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トップ  >  旧ブログの投稿原稿  >  2006年の投稿原稿  >  「反資本主義」であるとはどのようなことか
反資本主義

はじめに


マイケル・アルバートは、米国の左翼月刊雑誌ZマガジンとウエッブのZネットを主宰する影響力の大きな左翼知識人の一人である。アルバートは、コミュニティを基盤とした民衆の下からの参加型の経済システムを利潤が支配する資本中心の市場経済に対置する考え方を提起してきた。アルバートは、こうした彼のスタンスからこれまでも何度か世界社会フォーラムに参加し、このフォーラムが持っているオルタナティブな社会への可能性についてこれまでも言及してきた。(注1)その彼が世界社会フォーラムのカラカスでの会議で発言した内容がウエッブに公開されている。(注2)このアルバートの議論が世界社会フォーラムでどのような評価を得たのかはわからない。世界社会フォーラムは多様な議論の併存を特徴とするからアルバートの議論がフォーラムでの議論を代表するわけではないとはいえ、以下で紹介するアルバートの議論は世界社会フォーラムの多くの参加者にとっては受け入れやすい「もうひとつの世界」の共通認識になりうる可能性をもっていると思う。

(注1)ジャイ・セン編『帝国への挑戦』、武藤一羊他監訳、作品社所収のアルバートのエッセイ参照。

(注2)Michael Albert, “Anti Capitalist Strategy, opening presentation by Michael Albert for A Debate on Anti CapitalistStrategy with John Holloway),Z magazine


しかし、このアルバートの議論を読んである種の絶望に近い感想を持たざるを得なかった。アルバートの議論の中心テーマは反資本主義戦略にある。したがって彼の議論は、世界社会フォーラムで繰り返し議論されてきた「もうひとつの世界」の議論だけでなく、現在の反グローバリズムの運動全体にかかわる観点でもある。この点からすれば、昨年秋の韓国釜山のAPECや香港のWTO閣僚会合で争点となってきた新自由主義に基づく経済発展、経済開発に対するオルタナティブの議論にも共通する問題提起であると見ることができる。しかし、彼がターゲットとしている資本主義の焦点と実際に資本主義が企図している支配の構造との間にはかなりの隔たりがあると思うからだ。(注3)

(注3)アルバートの反資本主義の議論は主として資本主義経済へのオルタナティブに関わる問題提起であり、反グローバリズムの運動のなかで大きな焦点となっているグローバルなミリタリズムの問題には言及していない。反資本主義戦略でこの点を欠いていることが経済のオルタナティブの提起に少なくない影響をもたらすが、本稿ではこの点についての批判は含めない。


このアルバートの議論は、「もうひとつの世界」をスローガンにしながら、このスローガンを繰り返す以上の内実も新しさも出し切れていない世界社会フォーラムの討議水準の現状を端的に示しているのではないかと思う。


参加経済」あるいは「労働者・消費者評議会」


アルバートのカラカス世界社会フォーラムでの発言は「反資本主義戦略論争」を促す目的を持って、反資本主義戦略論争の集会の冒頭で述べられたものだ。彼は最初に、「資本主義など見捨てて先へ進もう」という言い回しを使って、「資本主義を打倒せよ」という伝統的な左翼のアジテーションの含意とは異なる彼の戦略的なスタンスを打ち出した。そこにある敵を倒すことに最大限の力を集中するのではなく、敵の隙をついて、オルタナティブな実践を具体化することにむしろ力を注ごうというものだ。このような意味でのオルタナティブは一歩間違えると単なる資本主義の補完物になったり資本主義を究極的には廃棄しなければならないという目標を見失って資本主義を容認する改良主義に陥る危険性をもつ。アルバートはこの点をもっとも強く自覚している。こうしたアルバートの基本的なスタンスや運動の「方法」論にわたしは特に大きな異論があるわけではない。


アルバートは、反資本主義戦略を端的に、労働者と消費者の自主管理、経済的な平等、社会の階級的性格をなくすこと、資本蓄積や市場原理に支配されない分配の達成、権威主義に反対する政治的な自主管理と要約している。労働者と消費者の自主管理とは、生産活動を資本による経営に委ねるのではなく、生産をになう労働者と生産物を消費する消費者(あるいはかれらの代表)からなる評議会(council)や総会(Assembly)に基づく意志決定に転換すべきだという考え方である。経済的な平等は、原則として全ての人々の所得の平等を保障しつつ、労働の辛さや苛酷さに応じて所得を増やすことを意味している。社会の階級的な性格をなくしていくということ(classlessness)とは、生産手段の所有によって所得を得るような仕組みを廃止することだけでなく、医師、法律家、管理者、技術者など労働者階級に対して大きな権限をもち、経済をコーディネートする力をのつ集団による支配(これを彼は調整主義coordinatorismと呼ぶ)をなくすことを意味している。人口の一部が専門職の技能を独占することがないような新たな分業関係をつくり出すことが必要だという。アルバートにとって、この調整主義に陥らない闘いは20世紀資本主義の過ちに陥らないためにかなり重要な意味を持っている。アルバートは、20世紀の社会主義とは調整主義であったにすぎないのだと批判し、こうした20世紀型の社会主義は資本主義を見捨てたわたしたちが選択すべきモデルではないという。


アルバートは、労働者と消費者が経済活動の実権を握る参加経済(participatory economy、略してpareconと呼ばれる)とこれを実施する組織としての評議会を中心として、資本の利益を優先させる市場経済を廃棄することを目指すべきだという。同時に、こうした経済における労働者と消費者による民主主義的な意志決定の力を獲得するだけでなく、同様のことが国家の統治にも適用されるべきであるという。これが資本主義における権威主義的な国家機構を廃棄して、政治的な自主管理を目指すべきであると主張している。


わたしは、このアルバートの議論の基本線に反対ではない。むしろ極めて妥当な反資本主義戦略ですらあると思う。その上で、わたしが感じる彼の議論への異論は、ふたつある。ひとつは、このアルバートの議論には実は新しい観点が乏しいということ、もうひとつは、労働者も消費者も(あるいは民衆といってもいいが)あらかじめ反資本主義的な主体であるわけではなく、むしろ彼らの主体性こそが争点となっているとういう現状の軽視である。


彼が主張する評議会という発想は決して新しいものではない。ロシア革命が当初もっていた理念は労働者(および兵士も含む)評議会(ソヴィエト)であり、ドイツ革命のカール・コルシュやローザ・ルクセンブルク、イタリアのグラムシなどの評議会運動、日本ではあまり知られていないが(米国では日本よりも知られているかもしれない)オランダのアントン・パンネクックの評議会社会主義の思想は20世紀の社会主義運動において画期的な意味をもっていた。「工場評議会」とよばれ、生産点における意思決定権を資本家から奪い、労働者による生産過程の自主管理を主張する考え方は、労資関係を資本の存在を前提とした賃金交渉や労働条件に還元する労働組合運動ではなく、資本を廃棄して社会主義を構想する階級闘争の基本的な理念だった。この理念は、その後、一方で官僚主義的な共産党や労資関係の前提を容認する労働組合によって横取りされ、その理念は敗北の道を歩み、その結果として主流の社会主義ブロックが形成されることになるが、他方でこうした反権威主義的で制度化されない左翼の自立・自生的で多様・分散的な運動が権威主義的な左翼の外部に次々と登場する。1960年代の公民権運動や女性解放運動、68年から69年にかけて続発した先進国の学生、労働者の反乱、ベトナム反戦運動、そして70年代以降、これらの運動は、エコロジー、ジェンダーやセクシュアリティ、野宿者、移民など多様な民衆が主体となる多様なアイデンティティに基づく運動へとさらに拡散する。そして、70年代にイタリアではアウトノミアの運動が労働倫理を強いる左右の支配的なイデオロギーを拒絶し、権威主義化したイタリア共産党の地方政治や警察支配に抵抗して登場する。社会主義圏における資本主義に与しない反体制運動も長い歴史をもつ。ブタペスト学派と呼ばれる知識人の潮流は思想的にも大きな影響を与えたし、ポーランドの連帯労組の運動が初期にもっていた運動は、既成の社会主義を変革するオルタナティブな社会主義の可能性を秘めていた。こうして、20世紀初期の工場評議会の理念は、工場から都市へ、都市からパーソナルな空間へと外延的にも内包的にも拡張されてきた。(注4)

(注4)詳しくは、小倉利丸『支配の「経済学」』、れんが書房新社、1984年、参照


このことは、日本の戦後民衆運動からみても決して例外ではない。敗戦直後の生産管理闘争、三井三池の地域と生活の総体をかけた闘争(これはその後、多くの農民運動や三里塚や水俣の闘いにも連なることになる)、60年代の全学連、全共闘運動、反原発運動などの反巨大開発運動などにも息づいてきた。これらの運動では、常に意思決定の民主主義の実践、利益動機に基づかない生産活動、権威主義的な既成左翼への批判が大きな課題となり、さまざまな思想的な実験も繰り返されてきた。(注5)

(注5)日本の戦後の労働運動、社会運動、消費者運動については、小倉利丸編『労働・消費・社会運動』、社会評論社、参照


これらの運動の歴史のなかで議論されてきたことは、アルバートの問題提起を明らかに超えるさまざまな議論がすでに論じられてもいたたとえば、所得の考え方について、アルバートは労働に基づく所得をその基本に据えるが、70年代以降、失業やレイオフを繰り返されるなかで、所得を労働と結びつける考え方に大きな疑問が提起された。労働するかしないかにかかわらず、人間の基本的な必要を満たす所得は権利として保障されるべきだという考え方が、イギリスのフォードで働く労働者たちがレイオフに対抗して提起した。同様の主張は、まったく別の筋から、つまり女性解放運動から「家事労働に賃金を」というスローガンが「働かない権利」とともに提起される。家事は労働だ、労働である以上ストライキの権利もある、というわけだ。


アルバートは、労働者と消費者の評議会によって生産と消費の自主管理を理想的なモデルとして提起しているが、ここには暗黙のうちに「労働」が人間の行為カテゴリーのなかで特権的な位置を占めているという認識に基づいている。「働かない」ということが何かまったく無駄で無意味な人生の過ごしかたであるかのように前提しかねないアルバートの「参加経済」は、働かない時間の創造的な可能性への評価軸を持ち得ていないという点で、これまでの労働者や民衆が創意工夫してきた反労働という観点を汲み取り得ていないと言わざるを得ない。これは、資本主義を「置き去り」にしてそのすき間にオルタナティブの種を植えるということであるとすれば、当然のこととして、資本主義のなかで大衆が常識として抱いている労働への倫理観と怠惰を罪とする考え方や、労働と非労働の資本による制度化を覆せる価値観の種を育てなければならない。資本にとって労働はそれなしには生きられない資源であるとすれば、「怠惰」にはそれなりの積極的な反資本主義の意味はあるのだ。(注6)

(注6)労働への拒否の思想は、現在の反グローバリズムのなかではアナキストたちのなかで主張されることが多い。たとえば、ボブ・ブラックの「労働廃絶論」参照。日本語訳が、以下にある。http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/black1.html  調整主義批判としてアルバートが提起した問題もまたよく知られてる問題である。社会主義における官僚制批判だけでなく、資本主義の生産関係が生産力の発展にとっての桎梏となるという生産力至上主義への批判は、技術論のオルタナティブや工業化社会のオルタナティブとして、エコロジストにとっては馴染み深い議論である。こうした議論は、イリイチを引合に出すまでもなく、すでに半世紀近い歴史をもつし、日本のなかでも武谷三男、中岡哲郎、湯浅欽史など技術批判の流れの中で、繰り返し指摘されてきた論点でもある。


「反資本主義」の射程距離---プリミティビストの視点


アルバートは、資本主義の富の生産と分配のもつヒエラルキー的中央集権的で排他的な意志決定に対して、徹底した水平的でコミュニティに根ざした下からの意志決定を対置するが、こうしたオルタナティブは、単純に近代主義の組織論や統治論を否定すればよいというものではない。日本の経験は、むしろ資本主義が常に近代以前的な社会諸関係を味方に引き入れてきたことを教えてくれている。そして、ときにはこの近代以前的なものを「近代の超克」などと位置づけたり、日本文化の伝統や固有性とみなして近代ナショナリズムの再生産装置に組み込む。これは第三世界ではおなじみの近代化の姿だ。この意味で、反資本主義が単なる反近代であるだけでは意味をなさない。さらに資本主義が味方につけている「近代以前的なもの」をどこまで遡って否定の対象にできるかという問題に取り組まなければならない。 この点でアルバートの反資本主義戦略の射程距離は、歴史認識の点で必ずしも十分な内容をもっているとはいいがたい。


反グローバリズムの議論のなかで、このアルバートの議論と対照的で、かなり極端だが検討の余地のある議論を紹介しておこう。エコロジストのなかでも徹底した文明批判を展開する「プリミティビスト」とよばれる人たちの議論である。かれらは、反資本主義や反社会主義ではまったく不十分だと考えている。プリミティビズトのイデオローグの一人で、チョムスキーの論敵ともいえるジョン・ザーザンは、近代資本主義批判が往々にして近代化=工業化批判となる反面、農業への過剰な賛美に陥ることに対しても批判を投げかける。(注7)

(注7)ここでの議論は主として以下による。John Zerzan, Future Primitive & other essays, Autonomedia, 1994.


ザーザンは、人類史を見る尺度を旧石器時代を含めた200万年にとる。そして彼は、とりわけこの人類の歴史の大半をしめる旧石器時代(200万年前から紀元前1万年)に着目して、この気の遠くなるような長い時間を人類はほとんど技術の進歩もなく、粗末な打製石器で暮らしてきことに着目して、なぜ旧石器時代の人類はこれほどの長期にわたって進歩や発展と無関係に生活しつづけたのかと問いかける。ザーザンの答えは非常にシンプルである。この旧石器の人類は、実は進歩とか発展を必要としない非常に安定した社会を形成していたからだというのだ。これに対して、いわゆる文明の時代にはいって、人類は野性の動植物を飼い慣らし、農業や牧畜が始まる。その結果、むしろ人類は安定性を失うようになった。現在の社会がもっている進歩や発展に対する高い価値は、この不安定を正当化するイデオロギーでしかない。現代の人類は不安定を根源に抱えこんでしまったが故に、この不安定を解消しようとして右往左往する、これが文明後の人類の姿ということになる。


アルバートは調整主義をもたらす専門職による労働者支配を問題にしたが、ザーザンにいわせればそもそも農業の始まりにともなう労働の分業が、それまで人々が皆もっていた自然や自己の身体についての全体的な知識や経験が奪われ、世界についての知識は分業に合わせて断片化されるようになる。こうして多くの人々が世界の全体を「理解」できなくなるのと反対に、社会のなかのある集団が世界についての知識を占有するようになる。農業や家畜の飼育は、自然を人間の「外部」にあるものとみなして、人間の意思によって飼い慣らすという考え方を生みだす。そして世界についての知識、すなわち飼い慣らすべき自然についての知識を持つ者が大きな影響力を獲得するようになる。こうして宗教的な観念が生まれ、神話を生み出され、シャーマンのような自然を支配できるとみなされる者を生み、女性を「自然」とみなして飼い慣らしの対象と考える家父長制を生む。専門家の知識独占の根源をこうした自然を飼い慣らそうとしてきた文明の根底に本質的なものとみる考え方からすれば、分業という労働の在り方そのものが根源的に知識に基づく他者への支配をはらむことになる。


わたしは、人間の世界認識が分業に組み込まれた社会を前提としたばあいに全体性を喪失するだろうという想定が間違っているとは思わないし、他方で、こうした世界についての理解が「個人」レベルでは断片化されるのに対応して、「世界とはこのようなものである」とその「全体性」を指し示す力をもつと称する人々が登場するだろうということもその通りだとおもう。断片化された世界を生きる人々がこの外挿された世界観を媒介に社会の構成員としての社会へに帰属意識や集団としてのアイデンティティの共有がなければ社会は解体するだろうからである。人々が媒介なしに世界についての全体理解を獲得できるための社会的な条件を考えた場合、分業の廃棄は必要条件のひとつであるだろうと思う。とすれば、分業の廃棄から全体性の再獲得へという課題がここから問題として提起することが可能だが、分業の廃棄に基づく社会を構想し得たことがないわたしたちの今現在の想像力ではその具合的な姿をイメージすることは難しい。しかし、少なくともアルバートの調整主義批判の射程距離では、テクノクラート支配に対する根源的な解決といえるのか、という疑問をプリミティビズムの議論から受け取ることはできるはずだ。 現実主義的なアナキストや左翼はザーザンやプリミテイヴィズムを際物扱いする向きもある。とはいえ、かれの議論の基本は、マーシャル・サーリンズ(注8)などの人類学の成果を反資本主義、反文明の運動論に転用したものであって、理論の基本は人類学ではよく知られた議論を下敷にしており、この意味では決して荒唐無稽な話ではない。(いうまでもなく、旧石器時代同様の生活に戻ることを実践し、あらゆる文明を拒否するような運動は荒唐無稽である)また彼の考え方は、200万年という変化を不要とした人類の膨大な時間を無視してきた文明以後の人類の歴史観そのものを相対化するという点で、議論してみる価値は十分にある。万世一系神話をもちだし、2600年の歴史を自慢する天皇制も、200万年の人類史という時間軸のなかではほとんどなんの意味ももち得ない。天皇制のように近代資本主義批判だけでは解決できない「日本」の近代以前に根源をもつ支配の問題を考える上で、近代以前的な要素も含めて(マルクス的な言い回しでいえば人類前史の総体を射程に入れて)批判の拠点を構築するうえで、200万年という時間軸は示唆的であると思う。また、反米や反近代の運動がいわゆる宗教的な原理主義の影響を大きく被っている現状(これは、イスラム原理主義だけでなく、ヒンドゥ原理主義やキリスト教原理主義、シオニズムにも、あるいは日本の天皇主義右翼にも共通する)の対立の構図に足をすくわれないためには、近代批判や工業主義批判だけでは大きな限界があることも明らかだ。

(注8)マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』、山内昶訳、法政大学出版局、1984年。


ポストモダンのイデオロギー装置---社会資本


プリミティビストの議論はこれくらいにして次の論点に移ろう。次にわたしが取り上げたいのは、アルバートが期待するほどに、労働者や消費者の「評議会」なるものに期待できるかどうか、である。資本と闘うよりも出世したい労働者、反グローバリズムよりもマクドナルドやスターバックスを愛してやまない消費者、こうした現実を変えることなく組織された「評議会」は、かつての日本の町内会や隣組のようなファシズムを下から支えるだけの組織にしかならない。このことをアルバートは十分承知しているが、彼の楽観的な主張は、資本の重要な戦略の一面を明らかに見落としている。


アルバートの主張する「参加経済」という考え方の基本は、労働者や消費者が下からの合意形成をトップダウンの資本主義的な支配に対置するという考え方だ。この考え方は、資本主義がボトムアップの合意形成と相容れないという前提に立っている。確かに、企業内部の経営に関わる意思決定から労働者は排除され、経営集団と会社の所有者である株主の支配が優先する。この限りで、資本の経営に対置される労働者と消費者による合意に基づく経済の運営に意味がないわけではない。しかし、ふたつの問題をここでは指摘しておきたい。


ひとつは、ボトムアップは資本主義の要請でもあるということだ。近代国民国家が普通選挙に基づく民主主義の政治体制をとるかぎり、大衆的な合意を下から構築できるかどうかは、政治権力の正統性の維持にとって大きな前提条件となることはまちがいない。同様に、第三世界の開発の場面で見た場合、トップダウン型の開発が必ずしも効果的とはいえないことが知られている。たとえば、世界銀行の開発手法のひとつ、「社会資本social capital」(注9)という考え方はその典型的な例である。世界銀行は社会資本という概念をを次のように使う。

(注9)日本語では従来社会資本という場合は、政府が道路・港湾あるいは社会生活基盤となる分野への投資を指しているが、この意味での社会資本は英語ではsocial overhead capitalと呼ばれている。従来の意味での社会資本とここで取り上げている社会資本との間には共通性が見出せないので文脈上混同されることは少ないが、誤解を避けるためにsocial capitalを社会関係資本と訳す場合がある


「制度とは人間行動の調整を円滑にするルール、組織、社会的な規範などのことである。非公式なものとしては、信頼やその他の社会資本(社会行動を支配する、深く根ざしている規範を含む)をはじめとして、調整のための非公式なメカニズムやネットワークなどがある。公式的なものとしては、コード化されたルールや法律、およびそれを制定、修正、解釈、執行するための手続きや組織(議会から中央銀行まで)がある。」10 (注10)『世界開発報告』2003年版、64ページ 「社会の結束と信頼は規制や契約履行のコストを低減し---投資環境にとってプラスとなる。信頼と価値や期待の共有(社会資本)は協調関係を促し、企業が、投資についての考えに即してその計画が水平に拡がることを促進する。ゆたかな信頼のネットワークはまた参加者がお互いに信頼のおける情報を相互に交換し、政治家の行動を監視すること容易にする。」(注11)

(注11)『世界開発報告』2005年版、51ページ


ここで強調されている「信頼」や「社会的紐帯」は場合によってはネガティブな効果も持ち、「上位の社会資本」と世界銀行が呼ぶ部分(社会の支配層が構築する社会資本)が陥りがちな汚職のネットワークや、コミュニティレベルで生じがちなマイノリティ排除の手段として社会資本が力を発揮する場合がある。世界銀行はこのネガティブな性質も考慮に入れたうえで、社会(とりわけコミュニティ)が価値観を共有し、信頼関係を構築できることが資本の投資環境を下支えする重要な条件であるとみて、この社会資本形成を開発の重要な条件と位置づけて、とりわけ「市民社会」がこの分野で果たす役割の重要性を強調する。 世銀を含め、資本主義のグローバル化を推進する先進国や国際機関は、必ずしも露骨なトップダウンだけに依存しているわけではない。とりわけ構造調整政策が大きな抵抗運動に直面するなかで、下からの合意形成の技術が次々に投入されるようになっている。開発機関は、コミュニティでリーダーシップをとれるような人材を見出し教育し、こうしたリーダー的存在とコミュニティ住民との間に生まれる信頼関係を梃子に、参加や自主的な意志決定とそれを支える民主主義が持ち込まれる。こうしたコミュニティの住民による自律的自発的な合意形成のインフォーマルな集団を市場経済の活動主体として活用する。民主主義と同時に、近代資本主義の企業組織に適応できる労働や生活様式、世界観が自発的な意志決定の装いのもとに持ち込まれ、こうした枠組の中を前提とした貧困からの克服が重視される。 しかし実はこうした動きは、皮肉なことに、新自由主義的なグローバル化とともに注目されるようになった手法でもある、新自由主義的なグローバル化に伴なって、政府の機能が低下・衰退するのを補完するようにして、世銀などの開発機関は、現地政府を迂回してコミュニティに直接関与する方法の一環として社会資本の発想を持ち込んだといえる側面がある。つまり、従来であれば、コミュニティの基本的な生活の基盤や福祉・社会保障は政府の役割だったが、こうした役割を政府が担えなくなる(財政危機や構造調整政策による縛り)につれて、市場経済にコミュニティを統合するものとして、従来からある地域住民の信頼や相互扶助の人的なネットワークを開発機関のイニシアチブで経済開発に統合するという考え方である。


ジョン・ハリスも指摘しているように、世銀の社会資本の考え方は、ロバート・パトナムのイタリアや米国のコミュニティ開発における地域住民のインフォーマルな信頼のネットワークへの着目などの社会資本の考え方に影響されているといってよい。(注12)しかし、このパトナムによる社会資本の考え方には、いくつかの大きな疑問が提起されている。ジョン・ハリスは、社会資本という概念は、そもそも経済的な概念としての「資本」を人格的な概念である信頼やコミュニティに共通する価値観など経済計算に馴染まない概念に拡張することそのものの問題があるだけでなく、下からのコミュニティレベルでの自発的な合意形成を政治的な過程から切り離して脱政治化する危険を指摘している。(注13)たとえば、農村で用いる農業用水の扱いは、コミュニティレベルで決定できる事柄と治水事業や河川管理などより大規模な地域全体の水開発とかかわる意志決定や政府の財政支出と不可分な場合がある。にもかかわらず、コミュニティの開発をこうしたマクロな政治経済的な構造から切り離して下からの意志決定に還元することは、コミュニティがより大きな政治経済的な権力構造によって影響を受けている点を軽視あるいは無視して、コミュニティ構成員相互の人間関係を過大評価することになる。コミュニティの個々の構成員の個人的な経験や主観に則せば自主的な参加と討議に基づく意志決定であるが、その決定はよりマクロなレベルから眺めてみると、当事者の主観的な意思や意図には見出せない(したがってインタビュウなどでは明示されない)権力関係が実はもっとも大きな力をもつことは決してめずらしくない。

(注12)John Harriss, De Politicising Development, The World Bank and Social Capital, LeftWord Books, New Delhi, 2001.パトナムの著作については、特に以下を参照。Robert D. Putnum, Making Democracy Work, Princeton Univ. Press, 1994, Bowling Alone, Touchstone, 2001.

(注13)Ibid., chap 6.


一例をあげてみよう。昨年のWTO香港閣僚会合で日本の経産省は、アフリカの貧困対策の一環として「一村一品運動」の導入を提言した(注14)が、こうした提言の実施には、現場のコミュニティの下からの合意形成なしにトップダウンで頭ごなしに実施しても効果がえられない。経産省の目論見は、この地方の特産物を先進国向けの輸出ルートに乗せること(だからWTOで提言されているわけだが)であって、地域コミュニティの経済をグローバル経済に統合することを通じた貧困対策である。経産省はこの「一村一品」運動をこうした目的にみあう方向でコミュニティで合意が形成されるように、NGOや市民社会組織を動員して、コミュニティのリーダーや有力者を説得し、意思の調整をはかるだろう。これは、ミクロな権力関係がマクロなそれに接合し、政治のプロセスが社会の内部に埋め込まれ、政治過程が非政治化の過程のなかにもぐりこむ権力構造のかなめの位置を占める。こうしたミクロ-マクロの権力構造をふまえて、先進国政府や国際機関が資金や人員を投入するが、それは実体としてトップダウンであるとしても当事者意識のなかではボトムアプとして受け取られるように設計されるに違いない。

(注14)2005年12月20日、大臣会見参照。


選択肢はあるのか


アルバートが評議会によって構想しようとしている労働者や消費者による自主管理は、参加と民主的な意志決定という社会資本戦略をとる開発機関や政府のコミュニティ統合戦略と競合する。この競合を前提とせずに、資本や政府をトップダウンの古典的なマクロ権力を想定して、これに対するオルタナティブというだけでは太刀打できない。むしろ信頼や価値観といった人間関係を資本蓄積に動員する社会資本の考え方は、批判を明確ポストモダン資本主義のイデオロギー装置として重要であってに焦点化して課題として取り組まなければならない。(注15)

(注15)本稿の範囲を超えるので詳しく言及しないが、この社会資本論は、日本の経験でいえば、町内会、企業城下町におけるまちぐるみの企業への同調、御用組合など近代日本の大衆が下から日本の資本主義を支えた例と無関係ではない。また、日本国内の国民保護法制や治安対策のための住民動員を支える考え方とも通じるものがある。この点では、国家の安全保障への対抗概念としての民衆の安全保障の理論的な再構築に際しても社会資本論批判は欠かせない論点をなすと思われる。


社会資本戦略は、アルバートが考える労働者・消費者の評議会や草の根の反グローバリズム運動へのあきらかな対抗戦略なのである。そしてむしろ今、この点こそが争点化されなければならない。 民衆(労働者であれ消費者であれ市民であれ)の意思決定は必ずしも万能でもなければ間違うこともある。民主主義は決して万能ではない。戦争を促したりマイノリティの排除や差別を肯定する意志決定が民主主義の手続きで実行された例はいくらでも見出せる。特にナショナリズムの意識が強まる状況のなかで、下層大衆の意識が排外主義へと向かう傾向は先進国、第三世界の別なく広範に見出される。現状は、たとえ民衆の要求が反資本主義であってもそれが社会主義への要求にはなりえていないという地点にある。むしろグローバリズムのオルタナティブとしての保護主義は、右翼ナショナリストや宗教原理主義の要求でもあり、左翼の専売特許ではない。コミュニティを下から組織することは、右翼や宗教原理主義も世銀や先進国政府の開発戦略もともに主要な戦略課題としているのであって、それ自体が明らかにヘゲモニー争奪の闘争場なのである。この点を踏まえたとき、先進国の消費主義への批判や企業の利潤優先の投資行動への批判が、ナショナリズムを強化しない方向へ、あるいは宗教原理主義へと向かわない方向へとさらに意識的に問題を投げかける必要がある。


グローバルな資本主義の側には民衆の統合を可能にするうえでいくつかの大きなメリットがある。それは、市場経済がもたらすであろう富や自由、民主主義、進歩といった西欧近代の価値観などの神話(イデオロギー)を味方につけて、コミュニティの教育やエンパワメントのプログラムを組む経験に長けていることと、これらを支える豊富な人的資源と巨額な資金的な支援体制があることだ。他方で、宗教的な原理主義やナショナリズムは、経済的な土台は脆弱であるが、伝統的な価値、宗教的な信仰や文化(これらは往々にして帝国主義支配のなかでこれに対する抗体として強化される場合がある)を梃子に民衆を統合することにかけてはかなり有利な条件を得ている。これに対して、市場経済の罠を避け、宗教的原理主義やナショナリズムに資本の搾取からの庇護を求めず、20世紀の社会主義の権威主義に陥らない選択肢が具体的な戦略として集合的な勢力によって提起されるというには至っていない。アルバートはこの選択肢を提起しようとしたという点ではおおいに称賛されなければならないが、多くの疑問が残らざるを得なかった。未だ見出しえていない選択肢は、個別のオルタナティブの実践をふまえつつもグローバルな資本主義をその時間と空間の拡がりに見合った規模で批判する作業が必要なことを示唆しているのかもしれない。世界社会フォーラムがこうした論争をうながしうるものであるならば、大きな困難に直面しているとはいえ、いまだその使命は尽きていないと思う。

(初出・『季刊・ピープルズ・プラン』2006年夏号)


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