でも2年とし、それ以降も検討できるようにすべきです。
さらに「第二期」(事故後一定期間が経過したのちの期間)は子ども・妊婦本人しか賠償の対象にしないなど、賠償の範囲があまりに限定的です。子ども・妊婦への配慮は、基本的な賠償の範囲を決めて、さらに追加的に賠償範囲を広げる議論の中でなされるべきものであり、賠償範囲を限定するために持ち出されるべきではありません。私たちは、これらの問題を指摘するとともに、原子力損害賠償紛争審査会に、とりわけ以下を要請します。
○一律一括の金額ではなく、避難費用の実費がカバーできる賠償とすること
○賠償期間は、少なくとも2年間とすること
また、東京電力に対しては審査会の議論がどうあれ、自主避難にかかった実費を完全に補償することを求めます。
(呼びかけ)
国際環境NGO FoE Japan(エフ・オー・イー・ジャパン)
福島老朽原発を考える会(フクロウの会)
問い合わせ先:
国際環境NGO FoE Japan 満田/090-6142-1807
福島老朽原発を考える会 阪上/090-8116-7155
---------------------<拡散歓迎!>----------------------------
★ふざけるな、原賠審! 一律同額? 雀の涙の見舞金??★
---------------------
「自主」避難者に、正当で幅広い「損害賠償」を!
避難費用実費を賠償すべき
http://hinan-kenri.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-cdf5.html
第一次締め切り 12月2日(金)、第二次締め切り 12月9日(金)
署名フォーム1(PC対応):http://goo.gl/2HQzW
署名フォーム2(PC、携帯対応):
https://pro.form-mailer.jp/fms/795bfc1624252
---------------------------------------------------------- 要請項目
○一律一括の金額ではなく、避難費用の実費がカバーできる賠償とすること
○賠償期間は、少なくとも2年間とすること
---------------------------------------------------------- 下記、要請文
11月25日に開催された原子力損害賠償紛争審査会では、自主避難者・残留者を問わず、すべて一律同額の賠償とする方向で議論が進められました。このままでは、避難に伴う生活費の増加や何度も往復する交通費、子どもや妊婦の付き添いで必要な家族の避難にかかわる費用など、避難に関わる実費を算入することができなくなります。結果的に、一律の見舞金的なものとして、実際に避難にかかった費用に比べて大幅な減額となる可能性が出てきます。
審査会での「一律同額」の根拠は、行政手続きが煩雑になるということでしたが、これは理由になっていません。中間指針に示されている避難区域内の避難者への賠償と同様、被害者からの実費の請求で済む話です。区域内からであろうと、区域外からであろうと、賠償は同様であるべきです。
また、賠償が支払われる期間があまりに短すぎます。審査会では、草間委員から、「緊急時避難準備区域が解除された9月まで」という驚愕の発言がとびだし、結果的には12月という方向が示されていますが、除染に2年かかる、すなわちそれまでには線量が十分さがらないということを考えれば、賠償を認める期間は最低でも2年とし、それ以降も検討できるようにすべきです。
さらに「第二期」(事故後一定期間が経過したのちの期間)は子ども・妊婦本人しか賠償の対象にしないなど、賠償の範囲があまりに限定的です。子ども・妊婦への配慮は、基本的な賠償の範囲を決めて、さらに追加的に賠償範囲を広げる議論の中でなされるべきものであり、賠償範囲を限定するために持ち出されるべきではありません。私たちは、これらの問題を指摘するとともに、原子力損害賠償紛争審査会に、とりわけ以下を要請します。
○一律一括の金額ではなく、避難費用の実費がカバーできる賠償とすること
○賠償期間は、少なくとも2年間とすること
また、東京電力に対しては審査会の議論がどうあれ、自主避難にかかった実費を完全に補償することを求めます。
(呼びかけ)
国際環境NGO FoE Japan(エフ・オー・イー・ジャパン)
福島老朽原発を考える会(フクロウの会)
問い合わせ先:
国際環境NGO FoE Japan 満田/090-6142-1807
福島老朽原発を考える会 阪上/090-8116-7155
2011年11月21日
【声 明】携帯電話GPSを利用した被疑者の位置確認情報取得に反対します
盗聴法(組織的犯罪対策法)に反対する市民連絡会
日本消費者連盟気付
TEL090-2669-4219
ネットワーク反監視プロジェクト
TEL070-5553-5495
政府・総務省は、11月2日、改定「個人情報保護に関するガイドライン」を公
布・施行し、通信事業者に協力させて携帯電話のGPS機能の利用により、被疑者
の居場所の確認を行うこととしました。通信事業者は、その携帯を有する被疑
者に位置情報の取得を通知しなければならないとされていますが、通信事業者
による通知とは、携帯への画面表示や振動、音などでGPSによる位置情報の取得
を被疑者に知らせるというものです。
これまで、容疑者の居場所は携帯電話の基地局情報を利用しておこなわれて
きましたが、特定できるのは都市で数百メートル四方(PHSで100メートル)、
地方で数キロの範囲にとどまっていました。携帯電話のGPS機能を使えば、建物
内、道路上の人物をピンポイントで把握できます。この携帯電話のGPSを利用し
た位置情報取得には、二つの点で市民の権利を侵害する重大な問題があります。
一つは、これが立法化されていないということです。そもそも誰がどこにい
るのかという位置情報は人の動きを示す重要な個人情報であり、市民のプライ
バシー権の根幹となる問題です。しかし、この重大な問題が国会で議論されず、
捜査当局の捜査優先という既成事実のうえに、総務省によるガイドラインの
「改正」などで処理されたのです。犯罪捜査であれ、市民の位置情報の取得が
許されるのか否か、許されるとすればどういう条件、手続きのもとで可能なの
か、国会で根本から議論されなくてはなりません。「ガイドラインの改正」な
どという小手先の対応で処理されてはならないはずです。
もう一つの問題は、通信事業者の協力をえるには裁判所の令状が必要とされ
ていますが、これが検証令状であるということです。そもそも「検証」とは事
実発見のために場所、物、人の身体などの状況を調べる処分であり、通信を対
象とするものではありません。しかも、検証令状による捜査は、捜索・差押さ
え令状などと比較して事後報告の規定がなく、不服申し立てができないなど、
人権に係わる問題があります。
1999年に世論の強い反対を押しきって盗聴法(「犯罪捜査のための通信傍受
に関する法律」)が制定されましたが、それ以前、盗聴は裁判所の発付する検
証令状と、捜査当局による違法盗聴によって行われてきました。また、本年制
定されたコンピュータ監視法をめぐる国会での議論で、当時の江田法務大臣が
通信履歴のリアルタイム盗聴を検証令状によって行うことを明言しています。
このように捜査当局は、世論の反対が強い捜査手法や捜査権限の強化を国会で
立法化せず、裁判所の発付する検証令状によって実現してきたのです。検証令
状を利用した捜査当局の捜査手法は厳しく批判されなくてはなりません。
通信技術の発達により、市民のプライバシーは大きく脅かされています。プ
ライバシーをいかに守るか、国民的議論が求められているのです。私たちは、
市民のプライバシーを侵害する、検証令状による位置確認情報の取得に強く反
対します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・
【声 明】携帯電話GPSを利用した被疑者の位置確認情報取得に反対します
盗聴法(組織的犯罪対策法)に反対する市民連絡会
日本消費者連盟気付
TEL090-2669-4219
ネットワーク反監視プロジェクト
TEL070-5553-5495
政府・総務省は、11月2日、改定「個人情報保護に関するガイドライン」を公
布・施行し、通信事業者に協力させて携帯電話のGPS機能の利用により、被疑者
の居場所の確認を行うこととしました。通信事業者は、その携帯を有する被疑
者に位置情報の取得を通知しなければならないとされていますが、通信事業者
による通知とは、携帯への画面表示や振動、音などでGPSによる位置情報の取得
を被疑者に知らせるというものです。
これまで、容疑者の居場所は携帯電話の基地局情報を利用しておこなわれて
きましたが、特定できるのは都市で数百メートル四方(PHSで100メートル)、
地方で数キロの範囲にとどまっていました。携帯電話のGPS機能を使えば、建物
内、道路上の人物をピンポイントで把握できます。この携帯電話のGPSを利用し
た位置情報取得には、二つの点で市民の権利を侵害する重大な問題があります。
一つは、これが立法化されていないということです。そもそも誰がどこにい
るのかという位置情報は人の動きを示す重要な個人情報であり、市民のプライ
バシー権の根幹となる問題です。しかし、この重大な問題が国会で議論されず、
捜査当局の捜査優先という既成事実のうえに、総務省によるガイドラインの
「改正」などで処理されたのです。犯罪捜査であれ、市民の位置情報の取得が
許されるのか否か、許されるとすればどういう条件、手続きのもとで可能なの
か、国会で根本から議論されなくてはなりません。「ガイドラインの改正」な
どという小手先の対応で処理されてはならないはずです。
もう一つの問題は、通信事業者の協力をえるには裁判所の令状が必要とされ
ていますが、これが検証令状であるということです。そもそも「検証」とは事
実発見のために場所、物、人の身体などの状況を調べる処分であり、通信を対
象とするものではありません。しかも、検証令状による捜査は、捜索・差押さ
え令状などと比較して事後報告の規定がなく、不服申し立てができないなど、
人権に係わる問題があります。
1999年に世論の強い反対を押しきって盗聴法(「犯罪捜査のための通信傍受
に関する法律」)が制定されましたが、それ以前、盗聴は裁判所の発付する検
証令状と、捜査当局による違法盗聴によって行われてきました。また、本年制
定されたコンピュータ監視法をめぐる国会での議論で、当時の江田法務大臣が
通信履歴のリアルタイム盗聴を検証令状によって行うことを明言しています。
このように捜査当局は、世論の反対が強い捜査手法や捜査権限の強化を国会で
立法化せず、裁判所の発付する検証令状によって実現してきたのです。検証令
状を利用した捜査当局の捜査手法は厳しく批判されなくてはなりません。
通信技術の発達により、市民のプライバシーは大きく脅かされています。プ
ライバシーをいかに守るか、国民的議論が求められているのです。私たちは、
市民のプライバシーを侵害する、検証令状による位置確認情報の取得に強く反
対します。
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実はぼくの10代は東北、仙台での暮らしでした。以下、地下大学のイベントのお知らせ。「東京を放射能のガレキの山に?」というタイトルは、僕がこのブログに書いた原発輸出と汚染瓦礫の処理---東京をゴミ捨て場に!を受けてのこと。ぜひおいでください。
東京を放射能のガレキの山に? それでも逃げたい!? それじゃ喰えない! じゃあ、どうする?
By 地下大学東京 ⋅ 11月 8, 2011 ⋅ Post a comment
11月22日
7:00 PM
────東北育ちの元少年たちが「放射能と労働の地理」を語り合う。
入江公康(サンジカリスト労働運動史)
小倉利丸(経済学)
原発震災は何ひとつ終わっていない。
海に流れ、魚が食い、花粉に飛び、ガレキの山になる放射能がやってくる。
だらだらと核分裂し続ける崩壊した原子炉建屋の中で働くたくさんの人々。
次の地震はいつなのか?
傲慢な大電力消費地・東京に放射性廃棄物を持っていけ!
──というフクシマの声が聞こえる。
少年時代に仙台や郡山を駆け回った二人の労働経済の思考者たちと、
東京フリーターたちが語り合う。
【日時】11月22日(火)19時〜
【場所】素人の乱12号店・きたなかホール(高円寺)
杉並区高円寺北3丁目8-12 フデノビル2F 奥の部屋
(北中通り沿いアヤマ接骨院脇の階段を昇って奥)
http://trio4.nobody.jp/keita/shop/12/map.html
【料金】資料代500円+投げ銭(自由意思)
東京を放射能のガレキの山に? それでも逃げたい!? それじゃ喰えない! じゃあ、どうする?
By 地下大学東京 ⋅ 11月 8, 2011 ⋅ Post a comment
11月22日
7:00 PM
────東北育ちの元少年たちが「放射能と労働の地理」を語り合う。
入江公康(サンジカリスト労働運動史)
小倉利丸(経済学)
原発震災は何ひとつ終わっていない。
海に流れ、魚が食い、花粉に飛び、ガレキの山になる放射能がやってくる。
だらだらと核分裂し続ける崩壊した原子炉建屋の中で働くたくさんの人々。
次の地震はいつなのか?
傲慢な大電力消費地・東京に放射性廃棄物を持っていけ!
──というフクシマの声が聞こえる。
少年時代に仙台や郡山を駆け回った二人の労働経済の思考者たちと、
東京フリーターたちが語り合う。
【日時】11月22日(火)19時〜
【場所】素人の乱12号店・きたなかホール(高円寺)
杉並区高円寺北3丁目8-12 フデノビル2F 奥の部屋
(北中通り沿いアヤマ接骨院脇の階段を昇って奥)
http://trio4.nobody.jp/keita/shop/12/map.html
【料金】資料代500円+投げ銭(自由意思)
以下、ぼくの簡単なコメントの後に緊急声明を転載します。ここ数日、経産省前テントひろばへの右翼や警察による介入と嫌がらせが目に余る。不法占拠だという批判は一見するとそのように思えてしまうが、このテントが設営された場所はもともと不特定多数が通行可能な場所であり、声明にあるように、公共空間といえる場所である。憲法では、言論表現の自由が保障されている。表現の自由は、言論の自由に限定されない。行動によって意思表示する自由も含まれるのだ。テントひろばの設営は、こうした表現の自由の範囲を逸脱しているといえるだろうか?政府の管理区域における管理権の方が優先されるべきなのだろうか?憲法には財産権の保障も明記されているが、表現の自由と財産権(この範疇に国有地が含まれるとは言い難いと私は思うのだが)のどちらが優先されるべきなのかについては明記されていない。経産省の業務を妨害しているわけではなく、経産省の原発対応への異議申し立てとして最も平和的な意思表示なのではないか?テントひろばへの経産省、警察、右翼による妨害は、表現の自由への侵害行為ではないか?権利は人民の不断の努力によって維持されるべき、とは憲法が私たちに課していることでもある。
以下緊急声明
経産省前テントは脱原発、反原発の1つの運動拠点として、9月11日以来、本日まで64日となりました。3月11日の福島第一原発の事故は、チェルノブイリ原発事故に 匹敵する大事故となり、それも未だ収束せず放射能を垂れ流し、日々環境を汚し続け ています。福島第一原発の事故は、原発の安全性は全く嘘であり、著しく危険なものであることが証明され、原発そのものについての根底的な見直しが迫られています。
政府や経産省は「福島第一の事故を踏まえた安全対策」「シビアアクシデント対策」 「ストレステスト」等といいながら、その内実は無に等しい態勢のまま、定期検査や 事故で休止中の原発を「再稼働」させようとしています。
他方、福島原発事故はいまだ収束せず、大量の放射能が既にばらまかれ、今日も出し続けられています。蓄積され放出された放射能は子どもたち、妊婦、女性たちを犯し続けていにもかかわらず、政府・文科省・経産省はそうした危険に関して、責任ある施策を示していません。
経産省前テントは、原発そのものについての根底的な見直しを迫るものであると共に、政府・経産省の「再稼働」の策動に反対するものです。
9月11日にうち立てられたテントは、経産省の管理の国有財産とは言え、公共的空間に存在する市民的運動の拠点、脱原発の正義の場となっています。
しかし、原発について重大な反省を持たない経産省は一方的に「退去・撤去」を迫り、私たちの意志が堅いとみるや、右翼を使って執拗な妨害を加えるようになっています。右翼が経産省の意向に乗っているのか、経産省がやらせているのか、ここは微妙ですが、ほぼ一体となってテントに対する脅迫とイヤガラセが繰り返されています。右翼は「(経産省が)撤去させられないなら、俺たちがやってやる!」というこ とであり、経産省はその勢いに迫られてか、テント周囲にバリカーなるもので鎖を張って「関係者以外の者の立入禁止」等の札を貼り巡らせました(11月12日)。前日11日の雨中の圧倒的な人間の鎖に対する報復でしょうか。同日20時過ぎにはまた右翼がやって来て、一触即発の状況もありました。
経産省は再稼働できないままいくと、来年の4月には大きな政治的危機を迎えるこ とになります。簡単に再稼働出来ないことと簡単にテントを撤去出来ないことは似て いますが、脱原発の大きな市民的国民的うねりがあるからです。ここにも政府や経産 省の本音と建て前の矛盾があります。
私たち経産省前テント広場は60日余にわたって皆様からの暖かい励ましの力を頂い ておりますが、脱原発・反原発を思う全ての市民の皆様に改めて「経産省前テントひ ろばを真に共同の場として守り抜くために、様々な力をお寄せくださいますよう」呼 び掛けたいと思います。
2011年11月13日(日曜日)
経産省前テントひろば代表 淵 上 太 郎
以下緊急声明
経産省前テントは脱原発、反原発の1つの運動拠点として、9月11日以来、本日まで64日となりました。3月11日の福島第一原発の事故は、チェルノブイリ原発事故に 匹敵する大事故となり、それも未だ収束せず放射能を垂れ流し、日々環境を汚し続け ています。福島第一原発の事故は、原発の安全性は全く嘘であり、著しく危険なものであることが証明され、原発そのものについての根底的な見直しが迫られています。
政府や経産省は「福島第一の事故を踏まえた安全対策」「シビアアクシデント対策」 「ストレステスト」等といいながら、その内実は無に等しい態勢のまま、定期検査や 事故で休止中の原発を「再稼働」させようとしています。
他方、福島原発事故はいまだ収束せず、大量の放射能が既にばらまかれ、今日も出し続けられています。蓄積され放出された放射能は子どもたち、妊婦、女性たちを犯し続けていにもかかわらず、政府・文科省・経産省はそうした危険に関して、責任ある施策を示していません。
経産省前テントは、原発そのものについての根底的な見直しを迫るものであると共に、政府・経産省の「再稼働」の策動に反対するものです。
9月11日にうち立てられたテントは、経産省の管理の国有財産とは言え、公共的空間に存在する市民的運動の拠点、脱原発の正義の場となっています。
しかし、原発について重大な反省を持たない経産省は一方的に「退去・撤去」を迫り、私たちの意志が堅いとみるや、右翼を使って執拗な妨害を加えるようになっています。右翼が経産省の意向に乗っているのか、経産省がやらせているのか、ここは微妙ですが、ほぼ一体となってテントに対する脅迫とイヤガラセが繰り返されています。右翼は「(経産省が)撤去させられないなら、俺たちがやってやる!」というこ とであり、経産省はその勢いに迫られてか、テント周囲にバリカーなるもので鎖を張って「関係者以外の者の立入禁止」等の札を貼り巡らせました(11月12日)。前日11日の雨中の圧倒的な人間の鎖に対する報復でしょうか。同日20時過ぎにはまた右翼がやって来て、一触即発の状況もありました。
経産省は再稼働できないままいくと、来年の4月には大きな政治的危機を迎えるこ とになります。簡単に再稼働出来ないことと簡単にテントを撤去出来ないことは似て いますが、脱原発の大きな市民的国民的うねりがあるからです。ここにも政府や経産 省の本音と建て前の矛盾があります。
私たち経産省前テント広場は60日余にわたって皆様からの暖かい励ましの力を頂い ておりますが、脱原発・反原発を思う全ての市民の皆様に改めて「経産省前テントひ ろばを真に共同の場として守り抜くために、様々な力をお寄せくださいますよう」呼 び掛けたいと思います。
2011年11月13日(日曜日)
経産省前テントひろば代表 淵 上 太 郎
反監視の思想(1)
●善意の監視
人が人を監視する関係には、監視する者がその意思や意図に即して監視される者を注視し、時には監視される者の言動(言葉、感情、理解、実際の今ここでの行動あるいは将来の行動)を従わせようとする関係が含まれる。この意味で、監視は、その意図の善悪がどのようなものであれ、他者の自由を規制する意図を含むことになる。上記のように監視を定義すれば、赤ん坊を見守る親であれ、刑務所の囚人の行動を見守る看守であれ、他者の自由への潜在的干渉という点では何らの違いはないといえる。従って、監視という概念は、広義の定義としては、特定の歴史的社会に固有の特徴ではなく、どのような社会でも、人々が相互に他者を見る視線に、監視の性格が秘められているともいえる。あるいは、人が他者とコミュニケーションをとるということそのもののなかに、潜在的な監視の性質が含まれないことの方が稀であるとすら言うことができる。このような広義の意味での監視には、他者への力の行使を伴う支配だけでなく、配慮や他者との協同(協働)のような相互行為を含む人間社会に普遍的にみられるものといえる。他者への配慮が配慮される者から歓迎されることであるかどうかは、事柄の次第によるというべきであろうが、配慮される側は、配慮を裏切らないように自己の行動や思想、感情の自由への抑制を自発的に行うことが期待されているであろうということは了解しうることであり、このような了解が実際に自己の言動の抑制として具体化されるとすれば、それこそが配慮としての監視の意図するところといえる。
このようなある種の善意としての監視は、他者を自己に対する(潜在的)脅威とみなして注視する監視(一般に監視という概念はこの意味あいをもって用いられる)と無関係であるどころか、むしろ善意の監視は敵意の監視を正当化する前提条件をなす場合すらある。善意としての監視を必要とする環境は、ある種の敵意や危険からの保護ないしは防衛と表裏の関係にあるからだ。なぜ善意から出た配慮が必要なのかといえば、こうした配慮がなされないとすれば、相手が何らかの不利益や危険にさらされるであろうからである、というのが監視する側の言い分であろう。しかし、善意としての監視は、単純に監視される者への配慮だけに関わるというよりも、監視される者への何らかの(些細であるかもしれない)危険が配慮する側、善意の主体の利害と直接・間接に関わりあっているからこそ、こうした配慮を行うのだということも言いうることだろう。たとえば、親が赤ん坊を見守るのは、赤ん坊を危険から保護する親としての愛情に基づくともいえるし、赤ん坊を見守らなければならないような環境があるからともいえるが(室内にストーブがあるとか、ベランダから転落する危険があるとか)、同時に、危険にさらして放置することは、親の愛情のみに由来するかどうかは場合によるのであって、時には愛情とはさほど関わりのなく、親としての責任を問われかねないことへの危惧が配慮や善意の外観をもつこともありうる。あるいは、労働過程の協業であれば、仕事における仲間への配慮は、文字通りの仲間へのいたわりから発したものなのか、それとも協業という労働組織を防衛したいがために、配慮の外観をまとったにすぎないのかは、現場の労働者の相互の配慮を生み出す背景に、いかなる労務管理があり、どのような目的をもって協業が組織されているのかによって、その態度をもたらす動機や意味は変わりうる。本当の善意か善意の装いか、ということを詮索することはあまり意味のあることではないのだが、いずれの場合であれ、ある一線を越えた場合、善意の監視が強制力を行使して、危険からの回避を実行するという点でいえば、結果として起きることが、ある種の強制力を伴うという意味でいえば、監視される側にとっては一定の自由の制約に帰結すると言わねばならない。善意であっても監視は力の行使を伴い、監視される者にとって、これが自由への侵害と感じられて、一方の善意が他方にとっての悪意あるいは抑圧と感じられることも稀ではない。
監視の問題は、あからさまな敵意に基づく場合よりも、むしろ善意の監視により深刻な問題が潜んでいる。なぜなら、あからさまな敵意をもった監視は、敵と味方の敵対的な関係そのものが見えやすく、問題の所在や監視がもたらす自由への侵害の妥当性を検討することが容易である一方で、善意の監視の背後に敵意が内在している場合(しかも時には無意識の敵意として監視する側ですらその敵意に気づいていない場合もある)、この力の正当性は疑われることなく妥当な行為として容認される一方で、往々にしてこの隠された敵意が深刻な社会的摩擦をもたらす場合があるからである。
監視には、それ自体に権力関係、すなわち、他者に対する支配あるいは従属が含意されていることは一つの前提、公理である。監視と権力の違いは、後者が一つの力として具体的に他者に対して働きかけることを含むのに対して、監視は、このような対象への働きかけを含むとはいえないが、権力の具体的な行使に前提される行為であって、権力の向かう対象を特定し、権力を行使するかどうかを決定するための判断を構成する。この意味で、権力は監視を前提にしてのみその具体的な力として発現することになる。権力の行使が正当性をもちうるかどうかは、監視の正当性と不可分であるばかりでなく、監視は、権力の正当性の前提をなし、権力が実際に行使されることによってもたらされる諸個人に対する身体的精神的な自由に対する規制(抑圧)の正当化のための根拠を与えるための一連の立証のプロセスでもある。このような意味での監視は、権力の「知識」の源泉であり、監視とは知識である、と断言しても差し支えない。
監視する者が監視される者についての知識を持たないのであれば、監視を十分に果たすことはできない。他方で監視される者は監視する者についての知識を持つことは必ずしも必要はない。これはベンサムの「一望監視」の発想であり、フーコーが強調した点でもある。このようにして考えてみると、監視は、監視をする者とされる者の間に生み出される知識の非対称性を前提とした権力関係の前提条件である。
監視としての機能に寄与する権力による監視対象者についての知識、非対照的な知識とは、支配-従属の人間関係を内包した人間についての知識である。それ自体がいかに科学や法の言語によって語られているとしても、そこには、この知識の非対称性も含めて、どのような社会関係を前提として監視という行為とこの行為を具体化する制度(あるいはこの制度を支えるテクノロジー)を論じるのかが、監視の社会理論にとっては欠かせない。
近代社会を監視社会の観点から見る場合、監視という行為に含まれている人間関係と、近代の民主主義社会が理念的前提としている自由と平等との間には明らかに整合性を欠き矛盾が存在することは、容易にみてとれる。このことは近代社会の自由と平等という理念を擁護する思想家たちにも自覚されていたと思われる。
●近代自由思想と監視
ルソーは『社会契約論』(桑原武夫、前川貞次郎訳、岩波文庫)の冒頭で、人間は自由な存在として生まれたのだが、同時に、この自由は、支配者が「人民の自由をうばったその同じ権利によって、自分の自由を回復する」と述べている。この表現は、人民の自由は、人民自らが支配者なしで、自らの意思のみに基づいて維持することも実現することもできない、という前提の上で述べられている。だから、「社会秩序はすべての他の権利の基礎となる神聖な権利」であって、この権利は自然に与えられるものではなく「約束にもとづくもの」(15ページ)であるとして、自由と支配の間の妥協線引くことをルソーは試みる。同時に、こうした議論の大前提には、国家を一般意志の体現者として人民の個別の意志(特殊意志)を指導する位置にあるとみなす理解があり、近代国家の主権国家としての絶対的な優位性(人民に対する支配の正統性)と封建制の社会には見出しがたかった個人としての人間の自由との間の折り合いをつける仕掛けが社会契約であると考えたのだ。
このようなルソーの考え方は、社会契約を前提とした自由であるから、社会契約を拒否する者たちや、この契約にそもそも含まれない者たちは、自らの「自由」のために一般意志に自己の特殊意志を従属させる契約関係から排除あるいは離脱する者ということになる。ルソーは、こうした者のなかに犯罪者を含むとしている。個別意志とは区別される一般意志があるとする以上、この両者の間には矛盾や両立しがたい対立が潜在的に存在することを否定できない。もし、そうだとすれば、一般意志と対立する個別意志を持つ者や犯罪者となりうる可能性のある者(つまり、すべての人民を意味せざるをえないわけだが)は、社会契約の主体でありながら、同時にこの契約に違反する潜在的可能性をもつ者ということになる。言うまでもなく外国人は、たとえ犯罪者でなくとも社会契約の当事者となりえないから、契約の外部にある者として、彼らがどのような個別意志をもっているのかに関わりなく、社会契約に服す必要のない者として、国家に対する潜在的な脅威とみなされることになる。こうした外部の者を国家が受け入れる唯一の回路は、こうした潜在的な危険性に対して、社会契約の遵守、あるいは外国人の同化という啓蒙によることになるだろう。言い換えればすべての人々は、例外なく理性的な理解力によって市民としてのわきまえを持ちうるとみなす人間観を前提に外部の者がこの前提を受け入れるかどうかという踏み絵を踏ませることになる。啓蒙とは、知識による支配の典型であり、啓蒙にもかかわらず、社会契約に反する行為を行う者に対しては、容赦のない対処を是認することにもなる。
このようなルソーの社会契約論を監視社会の文脈で捉えるとすると、監視とは、社会契約に違反する者たち、あるいはこの契約のそもそもの埒外にある者たちを対象とするものであるということになる。監視は、人々が社会契約への違反の「意志」をもつのかどうかという「意志」レベルに定位されなければ、啓蒙という支配者の行為(これは広義の意味での教育として制度化されるとみていい)が具体化できないことも明らかであり、人々の価値観や世界観への監視に結びつく可能性を否定できない。近代社会における監視の典型がここには見出される。つまり、社会契約を遵守する者たちへの自由の保障とその外部にあるもの、あるいはここから排除される者への監視である。これは、社会契約を保護することがこの契約を前提とした人民の自由を保障するからだが、このことが具体的な社会制度との関わりでいえば、一般意志の体現者としての国家による安全の保障へとつながっていく。この限りでルソーの社会契約論は、国家の正統性のためのイデオロギーとして機能し、国家による人民への監視を正当化する道具立てとして転用しうるものとなる。
もう一人、J.S.ミルの場合を見ておこう。近代思想が自由の限界を論じる場合に、ある種の普遍的な正しさの確信に支えられる傾向(それを神と呼ぼうが理性と呼ぼうが、この傾向がもたらす抑圧の効果は同じである)そのもののなかに、自由を損なう潜在的な危険があることについても、近代思想のなかでは重要な争点をなしてきた。J.S.ミルの『自由論』(塩尻公明、高木健康訳、岩波文庫)が言論の自由の古典とみなされ、近代社会の自由を論じる場合の重要なテクストとされているのは、ミルにとっての自由とは、他者の権利を侵害しない限り、たとえ人が支配的な価値観や道徳、宗教的信条に反しているような信条をもったり生活態度をとるとしても、そのことをもってその人を処罰すべきではない、という主張によることはよく知られている。他方で、ミルは、国家による個人の自由への抑制が往々にしてこの意味での自由を侵害しかねない傾向を強くもつことに警鐘を鳴らしてもいた。たとえば、「社会的権利」を持ち出して、酒類販売を禁止すべきであるという主張に対する次のようなミルの反論は、ゼロトレランスをあたかも当然のこととして肯定する現代の治安政策への批判にも当てはまる重要な警句であろう。
引用:「他の一切の人々をして、あらゆる点で彼らのまさに為すべきことを厳密に履行させるということが、あらゆる個人の絶対的な社会的権利であるということ、また、もっとも些末な事柄においてすら為すべきことを為さなかった者は、私の社会的権利を侵害するものであり、したがって、私は、この不満を取り除くことを立法府に向かって要求する権利を取得するということ(略)このような奇怪な原理は、個々の自由侵犯のいかなるものよりも、はるかに危険なものである。(略)この学説によれば、すべての人間は、相互に相手の道徳的、知的完成に対して、さらに肉体的完成に対してさえ、[これに干渉しうるだけの]既得権としての利害関係をもっているのであり、しかも、この利害関係は、各々の権利者自身に従って定義されることになっているのである」(181ー2ページ)
「些末なこと」すら社会的権利の侵害とみなす人々の感情は、この「些末なこと」が未だに具体的な事実とはなっていないが将来において生じうる具体的(と感じられる)自己の権利への侵害への危機感と結びついている。論理的あるいは具体的な事実に基づく客観的な将来への危機感について、ミルの自由擁護の主張はある種の揺らぎ、あるいは自由を制約しうる可能性への擁護を含意する主張に道を開いている。たとえば---ここでもミルが挙げている例示は、経済活動の自由に関わるのだが---毒薬の販売を規制するような場合、「警察の職能と称するものの適当な限界はどこにあるのか、犯罪や災害を予防するために自由を侵害するとは、どの程度まで正当でありうるか、という問題」(192ー3)を提起する。ミルは、まず、予防のための警察による権力行使が政府による自由に対する権力濫用の危険性が極めて高いとして次のように指摘する。
引用:「犯罪がなされるに先だってこれを予防することは、犯罪がなされた後にこれを捜査し処罰することと同様に、争う余地のない政府の職能の一つである。しかし、政府の予防的な職能は、処罰の職能に比較して、自由を侵害するように濫用せられる危険がはるかに大である。なぜならば、人間の正当な自由行為のどの部分をとってみても、それが何らかの形の犯罪にとって便宜を増大するものだと言われないものはないし、しかもそう言われるのが当然だからである。」(192)
自由の拡張が「犯罪」への便宜拡大とみなされかねないが、そうであっても自由の拡張は必要だというミルの主張は、私も同意できる。自由を抑えるような権力行使こをが抑制されるべきだとするミルの主張こそ、「体感治安」や「割れ窓理論」などを持ち出して、予防的は警察権力の行使を当然とみなす現在の政府や捜査機関に対するまっとうな批判でもある。ポストモダンの保守主義的自由主義がこの近代の自由主義を反故にしてしまった歴史的経緯の背後にどのようなイデオロギー的な転換があったのかは、それ自体重要な検討課題だろうが、これは将来への私の宿題としたい。
しかし、これに続けてミルは次のように述べるとき、ミルの自由論の限界も見えてくる。
引用:「だが、もしも官憲が、いや、一私人でさえもが、誰か明らかに犯罪を犯そうとしている者を発見するならば、彼らはその犯罪が遂行されるまで手を束ねて見ていなければならないわけではなく、それを防ぐために干渉してもよいのである。」(194)
ここでミルが「干渉」として述べていることは、官憲による逮捕や司法による処罰といった強制力行使を意味しているわけではない。ミルはベンサムの「予定的証拠」の理論を引き合いにだして、ある一定の条件の下で毒薬の販売を認めるべきであるとした。この条件とは、「契約[この場合は毒薬の売買契約を指す]の履行を強制するための条件として、署名や立会人の証言や其他所定の形式的手続きの遵守を命ずることは、常に行われていることであり、また正当である。(略)犯罪の手段となるに適している物品の販売については(中略)例えば、販売者に命じて、売買の正確な時刻、購買者の姓名と住所、売られた商品の正確な質と量とを帳簿に記入させ、またいかなる目的のために買おうとするかを質問させて、与えられた答弁を記録させることにしてもよいであろう。」(195)
こうして表現の自由の主張者として有名なミルですら「自己のみに関する個人の不行跡に対して、予防または刑罰の形式を以て干渉することは正当ではありえない」(196)としながらも「事前の予防策によって自らに対する犯罪を防止することは、社会に固有の権利である」(195)ということを認める。
ここには近代思想における自由の臨界領域とこの自由に潜在する社会的配慮の「監視」を肯定する思想的な枠組みがよく示されている。自由を標榜する社会が、同時に監視の技術を高度化させ、人々の行為の動機や意図を探ること(これを「配慮」と言い換えてもいい)を正当化する、これは、皮肉でも何でもなく、自由社会を防衛するための一つの思想的な根拠になってきた。社会が社会である以上、常に周縁部をもち、外部をもつ。何を周縁と呼び、誰を外部に属する者なのか、どのような行為を犯罪の範疇にあるものとし、刑罰を課すべきものとするのか定める「力」をもつのは、社会を統治する者たち以外にない以上、自由と監視は相互補完的に機能せざるをえないのである。
この意味で、近代国家は、神に代わって地上の神を演じていることは間違いない。国家はある種の普遍的な理念の具体的な体現であり、それを西欧近代国家は理性や普遍的意志や絶対精神といった唯一絶対の何ものかとして、人びとの自発的合意を形成するか、人々に受け入れさせるような強制力を発動してきた。民主主義と諸々の権威主義や王政や神権政治とは、国家とその構成員(「国民」という範疇で括りうる人口)にとって、この点で変わるところはない。むしろ民衆による下からの同意(契約)という仕掛けを組み込むことによって、西欧の場合は、理性(神)と国家と民衆の三位一体を国家によって実現し、人民を支配の装置の内部に支配の「主体」として擬制的(形式的)に包摂するために、この三位一体の構造から排除すべき「人民」を選別するための監視の装置を備えることが必然的な要件となった。
国家による支配と民衆の自由の相克、あるいは相互依存問題は、ルソーやミルに限らず西欧近代の社会思想のなかで繰り返し論じられた問題だが、近代思想が論じる自由と監視の関係は、「個人」という抽象的概念を政治の文脈のなかで論じるのが常であったという点に限界があった。この点は、近代社会が資本主義に固有の階級構造をもち、のっぺりとした「個人」の概念は、現実の個人が抱えている人間関係やこの人間関係を規定する社会構造がもたらす社会的な問題を見えないものにして、すべてを「個人」に還元しがちだ。この様な意味での個人主義的理解の典型は、犯罪を個人の資質や遺伝的形質などに還元する個人主義や、資本主義的な階級構造が不可避に搾取と貧困を生みだすにもかかわらず、これを個人の能力や運命に還元して理解するような傾向に見出せる。こうした理解に対する異論が社会理論として登場するのは、社会主義者たちによる資本主義批判、とりわけマルクスによるそれを待たなければならない。
●善意の監視
人が人を監視する関係には、監視する者がその意思や意図に即して監視される者を注視し、時には監視される者の言動(言葉、感情、理解、実際の今ここでの行動あるいは将来の行動)を従わせようとする関係が含まれる。この意味で、監視は、その意図の善悪がどのようなものであれ、他者の自由を規制する意図を含むことになる。上記のように監視を定義すれば、赤ん坊を見守る親であれ、刑務所の囚人の行動を見守る看守であれ、他者の自由への潜在的干渉という点では何らの違いはないといえる。従って、監視という概念は、広義の定義としては、特定の歴史的社会に固有の特徴ではなく、どのような社会でも、人々が相互に他者を見る視線に、監視の性格が秘められているともいえる。あるいは、人が他者とコミュニケーションをとるということそのもののなかに、潜在的な監視の性質が含まれないことの方が稀であるとすら言うことができる。このような広義の意味での監視には、他者への力の行使を伴う支配だけでなく、配慮や他者との協同(協働)のような相互行為を含む人間社会に普遍的にみられるものといえる。他者への配慮が配慮される者から歓迎されることであるかどうかは、事柄の次第によるというべきであろうが、配慮される側は、配慮を裏切らないように自己の行動や思想、感情の自由への抑制を自発的に行うことが期待されているであろうということは了解しうることであり、このような了解が実際に自己の言動の抑制として具体化されるとすれば、それこそが配慮としての監視の意図するところといえる。
このようなある種の善意としての監視は、他者を自己に対する(潜在的)脅威とみなして注視する監視(一般に監視という概念はこの意味あいをもって用いられる)と無関係であるどころか、むしろ善意の監視は敵意の監視を正当化する前提条件をなす場合すらある。善意としての監視を必要とする環境は、ある種の敵意や危険からの保護ないしは防衛と表裏の関係にあるからだ。なぜ善意から出た配慮が必要なのかといえば、こうした配慮がなされないとすれば、相手が何らかの不利益や危険にさらされるであろうからである、というのが監視する側の言い分であろう。しかし、善意としての監視は、単純に監視される者への配慮だけに関わるというよりも、監視される者への何らかの(些細であるかもしれない)危険が配慮する側、善意の主体の利害と直接・間接に関わりあっているからこそ、こうした配慮を行うのだということも言いうることだろう。たとえば、親が赤ん坊を見守るのは、赤ん坊を危険から保護する親としての愛情に基づくともいえるし、赤ん坊を見守らなければならないような環境があるからともいえるが(室内にストーブがあるとか、ベランダから転落する危険があるとか)、同時に、危険にさらして放置することは、親の愛情のみに由来するかどうかは場合によるのであって、時には愛情とはさほど関わりのなく、親としての責任を問われかねないことへの危惧が配慮や善意の外観をもつこともありうる。あるいは、労働過程の協業であれば、仕事における仲間への配慮は、文字通りの仲間へのいたわりから発したものなのか、それとも協業という労働組織を防衛したいがために、配慮の外観をまとったにすぎないのかは、現場の労働者の相互の配慮を生み出す背景に、いかなる労務管理があり、どのような目的をもって協業が組織されているのかによって、その態度をもたらす動機や意味は変わりうる。本当の善意か善意の装いか、ということを詮索することはあまり意味のあることではないのだが、いずれの場合であれ、ある一線を越えた場合、善意の監視が強制力を行使して、危険からの回避を実行するという点でいえば、結果として起きることが、ある種の強制力を伴うという意味でいえば、監視される側にとっては一定の自由の制約に帰結すると言わねばならない。善意であっても監視は力の行使を伴い、監視される者にとって、これが自由への侵害と感じられて、一方の善意が他方にとっての悪意あるいは抑圧と感じられることも稀ではない。
監視の問題は、あからさまな敵意に基づく場合よりも、むしろ善意の監視により深刻な問題が潜んでいる。なぜなら、あからさまな敵意をもった監視は、敵と味方の敵対的な関係そのものが見えやすく、問題の所在や監視がもたらす自由への侵害の妥当性を検討することが容易である一方で、善意の監視の背後に敵意が内在している場合(しかも時には無意識の敵意として監視する側ですらその敵意に気づいていない場合もある)、この力の正当性は疑われることなく妥当な行為として容認される一方で、往々にしてこの隠された敵意が深刻な社会的摩擦をもたらす場合があるからである。
監視には、それ自体に権力関係、すなわち、他者に対する支配あるいは従属が含意されていることは一つの前提、公理である。監視と権力の違いは、後者が一つの力として具体的に他者に対して働きかけることを含むのに対して、監視は、このような対象への働きかけを含むとはいえないが、権力の具体的な行使に前提される行為であって、権力の向かう対象を特定し、権力を行使するかどうかを決定するための判断を構成する。この意味で、権力は監視を前提にしてのみその具体的な力として発現することになる。権力の行使が正当性をもちうるかどうかは、監視の正当性と不可分であるばかりでなく、監視は、権力の正当性の前提をなし、権力が実際に行使されることによってもたらされる諸個人に対する身体的精神的な自由に対する規制(抑圧)の正当化のための根拠を与えるための一連の立証のプロセスでもある。このような意味での監視は、権力の「知識」の源泉であり、監視とは知識である、と断言しても差し支えない。
監視する者が監視される者についての知識を持たないのであれば、監視を十分に果たすことはできない。他方で監視される者は監視する者についての知識を持つことは必ずしも必要はない。これはベンサムの「一望監視」の発想であり、フーコーが強調した点でもある。このようにして考えてみると、監視は、監視をする者とされる者の間に生み出される知識の非対称性を前提とした権力関係の前提条件である。
監視としての機能に寄与する権力による監視対象者についての知識、非対照的な知識とは、支配-従属の人間関係を内包した人間についての知識である。それ自体がいかに科学や法の言語によって語られているとしても、そこには、この知識の非対称性も含めて、どのような社会関係を前提として監視という行為とこの行為を具体化する制度(あるいはこの制度を支えるテクノロジー)を論じるのかが、監視の社会理論にとっては欠かせない。
近代社会を監視社会の観点から見る場合、監視という行為に含まれている人間関係と、近代の民主主義社会が理念的前提としている自由と平等との間には明らかに整合性を欠き矛盾が存在することは、容易にみてとれる。このことは近代社会の自由と平等という理念を擁護する思想家たちにも自覚されていたと思われる。
●近代自由思想と監視
ルソーは『社会契約論』(桑原武夫、前川貞次郎訳、岩波文庫)の冒頭で、人間は自由な存在として生まれたのだが、同時に、この自由は、支配者が「人民の自由をうばったその同じ権利によって、自分の自由を回復する」と述べている。この表現は、人民の自由は、人民自らが支配者なしで、自らの意思のみに基づいて維持することも実現することもできない、という前提の上で述べられている。だから、「社会秩序はすべての他の権利の基礎となる神聖な権利」であって、この権利は自然に与えられるものではなく「約束にもとづくもの」(15ページ)であるとして、自由と支配の間の妥協線引くことをルソーは試みる。同時に、こうした議論の大前提には、国家を一般意志の体現者として人民の個別の意志(特殊意志)を指導する位置にあるとみなす理解があり、近代国家の主権国家としての絶対的な優位性(人民に対する支配の正統性)と封建制の社会には見出しがたかった個人としての人間の自由との間の折り合いをつける仕掛けが社会契約であると考えたのだ。
このようなルソーの考え方は、社会契約を前提とした自由であるから、社会契約を拒否する者たちや、この契約にそもそも含まれない者たちは、自らの「自由」のために一般意志に自己の特殊意志を従属させる契約関係から排除あるいは離脱する者ということになる。ルソーは、こうした者のなかに犯罪者を含むとしている。個別意志とは区別される一般意志があるとする以上、この両者の間には矛盾や両立しがたい対立が潜在的に存在することを否定できない。もし、そうだとすれば、一般意志と対立する個別意志を持つ者や犯罪者となりうる可能性のある者(つまり、すべての人民を意味せざるをえないわけだが)は、社会契約の主体でありながら、同時にこの契約に違反する潜在的可能性をもつ者ということになる。言うまでもなく外国人は、たとえ犯罪者でなくとも社会契約の当事者となりえないから、契約の外部にある者として、彼らがどのような個別意志をもっているのかに関わりなく、社会契約に服す必要のない者として、国家に対する潜在的な脅威とみなされることになる。こうした外部の者を国家が受け入れる唯一の回路は、こうした潜在的な危険性に対して、社会契約の遵守、あるいは外国人の同化という啓蒙によることになるだろう。言い換えればすべての人々は、例外なく理性的な理解力によって市民としてのわきまえを持ちうるとみなす人間観を前提に外部の者がこの前提を受け入れるかどうかという踏み絵を踏ませることになる。啓蒙とは、知識による支配の典型であり、啓蒙にもかかわらず、社会契約に反する行為を行う者に対しては、容赦のない対処を是認することにもなる。
このようなルソーの社会契約論を監視社会の文脈で捉えるとすると、監視とは、社会契約に違反する者たち、あるいはこの契約のそもそもの埒外にある者たちを対象とするものであるということになる。監視は、人々が社会契約への違反の「意志」をもつのかどうかという「意志」レベルに定位されなければ、啓蒙という支配者の行為(これは広義の意味での教育として制度化されるとみていい)が具体化できないことも明らかであり、人々の価値観や世界観への監視に結びつく可能性を否定できない。近代社会における監視の典型がここには見出される。つまり、社会契約を遵守する者たちへの自由の保障とその外部にあるもの、あるいはここから排除される者への監視である。これは、社会契約を保護することがこの契約を前提とした人民の自由を保障するからだが、このことが具体的な社会制度との関わりでいえば、一般意志の体現者としての国家による安全の保障へとつながっていく。この限りでルソーの社会契約論は、国家の正統性のためのイデオロギーとして機能し、国家による人民への監視を正当化する道具立てとして転用しうるものとなる。
もう一人、J.S.ミルの場合を見ておこう。近代思想が自由の限界を論じる場合に、ある種の普遍的な正しさの確信に支えられる傾向(それを神と呼ぼうが理性と呼ぼうが、この傾向がもたらす抑圧の効果は同じである)そのもののなかに、自由を損なう潜在的な危険があることについても、近代思想のなかでは重要な争点をなしてきた。J.S.ミルの『自由論』(塩尻公明、高木健康訳、岩波文庫)が言論の自由の古典とみなされ、近代社会の自由を論じる場合の重要なテクストとされているのは、ミルにとっての自由とは、他者の権利を侵害しない限り、たとえ人が支配的な価値観や道徳、宗教的信条に反しているような信条をもったり生活態度をとるとしても、そのことをもってその人を処罰すべきではない、という主張によることはよく知られている。他方で、ミルは、国家による個人の自由への抑制が往々にしてこの意味での自由を侵害しかねない傾向を強くもつことに警鐘を鳴らしてもいた。たとえば、「社会的権利」を持ち出して、酒類販売を禁止すべきであるという主張に対する次のようなミルの反論は、ゼロトレランスをあたかも当然のこととして肯定する現代の治安政策への批判にも当てはまる重要な警句であろう。
引用:「他の一切の人々をして、あらゆる点で彼らのまさに為すべきことを厳密に履行させるということが、あらゆる個人の絶対的な社会的権利であるということ、また、もっとも些末な事柄においてすら為すべきことを為さなかった者は、私の社会的権利を侵害するものであり、したがって、私は、この不満を取り除くことを立法府に向かって要求する権利を取得するということ(略)このような奇怪な原理は、個々の自由侵犯のいかなるものよりも、はるかに危険なものである。(略)この学説によれば、すべての人間は、相互に相手の道徳的、知的完成に対して、さらに肉体的完成に対してさえ、[これに干渉しうるだけの]既得権としての利害関係をもっているのであり、しかも、この利害関係は、各々の権利者自身に従って定義されることになっているのである」(181ー2ページ)
「些末なこと」すら社会的権利の侵害とみなす人々の感情は、この「些末なこと」が未だに具体的な事実とはなっていないが将来において生じうる具体的(と感じられる)自己の権利への侵害への危機感と結びついている。論理的あるいは具体的な事実に基づく客観的な将来への危機感について、ミルの自由擁護の主張はある種の揺らぎ、あるいは自由を制約しうる可能性への擁護を含意する主張に道を開いている。たとえば---ここでもミルが挙げている例示は、経済活動の自由に関わるのだが---毒薬の販売を規制するような場合、「警察の職能と称するものの適当な限界はどこにあるのか、犯罪や災害を予防するために自由を侵害するとは、どの程度まで正当でありうるか、という問題」(192ー3)を提起する。ミルは、まず、予防のための警察による権力行使が政府による自由に対する権力濫用の危険性が極めて高いとして次のように指摘する。
引用:「犯罪がなされるに先だってこれを予防することは、犯罪がなされた後にこれを捜査し処罰することと同様に、争う余地のない政府の職能の一つである。しかし、政府の予防的な職能は、処罰の職能に比較して、自由を侵害するように濫用せられる危険がはるかに大である。なぜならば、人間の正当な自由行為のどの部分をとってみても、それが何らかの形の犯罪にとって便宜を増大するものだと言われないものはないし、しかもそう言われるのが当然だからである。」(192)
自由の拡張が「犯罪」への便宜拡大とみなされかねないが、そうであっても自由の拡張は必要だというミルの主張は、私も同意できる。自由を抑えるような権力行使こをが抑制されるべきだとするミルの主張こそ、「体感治安」や「割れ窓理論」などを持ち出して、予防的は警察権力の行使を当然とみなす現在の政府や捜査機関に対するまっとうな批判でもある。ポストモダンの保守主義的自由主義がこの近代の自由主義を反故にしてしまった歴史的経緯の背後にどのようなイデオロギー的な転換があったのかは、それ自体重要な検討課題だろうが、これは将来への私の宿題としたい。
しかし、これに続けてミルは次のように述べるとき、ミルの自由論の限界も見えてくる。
引用:「だが、もしも官憲が、いや、一私人でさえもが、誰か明らかに犯罪を犯そうとしている者を発見するならば、彼らはその犯罪が遂行されるまで手を束ねて見ていなければならないわけではなく、それを防ぐために干渉してもよいのである。」(194)
ここでミルが「干渉」として述べていることは、官憲による逮捕や司法による処罰といった強制力行使を意味しているわけではない。ミルはベンサムの「予定的証拠」の理論を引き合いにだして、ある一定の条件の下で毒薬の販売を認めるべきであるとした。この条件とは、「契約[この場合は毒薬の売買契約を指す]の履行を強制するための条件として、署名や立会人の証言や其他所定の形式的手続きの遵守を命ずることは、常に行われていることであり、また正当である。(略)犯罪の手段となるに適している物品の販売については(中略)例えば、販売者に命じて、売買の正確な時刻、購買者の姓名と住所、売られた商品の正確な質と量とを帳簿に記入させ、またいかなる目的のために買おうとするかを質問させて、与えられた答弁を記録させることにしてもよいであろう。」(195)
こうして表現の自由の主張者として有名なミルですら「自己のみに関する個人の不行跡に対して、予防または刑罰の形式を以て干渉することは正当ではありえない」(196)としながらも「事前の予防策によって自らに対する犯罪を防止することは、社会に固有の権利である」(195)ということを認める。
ここには近代思想における自由の臨界領域とこの自由に潜在する社会的配慮の「監視」を肯定する思想的な枠組みがよく示されている。自由を標榜する社会が、同時に監視の技術を高度化させ、人々の行為の動機や意図を探ること(これを「配慮」と言い換えてもいい)を正当化する、これは、皮肉でも何でもなく、自由社会を防衛するための一つの思想的な根拠になってきた。社会が社会である以上、常に周縁部をもち、外部をもつ。何を周縁と呼び、誰を外部に属する者なのか、どのような行為を犯罪の範疇にあるものとし、刑罰を課すべきものとするのか定める「力」をもつのは、社会を統治する者たち以外にない以上、自由と監視は相互補完的に機能せざるをえないのである。
この意味で、近代国家は、神に代わって地上の神を演じていることは間違いない。国家はある種の普遍的な理念の具体的な体現であり、それを西欧近代国家は理性や普遍的意志や絶対精神といった唯一絶対の何ものかとして、人びとの自発的合意を形成するか、人々に受け入れさせるような強制力を発動してきた。民主主義と諸々の権威主義や王政や神権政治とは、国家とその構成員(「国民」という範疇で括りうる人口)にとって、この点で変わるところはない。むしろ民衆による下からの同意(契約)という仕掛けを組み込むことによって、西欧の場合は、理性(神)と国家と民衆の三位一体を国家によって実現し、人民を支配の装置の内部に支配の「主体」として擬制的(形式的)に包摂するために、この三位一体の構造から排除すべき「人民」を選別するための監視の装置を備えることが必然的な要件となった。
国家による支配と民衆の自由の相克、あるいは相互依存問題は、ルソーやミルに限らず西欧近代の社会思想のなかで繰り返し論じられた問題だが、近代思想が論じる自由と監視の関係は、「個人」という抽象的概念を政治の文脈のなかで論じるのが常であったという点に限界があった。この点は、近代社会が資本主義に固有の階級構造をもち、のっぺりとした「個人」の概念は、現実の個人が抱えている人間関係やこの人間関係を規定する社会構造がもたらす社会的な問題を見えないものにして、すべてを「個人」に還元しがちだ。この様な意味での個人主義的理解の典型は、犯罪を個人の資質や遺伝的形質などに還元する個人主義や、資本主義的な階級構造が不可避に搾取と貧困を生みだすにもかかわらず、これを個人の能力や運命に還元して理解するような傾向に見出せる。こうした理解に対する異論が社会理論として登場するのは、社会主義者たちによる資本主義批判、とりわけマルクスによるそれを待たなければならない。
経産省前のテントひろばへの妨害が目に余る。以下、経産省前テントひろば運営委員会からの声明を転載します。
http://tentohiroba.tumblr.com/
声明
「経産省前テントひろば」への妨害に抗議するとともに、みなさまへさらなる支援を呼びかけます。
9月11日に「人間の鎖」が経産省を包囲した直後に、経産省本館前に反原発テントが建てられて2か月が経ちました。テントは3つに増えて今も24時間の泊まり込みが続いています。3.11の福島原発事故を受け、脱原発や福島への補償を求めて動き出した多くの人が出会い、話し合い、行動するための場として広がり続けています。
テント近くでは9月11日〜21日に経産省前で若者たちのハンガーストライキが行われ、10月27日〜29日は「原発いらない福島の女たち」、30日〜11月5日は「原発いらない全国の女たち」の座り込みもテントを活用しながら行われました。そして11月11日に再び「たそがれの経産省キャンドル包囲『人間の鎖』」を迎えます。玄海原発4号機の強引極まりない再稼働、ベトナムへの原発輸出の政府合意など、 政府や電力会社の原発推進が加速する中、東京の原発反対アクションは経産省テントの継続とともに進んでいます。
しかしそれゆえに、右翼団体によるテントへの妨害行為が増えています。福島と全国の女性たちの座り込み中から右翼団体の街宣車が何度かテント前に押し寄せ、長時間停車し、座り込みやテントへの非難を大音量で浴びせました。そして全国女性の座り込みが終了したばかりの11月6日の何と午前3時半に街宣車3台で7〜8人が降りてきて2時間にわたって妨害をしてきました。また6日11時過ぎ、17時ごろと街宣車数台〜20台でテントに向かっての大音量の放列が1時間続きました。テントを「不法占拠」「過激派」とレッテル張りし、性差別や民族差別のヘイトスピーチを繰り返しました。こうした卑劣な発言や妨害は社会的に許されない行為です。
そして現場の丸の内警察はこうした違法行為を何ら取り締まらずに放置しており、6日夕方には丸の内署の警備課長が「不法占拠だ、撤去、撤去!」と露骨な発言をしました。そして8日18時ごろには2人の右翼とともにテント内へ侵入し、テント関係者に事情聴取のため警察署への任意同行を要請してきました。任意同行で連れて行き、逮捕に切り替える、という手段と思われます。公安警察もテント入り口まで来て、トラブルを起こすならテントを撤去するぞなどと言ってきました。救援連絡センターから弁護士が駆けつけ、反論し、事なきを得ました。9日昼は数十人の右翼が押し寄せ、テント内に侵入され2時間近く妨害され、私たちはテント前に立てていた数本の旗を撤収することにしました。
こうした一連の妨害から考えられるのは、警察権力が直にテントに介入すると「反原発を求める声と運動をつぶした」という批判を浴びるため、右翼団体と連携しながら介入しているのではないかということ。また社会的注目の集まっていた座り込みの時期には露骨な介入を控えながら、それが終わった隙間を狙ってきただろうということ。そして右翼と警察はテントになにかしら言いがかりをつけて挑発し、揉め事を起こし、こちらがそれに乗ったところで公務執行妨害罪で逮捕し、家宅捜索(ガサ入れ)の名目でテントを撤去、というシナリオを描いていると思われることです。また11月5日早朝には、経産省本館前でトイレを貸すことを求めた男性が何と建造物侵入罪で逮捕され、丸の内署に入れられ、11月16日までの勾留がついてしまいました。これもテントの盛り上がりに対する八つ当たり的な不当弾圧であることは明らかです。
私たちは、警視庁、丸の内警察、右翼団体に対してテントや周辺の人々への一切の妨害、脅迫、弾圧を今すぐ中止することを強く要求します。
その上で、今後も妨害の強まりが予想されます。しかし私たちは常に少人数での対応を強いられています。そこでこの問題に関心を寄せるみなさまに、以下の支援を求めます。
1:この問題やテントの存在、意義を広く伝えて下さい。
経産省前テントひろばは福島と全国の女性の座り込みを通して多くの方が立ち寄るようになりましたが、まだまだ広く知られているとは言えません。マスコミや市民メディアの方に取材を求めるとともに、みなさまには口コミやインターネットで継続的に周囲に伝えて頂くことをお願いします。
2:「経産省前テントひろば」の運営にご参加いただき、泊まり込みや情報発信にご協力ください。
「テントひろば」は様々な団体、個人が集まり運営されています。特に、日々刻々と移り変わる情勢や妨害行為へ対応するためのインターネットでの情報発信メンバーや、テントを維持するための夜間の泊まり込みメンバーが不足しています。直接テントを訪れていただくか、下記の連絡先までご連絡下さい。
3:テントを活用して、盛り上げてください!
常にテントに人と注目が集まっているようにすることが、妨害や弾圧をさせないためにも最も有効です。そこで私たちは「11・11−12・11再稼働反対!全国アクション実行委員会」とともに、11月11日から12月11日までの1ヶ月間を「再稼働反対アクション月間」と打ち出し、原発に反対してきたさまざまな団体・個人の方々に経産省前テントとその周辺でアクションを企画することを呼びかけます。それらを通して絶えず経産省に圧力をかけ、人と人がつながる場を作り出し、より大きな運動にしていければ、妨害をはねのけ、原発は止められます。ぜひ、ご協力をお願いします。
「再稼働反対アクション月間@経産省前テント」
★2011年11月11日(金)〜12月11日(日)
★場所:「経産省前テントひろば」 http://tentohiroba.tumblr.com/
★現在の決定アクション
11月11日:18時〜、たそがれの経産省キャンドル包囲「人間の鎖」アクション http://nonukes.jp/
12月11日:午後、銀座→東電前→経産省本館へのデモ!(予定)
★この1ヶ月の間に、みなさんのアクション企画を募集します。
今までのアクション例:座り込み、抗議アピール、デモ、ライブ、上映会、学習会、展示会、カフェ、経産省への大声大会など。
決まったアクションは、「テントひろば」「人間の鎖アクション」のHPで随時公開していきます。
★呼びかけ:「11・11−12・11再稼働反対!全国アクション実行委員会」、「経産省前テントひろば」
★連絡先:070−6473−1947 tentohiroba@gmail.com
以上、みなさまのご参加、ご協力をお願いします。
2011年11月9日 経産省前テントひろば運営委員会
連絡先:070−6473−1947 tentohiroba@gmail.com
HP:http://tentohiroba.tumblr.com/
twitter:@tentohiroba
http://tentohiroba.tumblr.com/
声明
「経産省前テントひろば」への妨害に抗議するとともに、みなさまへさらなる支援を呼びかけます。
9月11日に「人間の鎖」が経産省を包囲した直後に、経産省本館前に反原発テントが建てられて2か月が経ちました。テントは3つに増えて今も24時間の泊まり込みが続いています。3.11の福島原発事故を受け、脱原発や福島への補償を求めて動き出した多くの人が出会い、話し合い、行動するための場として広がり続けています。
テント近くでは9月11日〜21日に経産省前で若者たちのハンガーストライキが行われ、10月27日〜29日は「原発いらない福島の女たち」、30日〜11月5日は「原発いらない全国の女たち」の座り込みもテントを活用しながら行われました。そして11月11日に再び「たそがれの経産省キャンドル包囲『人間の鎖』」を迎えます。玄海原発4号機の強引極まりない再稼働、ベトナムへの原発輸出の政府合意など、 政府や電力会社の原発推進が加速する中、東京の原発反対アクションは経産省テントの継続とともに進んでいます。
しかしそれゆえに、右翼団体によるテントへの妨害行為が増えています。福島と全国の女性たちの座り込み中から右翼団体の街宣車が何度かテント前に押し寄せ、長時間停車し、座り込みやテントへの非難を大音量で浴びせました。そして全国女性の座り込みが終了したばかりの11月6日の何と午前3時半に街宣車3台で7〜8人が降りてきて2時間にわたって妨害をしてきました。また6日11時過ぎ、17時ごろと街宣車数台〜20台でテントに向かっての大音量の放列が1時間続きました。テントを「不法占拠」「過激派」とレッテル張りし、性差別や民族差別のヘイトスピーチを繰り返しました。こうした卑劣な発言や妨害は社会的に許されない行為です。
そして現場の丸の内警察はこうした違法行為を何ら取り締まらずに放置しており、6日夕方には丸の内署の警備課長が「不法占拠だ、撤去、撤去!」と露骨な発言をしました。そして8日18時ごろには2人の右翼とともにテント内へ侵入し、テント関係者に事情聴取のため警察署への任意同行を要請してきました。任意同行で連れて行き、逮捕に切り替える、という手段と思われます。公安警察もテント入り口まで来て、トラブルを起こすならテントを撤去するぞなどと言ってきました。救援連絡センターから弁護士が駆けつけ、反論し、事なきを得ました。9日昼は数十人の右翼が押し寄せ、テント内に侵入され2時間近く妨害され、私たちはテント前に立てていた数本の旗を撤収することにしました。
こうした一連の妨害から考えられるのは、警察権力が直にテントに介入すると「反原発を求める声と運動をつぶした」という批判を浴びるため、右翼団体と連携しながら介入しているのではないかということ。また社会的注目の集まっていた座り込みの時期には露骨な介入を控えながら、それが終わった隙間を狙ってきただろうということ。そして右翼と警察はテントになにかしら言いがかりをつけて挑発し、揉め事を起こし、こちらがそれに乗ったところで公務執行妨害罪で逮捕し、家宅捜索(ガサ入れ)の名目でテントを撤去、というシナリオを描いていると思われることです。また11月5日早朝には、経産省本館前でトイレを貸すことを求めた男性が何と建造物侵入罪で逮捕され、丸の内署に入れられ、11月16日までの勾留がついてしまいました。これもテントの盛り上がりに対する八つ当たり的な不当弾圧であることは明らかです。
私たちは、警視庁、丸の内警察、右翼団体に対してテントや周辺の人々への一切の妨害、脅迫、弾圧を今すぐ中止することを強く要求します。
その上で、今後も妨害の強まりが予想されます。しかし私たちは常に少人数での対応を強いられています。そこでこの問題に関心を寄せるみなさまに、以下の支援を求めます。
1:この問題やテントの存在、意義を広く伝えて下さい。
経産省前テントひろばは福島と全国の女性の座り込みを通して多くの方が立ち寄るようになりましたが、まだまだ広く知られているとは言えません。マスコミや市民メディアの方に取材を求めるとともに、みなさまには口コミやインターネットで継続的に周囲に伝えて頂くことをお願いします。
2:「経産省前テントひろば」の運営にご参加いただき、泊まり込みや情報発信にご協力ください。
「テントひろば」は様々な団体、個人が集まり運営されています。特に、日々刻々と移り変わる情勢や妨害行為へ対応するためのインターネットでの情報発信メンバーや、テントを維持するための夜間の泊まり込みメンバーが不足しています。直接テントを訪れていただくか、下記の連絡先までご連絡下さい。
3:テントを活用して、盛り上げてください!
常にテントに人と注目が集まっているようにすることが、妨害や弾圧をさせないためにも最も有効です。そこで私たちは「11・11−12・11再稼働反対!全国アクション実行委員会」とともに、11月11日から12月11日までの1ヶ月間を「再稼働反対アクション月間」と打ち出し、原発に反対してきたさまざまな団体・個人の方々に経産省前テントとその周辺でアクションを企画することを呼びかけます。それらを通して絶えず経産省に圧力をかけ、人と人がつながる場を作り出し、より大きな運動にしていければ、妨害をはねのけ、原発は止められます。ぜひ、ご協力をお願いします。
「再稼働反対アクション月間@経産省前テント」
★2011年11月11日(金)〜12月11日(日)
★場所:「経産省前テントひろば」 http://tentohiroba.tumblr.com/
★現在の決定アクション
11月11日:18時〜、たそがれの経産省キャンドル包囲「人間の鎖」アクション http://nonukes.jp/
12月11日:午後、銀座→東電前→経産省本館へのデモ!(予定)
★この1ヶ月の間に、みなさんのアクション企画を募集します。
今までのアクション例:座り込み、抗議アピール、デモ、ライブ、上映会、学習会、展示会、カフェ、経産省への大声大会など。
決まったアクションは、「テントひろば」「人間の鎖アクション」のHPで随時公開していきます。
★呼びかけ:「11・11−12・11再稼働反対!全国アクション実行委員会」、「経産省前テントひろば」
★連絡先:070−6473−1947 tentohiroba@gmail.com
以上、みなさまのご参加、ご協力をお願いします。
2011年11月9日 経産省前テントひろば運営委員会
連絡先:070−6473−1947 tentohiroba@gmail.com
HP:http://tentohiroba.tumblr.com/
twitter:@tentohiroba
福島原発の廃炉へのプロセスはまったく見通しがたっていない。事故の現場では、被曝にさらされながら綱渡りの作業が続いている。にもかかわらず、政府は未だに原発にこだわり、各電力会社も停止中の原発再稼働の方針を捨てていない。原発の輸出も当然のように推進されている。しかし、闘いは始まったばかり。少なくとも、あと何十年も続く闘いにならざるを得ないのだが、何十年という年月は、民衆の闘いのなかでは決して長くはない。数世紀を闘い続ける民衆は世界中に少なくない。たとえ、私たちが原発を廃止することを選択する政権を獲得したとしてもそれで問題が解決するわけではない。すべての原発を廃炉にして処分する技術すら持ち得ていないのだ。
<11・11-12・11 再稼働反対!全国アクション : http://nonukes.jp/ >
★ 11・11 たそがれの経産省 キャンドル包囲「人間の鎖」アクション
ウソと“やらせ”を駆使して「安全神話」をつくり上げ、東電福島第一原
発事故を引き起こした最大の責任官庁である経済産業省と原子力安全・保
安院。事故は収束せず、放射能汚染は拡大し、今なお、子どもや労働者を
含む多くの人々が被ばくを強いられ続けています。
事故原因は未解明であり、安全指針も失効(2〜3年後に改定)し、原発の
安全を保証するものは何ひとつないにも関わらず、電力会社と経産省・保
安院は「ストレステスト」という名のアリバイテストによる再稼働(無免
許運転!)に動いています。
9・11の「人間の鎖」行動の成功を引き継いで、再び経産省・保安院をキ
ャンドルを掲げて取り囲み、再稼働の中止と全原発停止、さらには「自主」
避難者への賠償など「避難の権利」の確立を求めます。
全54基中、稼働中の原発はわずか11基に過ぎません。「原発なしでも大丈
夫」な日本はすぐそこまで来ています。再稼働を止めて、脱原発へ!
11・11「人間の鎖」アクションにぜひご参加ください。
【「私は囲みます!」参加宣言者を急募中!】
1周900mの包囲めざして鎖を延ばすイメージで、名乗りをあげてください。
(もちろん、事前表明がなくても当日の参加は歓迎!)
↓
☆登録はこちらから ⇒ http://nonukes.jp/wordpress/?p=865
(ウェブサイトには、登録ごとに経産省を囲む人が増える図も掲載)
≪ 2011年11月11日(金) 午後6時〜7時30分 ≫
◆ 午後6時 経済産業省本館正門前に集合
(「霞ヶ関駅」:千代田線・日比谷線A12出口すぐ、丸の内線A5出口200m)
正門前でアピール(6:10〜6:45)後、人間の鎖行動へ!
[鎖の完成予定は1回目が7時、2回目が7時25分です]
【発言】
山口幸夫さん(原子力資料情報室・共同代表)
山本太郎さん(俳優)
山城保男さん(横須賀市議/原子力空母反対運動)
県外避難者から
原発輸出反対運動から
服部良一衆院議員(予定)など、国会から
経産省前テントひろば
【歌】制服向上委員会
【要請書の提出と報告】実行委員会のものと原発現地から届いた要請書を
午後6時過ぎに経産省内の大臣官房で読み上げて提出します。
【経産省周囲の各面での集会・パフォーマンス】
※午後4時〜5時30分に
霞ヶ関周辺(有楽町駅、新橋駅、東電前、日比谷公園、経産省前、文科省前)
で街頭・駅頭アピール(チラシまきなど)を行います。
⇒午後4時、正門脇の経産省前テントひろば
( http://tentohiroba.tumblr.com/ )
に集合してください。
★ペンライト、懐中電灯などを持参してください。
プラカード、鳴り物、パフォーマンスなどの持ち寄りも歓迎。
【呼びかけ】 11・11-12・11再稼働反対!全国アクション実行委員会
[連絡先]ピープルズ・プラン研究所
(TEL) 03-6424-5748 (FAX) 03-6424-5749
(E-mail) contact@2011shinsai.info
【ウェブサイト】 http://nonukes.jp/
【ツイッター】 @1111nonukes
◆12月11日(日)午後には、銀座方面から東電(各電力会社)前を通り、
経産省前までのデモを予定しています。
◆11・11〜12・11は「再稼働反対アクション月間@経産省前テント」として、
様々なアクション(デモ、座り込み、ライブ、展示、青空講座、交流会、
大声大会など何でも)を募集します。
◆ぜひ各地でも、再稼働反対の「11・11-12・11」アクションを!
【アクション登録はこちら】
→ http://nonukes.jp/admin/regist_action_form.html
「11・11-12・11」はじめ、年内の再稼働反対・脱原発の各地でのアクショ
ンを登録して下さい。ウェブサイトの地図上に反映されます。
……………………………………………………………………………………
【参加・賛同のお願い】取り組みを支えていただくために。
◇参加・賛同費は、個人1000円・団体3000円です。
◇郵便振替口座 00110−8−694804
◇口座名 再稼働反対・脱原発全国アクション
※振替口座の備考欄に、お名前、肩書き(所属)、お名前の公表の可否を
必ずお書き添えください。
<11・11-12・11 再稼働反対!全国アクション : http://nonukes.jp/ >
★ 11・11 たそがれの経産省 キャンドル包囲「人間の鎖」アクション
ウソと“やらせ”を駆使して「安全神話」をつくり上げ、東電福島第一原
発事故を引き起こした最大の責任官庁である経済産業省と原子力安全・保
安院。事故は収束せず、放射能汚染は拡大し、今なお、子どもや労働者を
含む多くの人々が被ばくを強いられ続けています。
事故原因は未解明であり、安全指針も失効(2〜3年後に改定)し、原発の
安全を保証するものは何ひとつないにも関わらず、電力会社と経産省・保
安院は「ストレステスト」という名のアリバイテストによる再稼働(無免
許運転!)に動いています。
9・11の「人間の鎖」行動の成功を引き継いで、再び経産省・保安院をキ
ャンドルを掲げて取り囲み、再稼働の中止と全原発停止、さらには「自主」
避難者への賠償など「避難の権利」の確立を求めます。
全54基中、稼働中の原発はわずか11基に過ぎません。「原発なしでも大丈
夫」な日本はすぐそこまで来ています。再稼働を止めて、脱原発へ!
11・11「人間の鎖」アクションにぜひご参加ください。
【「私は囲みます!」参加宣言者を急募中!】
1周900mの包囲めざして鎖を延ばすイメージで、名乗りをあげてください。
(もちろん、事前表明がなくても当日の参加は歓迎!)
↓
☆登録はこちらから ⇒ http://nonukes.jp/wordpress/?p=865
(ウェブサイトには、登録ごとに経産省を囲む人が増える図も掲載)
≪ 2011年11月11日(金) 午後6時〜7時30分 ≫
◆ 午後6時 経済産業省本館正門前に集合
(「霞ヶ関駅」:千代田線・日比谷線A12出口すぐ、丸の内線A5出口200m)
正門前でアピール(6:10〜6:45)後、人間の鎖行動へ!
[鎖の完成予定は1回目が7時、2回目が7時25分です]
【発言】
山口幸夫さん(原子力資料情報室・共同代表)
山本太郎さん(俳優)
山城保男さん(横須賀市議/原子力空母反対運動)
県外避難者から
原発輸出反対運動から
服部良一衆院議員(予定)など、国会から
経産省前テントひろば
【歌】制服向上委員会
【要請書の提出と報告】実行委員会のものと原発現地から届いた要請書を
午後6時過ぎに経産省内の大臣官房で読み上げて提出します。
【経産省周囲の各面での集会・パフォーマンス】
※午後4時〜5時30分に
霞ヶ関周辺(有楽町駅、新橋駅、東電前、日比谷公園、経産省前、文科省前)
で街頭・駅頭アピール(チラシまきなど)を行います。
⇒午後4時、正門脇の経産省前テントひろば
( http://tentohiroba.tumblr.com/ )
に集合してください。
★ペンライト、懐中電灯などを持参してください。
プラカード、鳴り物、パフォーマンスなどの持ち寄りも歓迎。
【呼びかけ】 11・11-12・11再稼働反対!全国アクション実行委員会
[連絡先]ピープルズ・プラン研究所
(TEL) 03-6424-5748 (FAX) 03-6424-5749
(E-mail) contact@2011shinsai.info
【ウェブサイト】 http://nonukes.jp/
【ツイッター】 @1111nonukes
◆12月11日(日)午後には、銀座方面から東電(各電力会社)前を通り、
経産省前までのデモを予定しています。
◆11・11〜12・11は「再稼働反対アクション月間@経産省前テント」として、
様々なアクション(デモ、座り込み、ライブ、展示、青空講座、交流会、
大声大会など何でも)を募集します。
◆ぜひ各地でも、再稼働反対の「11・11-12・11」アクションを!
【アクション登録はこちら】
→ http://nonukes.jp/admin/regist_action_form.html
「11・11-12・11」はじめ、年内の再稼働反対・脱原発の各地でのアクショ
ンを登録して下さい。ウェブサイトの地図上に反映されます。
……………………………………………………………………………………
【参加・賛同のお願い】取り組みを支えていただくために。
◇参加・賛同費は、個人1000円・団体3000円です。
◇郵便振替口座 00110−8−694804
◇口座名 再稼働反対・脱原発全国アクション
※振替口座の備考欄に、お名前、肩書き(所属)、お名前の公表の可否を
必ずお書き添えください。
